40.堺の都
鬼虫を退治した桃姫と雉猿狗は、目的地の堺を目指し、東に向かって街道を歩き続けた。
夜の帳が落ちる頃、次の宿場町にたどり着いたふたりが蕎麦屋で食事をとっていると、隣の座敷で座る地元商人の男ふたりが、声をひそめながら会話を始めた。
「よう、あの話聞いたかい徳さん?」
「なんでぇ、あの話ってのは」
「播丸屋の女将さんが殺されたって……首斬られてな」
「ほんとか、それ……」
商人の会話を耳にした桃姫が、ざる蕎麦をすする手を止めると、雉猿狗も湯呑みから水を飲む手を止めた。
「ほんとだよ。しかし、物取りの仕業じゃない……金目のものはなに一つ盗まれてなかったてんだ。でもな」
「なんだい、もったいぶりやがって……」
眉を寄せながら聞き手の男が催促すると、話し手の男はあたりを見回してから口を開いた。
「おかみさんの生首……味噌汁が入った大鍋の中にぶち込まれてたんだってよ……煮込んで食おうとしてたみたいに」
「っ……なんでぇそりゃ……まるで鬼の所業じゃねぇか」
聞き手の男が声を張り上げ、ちゃぶ台に身を乗り出した。雉猿狗が桃姫に静かに声をかける。
「桃姫様、出ましょうか」
「……うん」
桃姫も静かに返すと、手にしていた箸を置き、食べかけのざる蕎麦を残して座敷を立った。
雉猿狗は帯の中から取り出した五十銭をちゃぶ台の上に置くと、桃姫と連れ立って蕎麦屋ののれんをくぐろうとした。
そのとき、男たちの会話の続きが耳に届いて、雉猿狗は足を止めた。
「そんでよ、役人が宿屋の台帳を確認したらな、"子連れの女客"を泊めたって記録が残されてたんだってよ」
「へえ……"子連れ"ねぇ」
「でもよ、そのふたりはもう宿屋にはいなかった……近所の茶屋の女店主いわく、"怪しい子連れの女"を見かけたと……なんでもそいつら、髪の色が──」
男の言葉に神経を尖らせ、体を強張らせた雉猿狗。桃姫はそんな雉猿狗の様子を見て取り、手を掴むと強く引っ張って"播磨蕎麦"と書かれたのれんをくぐり店外に出た。
「……雉猿狗、どうしよう」
大通りに出た桃姫が雉猿狗に声をかけた。この宿場町は前の宿場町よりも栄えており、人通りが多かった。夜にも関わらず並んだ提灯が店先を照らし出す。
雉猿狗はそんな大通りを見ながら考えを巡らせると、蕎麦屋の向かいにある店を見て答えを出した。
「まずは、私たちの目立つ髪を隠しましょう」
雉猿狗の言葉を受けて桃姫が視線の先を見ると、手ぬぐいや木綿布を扱う卸問屋が店を構えていた。
「そして、播磨を離れるのです。一日でも早く堺に到着しましょう」
「うん」
桃姫は頷いて返し、布の卸問屋へと足を向けた。播磨の蕎麦屋での一件のあと、髪を手ぬぐいで隠した桃姫と雉猿狗は東へと一気に旅路を進めた。
宿屋には極力泊まらず、神社や寺の境内で寝泊まりを続ける。そして十日後、播磨を出て摂津に入ったふたりは、目的地である港湾都市・堺にたどり着いた。
「わぁ……こんなに人がいるの、見たことないよ」
白い手ぬぐいで髪を隠した桃姫が、活気ある堺の都を見て驚きの声を上げた。
「堺は、摂津と河内と和泉、この三つの境界にあるので"堺"と呼ばれているそうです。この光景を目にすれば、日ノ本で一番栄えた都だと誰もが認めるはずですね」
雉猿狗は堺にたどり着くまでに見てきたどの町よりも美しく整備された町並みと、あふれんばかりの人波に目を見張りながら口にした。
瀬戸内海に面した大きな港をひっきりなしに行き交う大小の漁船と商船──その青く光り輝く雄大な景色を翡翠色の瞳に映した雉猿狗はほほ笑んだ。
「これだけ人が多くて賑やかな場所なら、鬼も迂闊には襲ってこれないはず……それにほら、あちらをご覧ください、桃姫様」
「……?」
雉猿狗が指差した先に視線を送った桃姫。商店の軒先で、商人と武装した侍がたむろして談笑している様子があった。
「あちらは"会合衆"と呼ばれる方々です。堺の有力商人が侍を雇って、都の平和と秩序を護っておられるのです」
「……それって"安全"ってこと?」
「はい。それに私たちのような流れ者でも、これだけ人が多ければ目立たずに紛れ込むことができます」
雉猿狗はそう言うと、自身の長い銀髪を隠していた紺色の手ぬぐいを解いた。その瞬間、雪のように美しい銀髪が太陽光に照らされながら、さらりと潮風になびいた。
「ちょっと……雉猿狗! だめだよ……人が大勢いるのに!」
「桃姫様、もう髪を隠す必要はないのですよ」
雉猿狗の行動に驚き、あたりを警戒しながら声を出した桃姫に対して、雉猿狗は気持ちよさそうに目を閉じて答えた。
そして両手を広げると、海原から爽やかに吹きつける潮風と穏やかな太陽光を全身で浴びた。
「……本当に?」
「はい。髪を隠していた理由は、堺に到着するまでの間、厄介事に巻き込まれたくなかったからですからね」
雉猿狗は青空に向かって気持ちよさそうに伸びをした後、翡翠色の瞳を開いて桃姫を見た。
「そもそも私たちは、なにもやましいことはしていないのですから。堺では自由に堂々と暮らしていいんですよ、桃姫様」
凛と胸を張った雉猿狗の言葉を聞いた桃姫は、濃桃色の瞳を希望に光り輝かせた。
「うん!」
「あはは。よいお返事です」
桃姫の元気の良い返事を聞いて笑った雉猿狗。桃姫は頭に巻いていた白い手ぬぐいを解くと、桃色の長い髪をふわりと潮風になびかせた。
次の瞬間、ひときわ強く吹いた一陣の風が、桃姫が手にしていた手ぬぐいを奪い取って持ち上げ、ひらひらと上空に運んでいく。
「あっ!」
突き抜けるような青空を舞い飛ぶ白い手ぬぐいを見上げながら桃姫が声を漏らすと、桃色の髪をなびかせる桃姫の頭に雉猿狗がそっと手を置いた。
「桃姫様。私たち、この場所で暮らしましょう。そして、強くなりましょう」
空を舞う手ぬぐいに滑空しながら近づいてきたカモメの姿を眺めた雉猿狗は、青を反射させた翡翠色の瞳を細めながら告げ、桃姫の髪をやさしく撫でる。
「うん。ふたりで強くなろう、雉猿狗」
桃姫は宣言するようにそう言って力強く頷くと、胸がすくような青い海と青い空をふたりで眺めながら、鬼退治の決意と覚悟をよりいっそう強めるのであった。
一方その頃──鬼ヶ島、鬼ノ城。腐敗した赤土が広がる裏庭の畑で、前鬼と後鬼が大きな鍬を振るい、何やら穴を掘っていた。
「もうよい、下がれ」
役小角がしゃがれ声で告げると、二体の大鬼は穴を掘る手を止め、鍬を肩に担いで役小角の後ろに下がった。
一歩前に出た役小角が掘られた穴の中をのぞき込むと、穿たれた赤土の斜面から数匹の鬼醒蟲がもぞもぞと蠢いているのが見えた。
「行者様、お待たせいたしました」
役小角は背後からかけられた妖艶な声に振り返る。黒く巨大な鬼ノ城を背景にしてしなやかに歩いてきた鬼蝶。その両腕には白い布で巻かれた物体を抱えていた。
「いや、待ってはおらんよ。かかか」
役小角は満面の笑みを浮かべながら、鬼蝶の左耳の上に挿された赤いかんざしをちらりと見やった。
「そうですか。別れの"おめかし"を施していたので、ずいぶんと時間がかかってしまったかと」
鬼蝶がそう言って前鬼と後鬼の隣を通ろうとすると、鬼蝶の抱える物体に向けて二体の大鬼は前傾姿勢になって鼻を鳴らし、口からよだれを滴らせた。
「これ、やめんか。まったく、下品な鬼どもじゃな」
「ふふふ。申し訳ございません、これはあなた方の"おやつ"ではないのですよ」
前鬼と後鬼を叱りつけた役小角。怒られて姿勢を正した二体の大鬼を横目で見ながら苦笑した鬼蝶は、鬼醒蟲が待つ穴の前まで移動した。
「それでは……行者様」
「うむ」
鬼蝶は役小角に確認を取ると、両腕に抱えた白い布で巻かれた物体を穴の中にゆっくりと降ろした。
次いで、役小角が右手に携えた〈黄金の錫杖〉で赤土をトンと突いた瞬間、中に潜んでいた鬼醒蟲の群れが一斉に白い布めがけて襲いかかった。
白い布は、またたく間にびっしりと鬼醒蟲が生えたおぞましい赤い布へと変貌した。
「…………」
鬼蝶はその凄惨な光景を眺めながら目を細め、黄色い瞳の中央に宿る"鬼"の文字を赤く光らせた。
「このおつるという娘……鬼蝶殿の手下として育てるつもりであったのであろう?」
鬼醒蟲の群れに食いつかれているその物体を見下ろしながら役小角が言うと、鬼蝶は深いため息を漏らした。
「はい……ですが、私の見当違いだったようで。残念です」
「そうか。まぁ、焦らず新しいおなごを見つけるがよろしい。鬼蝶殿の手下に相応しい村娘をのう」
「はい。そうさせていただきます」
鬼蝶が答えると、役小角は〈黄金の錫杖〉を振って、頭に三つ並んだ金輪をチリンと鳴らした。
「埋めろ」
役小角が後方に立つ前鬼と後鬼に命令すると、肩に担いでいた鍬を下ろしながら穴の前までやってきた。
そして二体の大鬼は、穴の周囲に盛られた赤土をザッザッと掻き落とすと、鬼醒蟲にむさぼり食われるおつるの亡骸を埋めていった。
「のう、鬼蝶殿や」
おつるが埋められていく様子を黙って見届けていた鬼蝶に、役小角が声をかけた。
「"堺"には、どのような色が似合うと思いますかいの?」
「……"堺"に、ございますか」
役小角の唐突な問いかけに、鬼蝶は首を傾げながら答えた。
「うむ。信長公が愛し育てた商人の都……あの活気ある"堺の都"を染め上げるには、いったいどんな色が似合うかのう?」
「…………」
役小角の問いかけに鬼蝶が答えあぐねていると、役小角は黒い太陽が浮かぶ赤い虚空を見上げながら口を開いた。
「例えば、鬼ヶ島のこの空のような色合いなど……どうじゃろうかのう」
深淵の闇を潜ませた両眼を細め、満面の笑みを浮かべながら告げた役小角。
その横顔を見た鬼蝶も赤い虚空を見上げると、役小角の問いかけの真意を汲み取って陰惨な笑みを浮かべた。
「ああ……それはさぞかし信長様好みの──"天晴れな都"となりますでしょうね」
鬼蝶は"鬼"の文字が赤く宿った黄色い目を光らせながら、堺で暮らす何万という人々の生き血を吸ったかのような不吉な色をした鬼ヶ島の虚空を見つめるのであった。
天照の桃姫様 第一幕 乱心 -Heart of Maddening- -完-