39.犬と猿と雉
桃太郎が山ごもり修行を開始してから2年目の夏を迎えた花咲山。
厳しい修行の日々によって筋肉の張った精悍な体つきになった桃太郎は、岩の上にあぐらをかいて座り、瞑想による心の鍛錬に励んでいた。
「……桃太郎さん」
「──ッ」
固く目を閉じた桃太郎は、不意に聞こえた小夜の声に歯を食いしばり、頭を大きく横に振った。
「……桃太郎さん」
「しつこいぞ……夢魔め」
こんな山中にいるはずのない小夜の声が繰り返し耳に届くと、桃太郎は合掌していた両手をふるわせながら苦悶の表情で告げた。
「……桃太郎さん」
至近距離から小夜の呼びかける声が発せられ、桃太郎は思わず薄っすらと目を開いた。その眼前には美しく成長した小夜が笑みを浮かべながら立っていた。
「……きて、しまいました」
「なッ!?」
照れくさそうに首を傾げながら告げた小夜の愛らしい姿を目にした桃太郎は、そのあまりの可愛さに衝撃を受け、体をのけぞらせた拍子に岩の上から転げ落ちてしまった。
「桃太郎さん!?」
小夜の足音が慌ただしく近づくと、桃太郎は草の上に仰向けになったまま心臓を激しく脈打たせて小夜の顔を見上げた。
「お小夜さん……どうして、ここに」
「どうしても会いたかったから……行者様にお叱りを受けてしまいそうなら、すぐに帰ります」
桃太郎が尋ねると小夜は桃太郎の顔を真摯に見つめながら告げた。
「御師匠様なら大丈夫……一月ほど前から日ノ本行脚の旅に出ていらっしゃるんだ」
「……本当ですか?」
桃太郎は言いながら立ち上がると、小夜はほっと胸を撫で下ろしながら尋ねた。
「うん、まだしばらくはお帰りになられないと思う……そうだ、話すなら川辺の方へ行こう。そっちの方が涼しいから」
「はい」
桃太郎の言葉に小夜は小さく頷いて応えると、ふたりは花咲山の山中を流れる花咲川の上流へと向かった。
澄んだ夏空の下、アユが気持ちよさそうに泳ぐ透き通った清流が、岩場の間を煌めきながら流れていた。
岩の上に腰かけた桃太郎と小夜の顔に涼しい風がそよぐと、小夜は目を閉じながらほほ笑んだ。
「お小夜さん、顔色がいいね……あれから、咳は止まったかい?」
「はい。あの日からぴたりと止まりました」
「そうか、よかったよ。お小夜さんずっと苦しそうにしていたから」
小夜が花咲山の澄んだ空気をたっぷりと肺に入れると、桃太郎は穏やかな笑みを浮かべながらその顔を見つめた。
「桃太郎さんの体もお治しくださいましたし……行者様の力は本物なのだと身をもって知りました」
「うん、御師匠様は凄い人だよ……いったい何者なんだろうって、2年一緒にいる今でも思うからね」
「……何者なんでしょうか?」
「わからない。さりげなく名前を尋ねたこともあったけど……"わしの名が鬼退治と関係あるか"なんて言われて」
桃太郎は手近な小石を拾って川に投げると、小石は水面を8回跳ねた後、透き通った水底に沈んでいった。
その様子を眺めていた小夜はふと、自身が持っている若草色の風呂敷包みの存在を思い出した。
「あ、桃太郎さん……私、おにぎりを握ってきたんです。もしよろしければ──」
「──おにぎり!?」
風呂敷包みを解きながら告げた小夜に桃太郎は、瞳を大きく見開いて驚きの声を上げた。
「ふふ。ただのおにぎりですよ?」
小夜はくすりと笑いながら言うと、開かれた風呂敷の上に笹の葉に包まれた三つの大きなおにぎりときゅうりの漬物を披露した。
「だって、花咲山の木におにぎりなんて実らないからさ! うわ、2年ぶりのお米だよ!」
「どうぞ、お召し上がりください」
小夜の笑顔に目を輝かせた桃太郎は、急いで笹の葉を剥がすと、姿を現した玄米おにぎりを手に取って口いっぱいに頬張った。
「んんっ!」
桃太郎は玄米の甘みとごま塩の旨みを味わいながら、声にならない歓喜の声を漏らした。
「そんなに喜んでくれるとは思いませんでした……はい、麦茶もありますから、飲んでくださいね」
小夜は嬉しそうに言うと、帯に括りつけていた竹筒を外して桃太郎に差し出した。
桃太郎は嬉々とした顔つきで受け取ると、竹筒を傾けて冷たい麦茶をごくごくと喉を鳴らしながら飲んだ。
「ああ! この麦茶、最高だ!」
心の底から喜びの声を発した桃太郎は、すかさずきゅうりの漬物にも手を伸ばし、ぽりぽりとした歯ごたえと昆布の旨味を楽しみながら驚きに目を見開いた。
「きゅうりの漬物って、こんなにおいしかったの!? それとも、お小夜さんが料理の天才とか?」
「大げさですよ、桃太郎さん」
小夜はおにぎりと漬物をまたたく間にたいらげていく桃太郎を目を細めて見つめながら、小さく呟いた。
「……きてよかった」
小夜が用意した食事を完食した桃太郎は、青空を見上げて満足げに息を吐いた。
「はぁ……お小夜さん、ありがとう。なんか生き返った気分だよ」
「ふふ。また大げさです」
「大げさじゃないよ。本当においしかったんだ……料理が上手くなったんだね」
桃太郎の言葉に、小夜は風呂敷と笹の葉を片付けながら頷いた。
「はい。まだ母から学んでいる最中ですが」
「村長さんか……昔から料理が上手だもんな。お小夜さんも上達するわけだ」
ふたりが花咲川を眺めながら和やかに語らっていると、空は青から茜へと移ろい、カラスの鳴き声が響いてきた。
暗くなる前に村に帰ることにした小夜を、桃太郎は山道で見送っていた。
「桃太郎さん。また、会いにきてもいいですか?」
「うん、僕も会いたい……でも今度こそ、御師匠様と鉢合わせになるかもしれないから」
尋ねる小夜に答えた桃太郎は、夕焼けに照らされる小夜の顔を見つめて意を決した。
「あの、お小夜さん……もしも僕が鬼退治を果たして村に帰ってこれたら、そのときは僕と──」
「──おーい、桃やぁ! どこにおるのかのう! どこぞで油でも売っとるんじゃなかろうなぁ!?」
小夜が桃太郎の言葉に耳を傾けていたとき、役小角の特徴的なしゃがれ声が山道に響き渡った。
「ッ、帰ってきた……!」
「桃太郎さん──!」
桃太郎が血相を変えて声のした方を見やると、小夜は桃太郎の手を取って頬に口づけした。
「──ッ!?」
「残りの修行も……がんばってください」
顔を赤らめた小夜が目を丸くした桃太郎に告げると、花咲村に向けて山道を駆け下りていった。
「おお。そんなところにおったか、桃」
「……あ、いや……日ノ本行脚、お疲れ様でした、御師匠様ッ!」
役小角は細めた眼で桃太郎を見つめると、「ふん」と鼻を鳴らしてから踵を返した。無言の圧に顔を引きつらせた桃太郎は、役小角の後を追って花咲山の山中へと戻っていった。
その晩、焚き火を挟んだ桃太郎と役小角がいつもと変わらぬ川魚と果実の食事をとっていると、役小角の視線を感じた桃太郎が気まずそうに口を開いた。
「……あの、なにか?」
「耐えよ、桃。鬼退治を果たせば、腹いっぱい米が食えるし、愛しの村娘にも毎日会えるわいの」
「……!?」
「かかか。この暮らしが味気ないのはよくわかる……が、それもまた山ごもり修行の一環じゃ。耐えい」
「はい……心得ました、御師匠様」
桃太郎は何でもお見通しの役小角の言葉を受け、頭を下げて答えた。
「ところで桃よ。わしの日ノ本行脚の土産話、聞きたくはないかのう?」
「お聞かせいただけるのですか!?」
満面の笑みを浮かべた役小角の言葉に、桃太郎は驚いて声を上げた。
「かかか。此度の日ノ本行脚の目的……それはひとえに桃。おぬしが鬼退治を果たすためじゃ」
「……?」
桃太郎が眉をひそめると、役小角は焚き火に照らされる背後の森を見やった。
「出てこい、三獣」
役小角が呼びかけると茂みが揺れ、中から三匹の幼獣──子犬、子猿、子雉がその姿を現した。
「えっ!?」
思わず声を上げた桃太郎を見て、役小角が満足げに笑った。
「かかか。わしが日ノ本を巡って譲り受けてきた、由緒正しき三獣じゃ」
役小角の紹介を受けた三獣はそれぞれ「クゥン」「キィ」「ケェン」と小さく鳴いて応えた。
「ふむ、腹を空かせておるようだのう。ほれ、桃。餌づけしてやれ」
「……餌づけ?」
「うむ。おぬしが主だと、三獣に教えるのじゃ」
役小角に促された桃太郎は、焼き魚の身をほぐすと手のひらに乗せて、白犬に差し出した。
「ほら、骨を取ったから……お食べ」
白犬は警戒しながら鼻を鳴らして匂いを嗅ぐと、ぺろりと舐めてから小さく噛んで飲み込んだ。
「お前たちは果物の方がいいだろ? ほら、お食べよ」
桃太郎は茶猿と緑雉に向けて山桃を差し出した。茶猿は器用に両手で山桃を掴み、かじりついて食べ始め、緑雉は小さなくちばしで手のひらの山桃をついばんでいった。
「かかか。餌づけは"お供"への第一歩じゃからな」
役小角が笑いながら言うと、桃太郎は小さな三獣を見つめた。
「……"お供"、ですか」
「うむ。この三獣を引き連れて、鬼退治に挑むがよろしい」
役小角の言葉を聞いた桃太郎は眉をひそめた。
「でも、相手は悪鬼の集団ですよ。犬と猿と雉にいったいなにが……」
「桃よ、わしは言うたはずじゃぞ──"由緒正しき"三獣とな」
神妙な声で言った役小角は、山桃を両手で抱えて食べている茶猿に〈黄金の錫杖〉の金輪をチリンと鳴らして向けた。
「まず、備前を発ったわしは、紀伊山地の高野山へと向かった。旧知の大僧正に鬼退治について相談し、譲り受けたるがこの祈り猿よ」
「キィ!」
役小角の紹介を受けて、茶猿が誇らしげに答えた。続いて役小角は山桃をついばんでいる緑雉に〈黄金の錫杖〉の頭を向けてチリンと鳴らした。
「次に、わしは甲斐の武田軍本拠地、躑躅ヶ崎館へと向かった。武田信玄公に事情を説明したところ、感銘を受けて譲り受けたるがこの戦雉よ」
「ケェン!」
山桃を食べて栄養を補給した緑雉は高らかに鳴いた。役小角は頷いてから白犬を見やり、〈黄金の錫杖〉をチリンと鳴らしながら指し示した。
「そして最後の遠征──奥州をさらに北へと進んで恐山に登ったわしは、幼い頃に法術で命を救ったイタコの老婆に協力を求めた。御恩返しにと譲り受けたるがこの霊犬よ」
「ワンっ!」
白犬は口の端に魚の身をつけながら、桃太郎の顔を見て力強く吠えた。
「とまあ、このようにみな由緒正しきお供の三獣……決して、そこいらの野犬や野猿をひっ捕らえて連れてきたわけではないでな。どうじゃ、桃。わしの日ノ本行脚、"理解"できたか?」
「できました……!」
桃太郎は感服しながら答えると、役小角に向けて頭を下げてひれ伏した。
そんな桃太郎の頬を白犬がペロペロと舐めると、桃太郎は集まってきた三獣にほほ笑みかけるのであった。
「──かかか。よもや、あの三獣が化身になるとはのう」
役小角は過去の記憶から意識を戻すと、遠ざかっていく桃姫と雉猿狗を見るのをやめた。
「まったく、面白くなってきましたわいのう──かかかかッ!」
役小角は高らかに笑いながら白装束の裾を持ち上げて、鬼ヶ島の広場につながる"呪札門"の鏡面を跨いだ。
門を形作っていた呪札の群れが崩壊して地面に落ちると、火がついて燃え上がり、灰に転じながら朝焼けの秋空を舞い飛ぶのであった。