37.命の冒涜
しだれ柳の下に立つ女の顔がはっきりと見えたとき、雉猿狗は我が目を疑った。
それは死人の顔だった。腐敗の進んだ肌は至るところで裂け、そこから湧き出た蛆虫がポト、ポトと地面に落ちては身をくねらせている。
「……これは、鬼ではない……しかし、仏刀で斬らねばならぬ……この世ならざる不浄の存在」
あまりの醜悪さと耐えがたい腐臭に息を呑んだ雉猿狗が、両手で構えた〈桃源郷〉の美しい切っ先を女に向けた、そのとき。
「──やめてェエエッ!!」
喉が張り裂けんばかりの声を上げた桃姫が雉猿狗の背後から駆け抜け、女の前に立ちはだかった。
「桃姫様……なにを!?」
「母上を殺さないでぇええッ!!」
「……っ!?」
鬼気迫る顔つきで両手を広げた桃姫から発せられた言葉に、雉猿狗は絶句した。
「この着物も髪も……間違いなく母上なんだよッ!」
「いけません! 離れてください、桃姫様!」
桃姫は雉猿狗の警告を聞かず振り返ると、女の顔を隠す長い黒髪を両手でかき分けた。すると腐敗してはいるが、確かに美しい面立ちの女の顔が現れた。
そして、その顔は紛れもなく小夜のものだった。
光を失い濁りきった瞳、悪寒を催す腐臭、顔と手足から次々と湧き出る蛆虫──それでも桃姫にとっては、目の前に現れてくれた愛する母親に他ならなかった。
「桃姫様! これはもはや母君ではありません! この世ならざる魔の者です!」
「……ああっ!」
雉猿狗は懸命に叫ぶと、桃姫の体に手を伸ばし、力任せに引っ張って小夜から引き離そうとした。その拍子に桃姫はよろめいて、地面に尻もちをついた。
「ああッ! やだぁッ!! やめてっ! やめてぇッ!!」
地面に倒れ込んだ桃姫はこれ以上ないほど泣き叫びながら、必死の形相で雉猿狗の脚にしがみついた。
「お願いッ! お願いだから、母上を殺さないでぇ……! 雉猿狗、お願いぃ……!」
「……桃姫様! お気を確かに……!」
滂沱の涙を流しながら懇願する桃姫に、雉猿狗は激しく動揺した。
「母上……!? 桃姫だよ……! ねぇ、わかるでしょ? ねぇ……!?」
雉猿狗の腰を掴んで、よろよろと立ち上がりながら振り返った桃姫は、亡者のように沈黙して立ち続ける小夜に、甘えるような声で呼びかけた。
すると、小夜の顔がブブブと痙攣するようにふるえ、桃姫に腐敗した顔を向けた。
「……母上」
その挙動を小夜の反応と受け取った桃姫は思わず笑みを浮かべた──次の瞬間、小夜の口がグワッと大きく引き裂かれ、真紅の鬼の角がドバッと鮮血を噴き出しながら桃姫の顔面めがけて鋭く伸びた。
「えっ……?」
「くッ──!」
母親の顔が裂けるという予想だにしない光景に、呆然と声を漏らした桃姫。雉猿狗は咄嗟に桃姫の前に出て、両手で鬼の角を握りしめた。
小夜の口内から放たれた真紅の鬼の角は燃えるような熱を持っており、掴んだ雉猿狗の両手がジウウと音を立てて焼け、黒煙を上げた。
「ッ──がアああッ……ッ! ……桃姫様ッ!」
雉猿狗は両手を襲う激痛に苦悶の表情を浮かべながら、小夜と自分の間に挟まれ、鬼の角から滴り落ちる鮮血で顔を赤く濡らした桃姫に向けて叫んだ。
ブブブと細かくふるえながら、口の端をさらに引き裂き、喉奥から鬼の角を生え伸ばす小夜。その恐ろしい顔を見上げた桃姫は、嗚咽を漏らした。
「あ……ああ」
「桃姫様! 雉猿狗の顔をご覧ください!」
雉猿狗は恐慌状態に陥った桃姫に呼びかけた。
「死者に心を引きずられてはなりません! 桃姫様!」
雉猿狗の懸命な呼びかけによって、桃姫は小夜から雉猿狗へと視線を移し、雉猿狗と桃姫の視線が交差した。
「"生きたい"と、そうおっしゃってください! 桃姫様!」
「っ……!」
雉猿狗の心からの願い──その願いは死者に心を奪われていた桃姫の濃桃色の瞳を見開かせ、雉猿狗の光り輝く翡翠色の瞳と深く融け合わせた。
「──"生きたい"と言いなさいッ! 桃姫ッ!」
雉猿狗の力強い願いの叫びを受けて、桃姫の濃桃色の瞳に輝かしい光が戻る。
「生きたい……雉猿狗、私生きたい……! こんなところで、死にたくないッ!!」
雉猿狗は桃姫のその言葉をしかと聞き受けると、凛とした笑みを一瞬だけ桃姫に向けて浮かべ。
「──よくぞ言えましたァアアッ!!」
翡翠色の瞳から黄金の光を放ち、大気をふるわす力強い声を発した雉猿狗。
自身の顔に向かって伸びる鬼の角をパッと手放すと同時に、小夜の胴体めがけて全身全霊の正拳突きを繰り出した。
吹き飛ばされた小夜の体はしだれ柳の幹に背中からぶち当たると、根元に倒れ込んでガクガクと激しく全身をふるわせた。
「……いったい誰の手によるものか……このような邪悪な所業が許されていいはずがない」
雉猿狗は〈桃源郷〉を拾い上げて固く握りしめながら告げた。
「──これは"命の冒涜"に他なりませんッ!」
雉猿狗は強い怒りを込めて叫ぶと、両手に構えた〈桃源郷〉の切っ先を悶え苦しむように身をふるわせる小夜の背中に向けた。
桃姫はその光景を見つめながら、沈痛な面持ちで雉猿狗の背中に向かって声をかけた。
「雉猿狗……お願い、終わらせて……母上のこんな姿、見たくないよ!」
「はい。小夜様に対する許されざる所業──御館様から授かりしこの聖なる刃で……今すぐ終わりにいたしますッ!」
桃姫の悲痛な願いを受けた雉猿狗は宣言するように声を上げ、高く振り上げた〈桃源郷〉の刃を小夜の背中に振り下ろした。
「──キシャァアアッ!!」
その瞬間、突如として奇怪な"鳴き声"を発した小夜──銀桃色の刃が触れる寸前、背中がバクリと左右に引き裂け、煮えたぎった赤い血が盛大に噴出された。
「うッ!?」
煮えたぎる血液に顔を焼かれ、目を閉じながらうめいた雉猿狗。怯みながら小夜の前から後ずさりした。
「雉猿狗っ!」
「くッ!?」
桃姫の叫び声を背中越しに聞きながらうなった雉猿狗は、霧状になった血煙の中で目を開けると、霞んだ視界の中で小夜の裂けた背中から昆虫のような"節足"が伸びていくのを見た。
「そんな……ッ!」
雉猿狗は目の前で起きている光景に戦慄した。小夜の体から"脱皮"するかのように黒く鋭い六本の脚がズオッと抜き取られ、先端の鉤爪で地面を踏みしめる。
小夜の喉奥から伸ばしていた真紅の鬼の角がズボッと抜き取られると、鬼醒蟲の成体である鬼虫が"カブトムシ"に似たその禍々しい姿を現すのであった。