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36.鬼人兵

「……ああ!」


 額に玉の汗を浮かべた桃姫が、声を上げながら目を覚ました。視界に映るのは雨漏りで黒ずんでいる見知らぬ天井。

 カビの生えた布団と古びた畳が混じり合ったすえ臭い悪臭が桃姫の鼻を突いた。


「……うう」


 極光に包まれた余韻が脳裏に焼きついて離れない桃姫は、目の奥に鈍い痛みを感じた。

 湿った額に手を当てた桃姫は、薄汚れた部屋をゆっくりと見渡した。播磨の安宿、二階の一室。昨夜、雉猿狗とともに泊まったのだという記憶が蘇ってくる。


「……雉猿狗……どこ?」


 隣の布団に目をやると、もぬけの殻だった。かけ布団は乱雑に剥がされており、丁寧な雉猿狗はこのような起き方はしないと桃姫は思った。


「……なにがあったの、雉猿狗」


 雉猿狗は、何かに急かされるように布団を抜け出て部屋を出た。そう考えた瞬間、嫌な予感が桃姫の心を締めつけた。


「……雉猿狗」


 桃姫はふらつく足で立ち上がると、額を押さえながら開け放たれた引き戸を抜けて廊下へと出た。

 急な階段を壁に手をつきながら一段ずつ下りていくと、カビ臭さとは違う、吐き気を生じる異臭が漂ってきた。


「……この臭い……やだ、怖いよ」


 嗅ぎ覚えのある悪臭に恐怖を覚えながらも、階段を下り続けた桃姫。板の間が見える位置までくると、受付台に倒れ込んでいる女性の下半身が桃姫の視界に飛び込んできた。


「……うう」


 慄きながら最後の数段を下りると、女性の全身が視界に入った。その女性は、首から上がなかった。

 切断面からあふれ出た鮮血が板の間の木目を伝って流れ、一段低い土間へとポタリ、ポタリと音を立てながら滴り落ちている。


「うっぷ……」


 凄惨な光景に強烈な吐き気が込み上げた桃姫は両手で口元を押さえながら階段にへたり込んだ。

 その瞬間、土間の奥でガシャンと大きな物音が響くと、血相を変えた雉猿狗が後ずさりしながら土間へと姿を現した。


「雉猿狗ぉ!」


 桃姫が立ち上がってその背中に声をかけると、両手で〈桃源郷〉構えている雉猿狗は驚きとともに振り返って桃姫を見やった。


「桃姫様ッ!?」

「ねぇ、いったいなにが起きてるの!?」

「部屋にお戻りください、桃姫様!」


 桃姫の問いかけに雉猿狗は慌てたように答えると、土間の奥の台所を鋭く睨みつけた。その瞬間、血濡れた大鉈が雉猿狗めがけて振り下ろされた。


「くッ──!」


 雉猿狗は咄嗟に後方に飛び退くと、台所を睨みつけたまま桃姫に叫んだ。


「──鬼の襲撃です!」

「……!?」


 雉猿狗の言葉に桃姫が絶句した瞬間、台所から血塗れの大鉈を握った巨漢の鬼人兵がヌゥッと土間に姿を現した。


「グゥガガッ、ガガガッ!」


 赤い眼をギョロギョロと動かしながら奇怪なうなり声を発した鬼人兵。右手で柄を握り、左手で血濡れの刃を支えながら、対峙する雉猿狗との距離を詰めていく。

 〈桃源郷〉の切っ先を鬼人兵に向けた雉猿狗は、階段下でふるえている桃姫に声を張り上げた。


「女将さんの悲鳴を耳にして駆けつけたら、すでに……ですが──この鬼の狙いは、桃姫様です!」

「……私」


 雉猿狗の言葉に桃姫が恐怖で体を強張らせると、巨漢の鬼人兵の赤い眼が階段下の桃姫を捉えた。せわしなく動かしていた眼の動きが止まり、標的を一点に絞る。


「ギグァアア! ガァッギャアアッ!」


 お目当ての獲物を見つけたとばかりに狂喜し、奇声を上げながら桃姫に向かって突進する鬼人兵。

 雉猿狗の翡翠色の瞳がギンッと光ると、自分の前を通り過ぎて桃姫に襲いかかろうとする鬼人兵に向けて咆哮した。


「──桃姫様に近づくなァッ!!」


 今まで聞いたことのない獣のような怒号で吼えた雉猿狗は、巨漢の鬼人兵に猛烈な回し蹴りを叩き込んだ。


「グッ!? ガァギッ!」


 肥えた胴体を蹴り飛ばされた鬼人兵は、玄関の木戸もろとも屋外へと弾き飛ばされ、地面を盛大に転がりながらうめき声を上げた。


「桃姫様は、部屋にお戻りくださいませ!」


 雉猿狗は怯えきった桃姫に告げると、〈桃源郷〉を握り直して巨漢の鬼人兵を追って屋外に飛び出していった。


「……雉猿狗っ」


 桃姫の声は雉猿狗の耳には届かなかった。雉猿狗が宿場町の大通りに出ると、鬼人兵は苦しそうにうめきながら立ち上がろうとしていた。


「グゥウウッ! オガガアァ!」


 鬼人兵は蹴りを受けた腹部を左手で押さえながら、歪な赤い一本角が生えた青黒い肌をした顔で雉猿狗を睨みつけた。


「すぐに楽にして差し上げます。あなただって、鬼になどなりたくはなかった……こんなこと、したくはなかったでしょうに」


 雉猿狗は巨漢の鬼人兵に哀れみを込めて語りかけると、桃太郎の愛刀〈桃源郷〉を赤い手甲の右手を軸に、白い数珠をつけた左手を添えて構えた。

 早朝の朝日が照らす大通りには、大鉈を振り上げる鬼人兵と〈桃源郷〉を構える雉猿狗の他に人気はなかった。

 この"播丸"という安宿は宿場町の入り口にぽつんと位置しており、騒ぎが起きても他の宿屋まで届かないだけの距離があった。


「御館様……どうかこの私に、鬼を斬る聖なる刃の力をお貸しください……!」


 仏の加護を受けし銀桃色の刃。その切っ先を鬼人兵に向けた雉猿狗は祈るように声を発した。

 意識を集中させる雉猿狗に対し、痺れを切らした鬼人兵が咆哮を上げ、腹の肉を揺らしながら攻めかかった。


「グヴォガァオッ!」

「──フッ」


 鬼人兵の大鉈による大振りの一撃を一息吐いてかわし、体勢を低くした雉猿狗。


「──ヤェエエエッ!!」


 桃太郎譲りの裂帛のかけ声とともに、鬼人兵の心臓を狙って〈桃源郷〉の聖なる刃を突き刺した。

 雉猿狗は即座に鬼の心臓から〈桃源郷〉を引き抜くと、飛び跳ねるようにして間合いを取った。


「ガ……ハァ」


 牙を生やした口から熱い息を吐いた鬼人兵。黒い鬼の血を左胸に穿たれた穴からドバッと噴出させ、後ろ向きにドスンと倒れ伏した。


「ふぅ……ふぅ……やりました、御館様」


 鬼人兵が息絶えるのを見届けた雉猿狗は、肩で息をしながら安堵の声を漏らした。


「雉猿狗っ!」


 そのとき、宿屋の玄関から桃姫が飛び出して雉猿狗に駆け寄った。


「桃姫様!? 部屋にお戻りくださいと申し上げたのに……」

「よかった……! 雉猿狗が無事でよかったよぉ……!」


 雉猿狗の言葉を遮った桃姫は、その体を強く抱きしめた。


「私、雉猿狗が死じゃうんじゃないかって……怖くて……!」


 桃姫のふるえる声を聞いた雉猿狗は、ほほ笑みを浮かべながら答えた。


「私は死にません、桃姫様……死んでしまったら、桃姫様をお護りできなくなってしまいます」


 雉猿狗が告げると、胸元に抱きついていた桃姫が顔を横に向けた。


「……雉猿狗、あの人」


 桃姫の引きつったような声に、雉猿狗は視線の先を見やった。そこには一本の大きなしだれ柳が立っていた。

 宿場町の入口の目印となっているその見事なしだれ柳の葉陰に、ひとりの女が幽鬼のように佇み、長い黒髪の隙間からこちらをじっと見つめていた。


「……あの人も……鬼、なの?」


 怯えながら桃姫が尋ねると、雉猿狗は目を凝らして、その女をよく見た。額に角はなく、目も赤くはない。何より鬼人特有の肌の青黒さはなく、むしろ死人のような土気色をしていた。


「私が確認してまいります……桃姫様はここでお待ち下さい」


 雉猿狗はそう言って桃姫の体を離すと、〈桃源郷〉を振って刃についた黒血を地面に飛ばし、怪しい女に向けて両手で構え直した。


「雉猿狗……気をつけて」

「はい」


 後方で見護る桃姫に、雉猿狗は背中越しに応えた。そしてゆっくりと警戒しながらしだれ柳へと近づき、怪しい女との距離を詰めていくのであった。

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