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35.心の力

 布団の中にまで漂い、鼻をくすぐる味噌汁の芳醇な香り。この匂いだけで桃姫には分かった。これは小夜の作る味噌汁の匂いだと。


「……母上」


 布団の中で呟いた桃姫。しかし、桃姫は知っていた。すべてが変わってしまったあの祭りの夜に、小夜は自らの命を犠牲にすることを選んだのだと。


「桃姫、起きなさい」


 だから、この声の主が現実の小夜ではないことを桃姫は理解していた。


「こーら、いつまで寝てるの、桃姫」


 だが、この味噌汁の匂いと母の声。これは現実ではないと頭では理解していても。それでも桃姫は、布団の中からゆっくりと顔をのぞかせた。


「ふふ、ようやく起きたわね、お寝坊さん。ほら、ご飯食べて。桃太郎さんが桃姫のこと待ってるわよ」


 温かな笑みを浮かべた小夜が桃姫に語りかけると、前掛けで手を拭きながらちゃぶ台の上に味噌汁とおにぎりを手際よく並べた。

 見慣れた景色。桃姫がこの世に生を受けてから14年間、毎日のように見続けてきた光景。


「…………」


 桃姫は一言も発さず、ただ淡々と食事を済ませた。小夜の手伝いを受けずにひとりで寝間着から萌黄色の着物に着替えると、玄関で赤い鼻緒の草履を履き、引き戸を開けて外に出た。

 ぶわっと吹きつけてきた真夏の風。うるさいほどの蝉の鳴き声と眩しすぎる陽光。桃姫は、着物の中が一気に蒸し暑くなるのを感じた。


「桃姫、父上は桃の木の下にいるから。早く行ってあげなさい」


 玄関口に立った小夜が外の眩しさに目を細め、眉の上に手でひさしを作りながら桃姫の背中に声をかけた。桃姫は横顔だけ向けて小さく頷くと、真夏の花咲村を歩き出した。


「あら、桃姫様。おはようございます。今日も暑いから、しっかりとお水を飲むのよ」

「…………」


 向かいのおばさん・おとよがひしゃくを使って地面に打ち水しているところに出くわした桃姫は、黙ったまま会釈だけして通り過ぎた。

 燃やされる前の村の景色と、亡くなる前の住民たちの顔ぶれに感情を揺さぶられながらも、桃姫は一言も発さず、ひたすらに花咲村を歩き、桃太郎が待つという桃の木の下へと向かった。


 ──父上。


 これが夢の中だとしても、桃太郎に会えたら一つだけ頼んでみたいことがあった。


「…………」


 桃の木の一画までやってきた桃姫は、すぐに桃太郎の姿を見つけた。桃太郎は白い軽鎧を身にまとい、〈桃源郷〉の柄を握りしめて剣術の鍛錬に没頭していた。


「エイッ! ヤァッ! デヤァ!」


 額には黄金の額当てをつけ、一心不乱に〈桃源郷〉を振るう桃太郎。桃姫に気づかないほど集中している父に向かって、桃姫は口を開いた。


「──父上! 私に剣術を教えてッ!」

「……っ」


 突然の声に桃太郎は瞠目しながら桃姫に目をやると、すぐにほほ笑みを浮かべた。

 そして、角帯に差したもう一振りの仏刀〈桃月〉を白鞘から引き抜き、近づいてきた桃姫に差し出した。


「始めようか」


 桃太郎の言葉に静かに頷いた桃姫は、〈桃月〉を受け取って握りしめた。桃太郎の指導のもと、桃の木の下で剣術の稽古が始まった。

 〈桃源郷〉を使って手本を見せる桃太郎が、腕の角度、足の位置、剣術における基本的な動作を一から桃姫に教え込んでいく。

 桃姫は懸命に〈桃月〉を振るい、額から汗を飛ばした。その様子は、父と娘というより師匠と弟子──同じ桃色の髪と瞳の色を持つ者同士の遠慮なしの剣術指南だった。


「斬り上げからの袈裟斬り! そうだ! 不器用でいい! 全力でやるんだ!」

「はい! デヤァッ!」


 いつの間にか、桃の木の下には小夜が立っていた。刀を振るう娘のことを心配しつつも、力強く成長していく姿を頼もしく思う母親の眼差しを桃姫に向けていた。


「いいぞ! そこで上段突き!」

「はい! ──ヤェエエッ!」


 桃太郎の指示を受けた桃姫は、裂帛の声を張り上げながら、全力の上段突きを空中に向かって打ち込んだ。その瞬間、ひざの力が抜け、地面に崩れ落ちた。


「うっ……! ふぅッ、ふぅッ! ふぅッ!」


 〈桃月〉を手放した桃姫は額からどっと汗を流し、肩を揺らしながら荒い呼吸を繰り返した。


「……父上、心臓が……苦しい……ふぅッ!」


 顔を赤くした桃姫がうめくように呼吸をしていると、桃太郎が桃姫の前に片ひざをついて話しかけた。


「桃姫……そんなときは心臓の鼓動に意識を集中させるんだ」


 苦悶の表情を浮かべた桃姫は激しく脈動する心臓に意識を傾けた。


「そして心臓が放つ血流の波を視る。頭のてっぺんからつま先まで巡った血潮がまた心臓に戻ってきて全身に解き放たれる瞬間を掴み取る──その先に、"心の力"がある」

「心の……力」


 桃太郎の言葉を受けて、心臓の鼓動と血流の波を意識して"心の力"を体現しようとした桃姫は──しかしうまくいかず、桃太郎の顔を見ようと顔を持ち上げたそのとき。


「……っ!」


 桃太郎の顔、その向こうに立ちっているおつるの姿を目にした桃姫は、大きく瞳を見開いた。


「おつるちゃん……」

「桃姫ちゃん」


 桃姫はふらつきながら立ち上がると、穏やかな笑みを浮かべて名前を呼び返した"大親友"の姿を見て涙があふれそうになり、ぐっと腕で強く目をこすって頭を横に振った。


「おつるちゃん……ごめん……私、おつるちゃんのこと」

「桃姫ちゃん、強くなって」


 おつるは笑みを浮かべたまま穏やかに、しかししっかりとした声で桃姫に告げた。


「桃姫ちゃん、私の分まで、強くなって」

「……っ」


 桃姫はおつると目を合わせた。おつるの黒い瞳は穏やかで──しかし、すがるように桃姫を見つめていた。


「それが私の、ただ一つだけのお願いなの──私の分まで……強くなって、桃姫ちゃん」

「おつるちゃん……!」


 おつるの体がゆっくりと光に包まれて消えていく。そのあまりの眩しさに顔をそむけた桃姫は、後ろに並んで立っていた桃太郎と小夜の姿を見た。


「──桃姫、強くなるんだ」

「──桃姫……父上と母上が見護っていますからね」


 桃の木の下で白い光に包まれていく両親が桃姫にそう告げると、ついにはすべてが極光する白い奔流に飲み込まれて、桃姫には何も見えなくなってしまった。


「おつるちゃん! 父上! 母上! ああああッ──!」


 極光の大波に飲み込まれた桃姫の意識は、現実世界へと否応なしに引きずり戻されていくのであった。

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