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34.雉猿狗のおにぎり

 桃姫と雉猿狗は、播磨の宿場町にある安宿"播丸屋"の二階に身を寄せていた。

 年季の入った畳が敷かれた六畳の部屋で、桃姫は格子窓の枠に寄りかかり、夜風を肌に感じながら雲間に浮かぶ秋の月をぼんやりと眺めていた。


「…………」


 桃姫は雲に隠された月から雉猿狗に視線を移した。畳の上に座った雉猿狗は、白鞘に収められた〈桃源郷〉を取り回しながらうなっていた。


「うーん……これはいったい」


 どれだけ力を込めても抜刀できず、雉猿狗は困り果てている様子だった。


「そうですね……ならば、これでどうでしょうか」


 雉猿狗は呟くと、おもむろに白鞘をその手で撫で始めた。


「……これならば」


 右手を白鞘から柄に移して握った雉猿狗。そして一息に〈桃源郷〉を引き抜くと、スラッという軽やかな音とともに、神秘的な銀桃色の刃が姿を現した。


「あっ、やりました! ご覧ください、桃姫様!」

「うん、見てたよ」


 仏刀の美しい刃を掲げながら雉猿狗が振り返ると、桃姫は頷き、窓辺から移動して雉猿狗の前に腰を下ろした。


「どうやったの? ずっと抜けなかったのに」


 桃姫の問いかけに、雉猿狗は〈桃源郷〉を白鞘に戻し、ひざの上に置いた。


「どうやら、この白鞘に使われている木材は、寒さと乾燥で収縮する特性があるようです。ですから、私の手で温めて膨張させれば抜けるのではないかと……"猿知恵"ですけれどね」


 雉猿狗は苦笑しながら、両手のひらを桃姫に向けた。


「私の手は、"太陽の熱"を宿しています。この身体を授けてくださった天照様に由来する力なのかもしれません」

「触っても、いい?」


 桃姫は雉猿狗の白くきめ細やかな手のひらを見つめながら尋ねた。雉猿狗は太陽のような笑みを浮かべて頷いた。

 雉猿狗の左手を取った桃姫は、自分の頬に押し当てた。


「暖かい……」


 その温もりを感じながら目を閉じた桃姫は、ゆっくりと雉猿狗のひざの上に身を預けた。

 雉猿狗は桃姫をやさしく受け止め、慈愛に満ちた眼差しでその横顔を見つめた。


「……桃姫様」


 雉猿狗は桃姫の頬に左手を当てたまま、右手でやさしく髪を撫でた。疲労の色を隠せない桃姫の横顔には、この数日間の過酷な記憶が刻まれていた。


「お腹……空いた……」

「……っ」


 目を閉じた桃姫が漏らした弱々しい声に、雉猿狗はハッとして撫でていた手を止めた。


「母上……父上……お腹……空いたよう……」


 うわごとのように呟いた桃姫。雉猿狗は、ひざに伏していた桃姫の上体を抱き起こして顔を向き合わせた。


「桃姫様……なにか食べましょう。私が宿の女将さんに頼んで何か──」


 語りかけた雉猿狗に、桃姫は虚ろな目を開いて呟いた。


「……"血の味"がするんだ……」

「……え?」

「ずっと……砂を噛んでるみたいで……」


 桃姫の濃桃色の瞳は暗く沈み、恐怖と苦痛に満ちあふれていた。


「焼ける花咲村の臭いが……ずっと、してる……」


 ──生きて地獄を味わえ、桃太郎の娘。


 気を失った桃姫に投げつけられた巌鬼の呪詛。その呪いは桃姫の心の奥底に深く根を張っていた。


「これが……地獄、なのかな……」」


 涙をこぼした桃姫がふるえる声で呟くと、雉猿狗は歯を食いしばり、勢いよく立ち上がって告げた。


「女将さんからご飯をいただいてきます! 待っていてください!」


 雉猿狗は引き戸を開け放って部屋を出ていく。一階へと続く階段を駆け下りる足音が部屋まで響いた。


「…………」


 桃姫は力なく薄汚れた畳のシミを眺め、鼻を突く村の焼ける臭いに耐えた。数分後、今度は階段を駆け上がる音が響き、引き戸の向こうから雉猿狗が現れた。片腕にはおひつを抱えていた。


「女将さんにご飯はないかと尋ねたら、"今何時だと思ってるんだ"って……怒られてしまいました」


 雉猿狗は苦笑いを浮かべながら部屋に入り、後ろ手で引き戸を閉めると、桃姫の前に座っておひつを畳の上に置いた。


「よほど私がしつこかったんでしょうね。食べ残しのご飯なら厨房にあるって……"勝手に持っていけ"って怒鳴られてしまいました」


 桃姫の心には、雉猿狗がここまでしてくれた嬉しさと、しかしその善意を受け取ることのできない苦しさが入り混じっていた。


「……雉猿狗、ごめんなさい……私、どうしても食べられないんだ……」


 桃姫は正座の姿勢を整えると、頭を下げて絞り出すような声で告げた。しかし雉猿狗は桃姫の言葉に答えることなく、おひつの布巾をどけて、桶の端に残る黄ばんだ麦飯を見た。

 質の悪い麦飯が、時間を経て石のように硬くなり、さらに質を悪くしていた。

 熱い湯をかけて茶漬けにでもしなければ、とても食べられそうにない状態の麦飯の残りに、雉猿狗は白い手を伸ばした。


「桃姫様、私は天界からきたと……そう言いましたよね」


 雉猿狗は手首に白い数珠を巻いた左手で、硬く冷たい麦飯を一つにまとめていった。


「天界は暖かく、清らかで……とても居心地の良い場所でした。特に私は天照様に気に入られていましたから……なおのこと、ですかね」

「…………」


 雉猿狗の言葉に耳を傾けた桃姫は、正座したひざの上に置いた両手にぎゅっと力を込めた。


「ずっと……天界に居ても良かった。でも、私のもとに届いたのです……御館様の悲痛な祈りが」


 雉猿狗は、まとめた麦飯を手のひらで受け取ると、慈しむように、愛情を込めて握り始めた。


「死ぬ間際の御館様の祈りが天界まで届くと、天照様は"雉猿狗"としての身体を私に授け、下界へと送り出してくださいました」

「…………」


 雉猿狗の言葉を聞きながら、桃姫は息を呑んでその手元を見つめていた。黄ばんでいた麦飯が次第に黄金色に輝き始め、ほかほかと湯気を立て始めていた。


「桃姫様、はっきり申し上げて……下界で生きることは苦しみそのものです。人々の思惑が交差し、弱者は虐げられ、強者は踏みにじり……そして、そのすべてが否応なく時代の荒波に押し流されいきます」


 雉猿狗は儚げな眼差しを浮かべながら、静かに言葉を紡いだ。


「天界と比べれば、それはあまりにも冷たく、汚く、唾棄すべき場所なのかもしれません……だとしても」


 語気を強めた雉猿狗は、桃姫の目をまっすぐに見つめた。翡翠色の瞳と濃桃色の瞳が深く交差する。


「桃姫様は、まだこの世界のことをなにも知らないではありませんか」

「……っ」


 雉猿狗の万感の想いが込められた言葉を受けて、桃姫は目を見開いた。


「訳も分からずに生まれ落ち、訳も分からずに自らの命を捨てる……そんなに悲しいことは、他にありません」


 雉猿狗の真に迫った言葉を受けた桃姫の身体は激しくふるえ、瞳からぽたぽたと大粒の涙がこぼれ始めた。


「私は、桃姫様に生きてもらいたいのです。この苦しい世界を生き抜いてもらいたいのです……そして、なぜ自分は生まれてきたのか、その心で感じていただきたいのです」


 雉猿狗は桃姫に慈悲深く、そして力強くほほ笑みかけた。桃姫は泣きながら頷いて応えた。


「桃姫様が百年生きた後……それから、雉猿狗とともに父君と母君が待つ天界に向かいましょう」

「私が百歳まで生きれば……雉猿狗と一緒に天界に行けるの……?」

「はい」


 桃姫のすがるような問いに、雉猿狗は確信を持って答えた。その返答は、桃姫にとって何よりの心の救いとなった。


「だから食べてください、桃姫様。生きてください、桃姫様。私のためにも、桃姫様を愛する人たちのためにも」


 雉猿狗は湯気を立て、黄金に光り輝く麦飯のおにぎりを両手で桃姫に差し出した。

 桃姫が雉猿狗から黄金のおにぎりを受け取ると、手のひらを通して雉猿狗の想い、そのまごころが熱く伝わってきた。


「……あったかい」


 桃姫は湯気を立てる雉猿狗のおにぎりを見つめて呟くと、口を開けて一口含んだ。


「…………」


 桃姫がおにぎりの頭の部分を食べ、慎重に咀嚼するのを雉猿狗は固唾を呑んで見つめた。桃姫は目を閉じ、味ってからゆっくりと飲み込んだ。


「太陽の……味がする」


 目を開けた桃姫は雉猿狗に告げ、温かなおにぎりを顔に近づけてよく見た後、嬉しそうに声を上げた。


「おいしい! おいしいよ、雉猿狗!」

「よかった……!」


 桃姫は歓喜の涙を流しながら二口目にかぶりつき、雉猿狗は安堵の声を漏らした。


「こんなにおいしいおにぎり! 生まれて初めて食べたよ、雉猿狗!」

「食べていただけて……本当によかった」


 雉猿狗は感極まって、桃姫の体を抱き寄せた。


「桃姫様が死んでしまったら、私は……私は……!」


 桃姫は雉猿狗に強く抱きしめられながらも、おにぎりを頬張り、涙を流しながらもぐもぐと咀嚼した。

 おにぎりを食べ終えた桃姫は、指についた米粒までしっかりと食べきり、満足げにほうっと息を漏らした。


「……雉猿狗」

「はい、桃姫様」


 雉猿狗は抱きしめていた桃姫の体を離して互いに向き合った。桃姫の暗かった瞳には光が戻り、桃太郎譲りの美しい瞳を見て雉猿狗は静かにほほ笑んだ。


「ありがとう……雉猿狗のおにぎり、とてもおいしかった」

「……はい」


 桃姫の感謝の言葉を聞いた雉猿狗の目から、熱い涙が一筋こぼれ落ち、ハッとした雉猿狗が手で押さえた。


「あれ……私の身体は、汗も涙も出ないはずなのに……」


 雉猿狗が動揺していると、桃姫は雉猿狗のひざの上に頭を預けた。


「あったかい……お日様みたいな……雉猿狗」


 桃姫は雉猿狗の手だけでなく、その身体全体から発せられる温もりに身を委ねた。


「……頭、撫でてほしい」

「はい……」


 雉猿狗が桃姫のおねだりを聞いて桃色の髪をゆっくり撫で始めると、桃姫は気持ちよさそうに目を細めた。

 雉猿狗もまた母親のような慈愛に満ちた表情で桃姫の髪を手櫛で撫でた。開かれた格子窓から、涼しい秋風に乗って鈴虫の鳴き声が運ばれてきた。


「雉猿狗……天界から助けにきてくれて……ありがとう……」


 目を閉じた桃姫は、まどろみの中で呟いた。


「父上と母上も……暖かい場所にいるって……雉猿狗が教えてくれたから……」

「はい……」


 雉猿狗は桃姫の柔らかな髪を撫でながら静かに答えた。


「雉猿狗……私と……生き、て……」

「おやすみなさいませ……桃姫様」


 桃姫は深い眠りに落ち、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。雉猿狗はその安らかな寝顔を見つめながら、やさしく呟くのであった。

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