表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/173

32.播磨の旅

 花咲山を出立した桃姫と雉猿狗は、備前の峠道を東へと進んだ。ふもとの竹林を抜けると、収穫前の稲穂が秋風になびく広大な田園地帯が現れた。

 西日が稲穂を黄金に照らし、一直線に伸びる道の両脇を豊かな田んぼが囲んでいる。


「ここが……播磨」

「はい。道の先に見えるのは関所跡ですね」

「……関所」


 田園地帯に不釣り合いな木造の大きな門を見ながら桃姫は呟いた。


「かつては日ノ本中にありましたが、信長公が廃止を命じました。秀吉公もその方針を継いでおられます」

「……なんで廃止したの?」


 近づいてくる門番不在の関所を見ながら桃姫は尋ねた。


「人の往来は自由なほうがよいと考えたのでしょう。私たちが向かっている"堺"も信長公のそんな考えによって発展した都なのですよ」

「……そうなんだ」


 桃姫は雉猿狗の言葉に感心したように声を返すと、開かれた門をふたり並んでくぐり抜けたところで立ち止まった。


「雉猿狗は、なんでそんなこと知ってるの?」


 桃姫は仏の曼荼羅が描かれた雉猿狗の背中に問いかけた。


「三獣の化身なのに……なんでそんなことまで」


 桃姫の疑問に雉猿狗は振り返ると、天を仰ぎ見た。


「天界には様々な情報が集まってまいります。中には下界のことなど興味がないという方もいらっしゃいましたが……私は、下界の様子がずっと気になっておりました」


 桃姫も雉猿狗につられて茜色に染まった空を仰ぎ見た。


「だって……御館様の祈りが届くんですもの」


 雉猿狗は穏やかにほほ笑みながら呟いた。西日に照らされ、黄金にも見える銀髪を輝かせた雉猿狗を見つめた桃姫は、そっと視線を落とした。


「……父上と母上は……天界にいるのかな」


 地面を見つめながら桃姫が言うと、雉猿狗はすっと片ひざをついて桃姫と視線を合わせた。


「間違いなく。天界から、桃姫様のことを見護っておられます」


 雉猿狗の美しい翡翠色の瞳を見た桃姫は、三獣の祠に安置されていた〈三つ巴の摩訶魂〉を連想した。


「……わかった」


 桃姫は静かに頷いて答えると、再び歩き出した。それからしばらく歩くと、雉猿狗が桃姫に声をかけた。


「桃姫様、茶屋がありますよ」


 雉猿狗の声に顔を上げた桃姫。道の脇に茶屋が建っており、さらに向こうには宿場町がかすんで見えていた。


「宿に泊まる前に、少し休憩しましょうか」

「……うん」


 桃姫は小さく答えると、ふたりで茶屋ののれんをくぐった。座布団が敷かれた縁台に腰かけると、やってきた女店主に雉猿狗が草だんごとお茶を注文した。

 女店主は湯気の立つお茶とあんこの乗った草だんごをすぐに運んできた。


「ひとり分でいいの?」

「はい。あ、私にはお水をいただけますか?」


 女店主は眉をひそめたが、店の奥に向かった。


「雉猿狗は食べないの?」

「こちらはすべて桃姫様の分です。どうぞ」


 雉猿狗がほほ笑むと、女店主が水の入った湯呑を持ってきた。


「はい水。お代はいらないよ」

「ありがとうございます」


 雉猿狗は湯呑を受け取るとこくこくと飲んだ。


「訳ありだねえ……」


 桃姫と雉猿狗を横目で見た女店主は呟くと、店内に入ってきた客のもとに向かった。

 水を飲み干した雉猿狗は一息ついて空の湯呑を縁台に置いた。桃姫はそれを見た後、お茶の湯呑に手を伸ばした。


「熱そうなので、気をつけてくださいね」

「……うん」


 雉猿狗の忠告に桃姫は答えると、湯気の立つ湯呑を口に運んだ。一口含んだ瞬間、茶の苦みとは異なる血のような味が桃姫の舌に走った。


「……まずい」


 何とか飲み下した桃姫は呟くと、湯呑を置いて顔を伏せた。


「お茶は……苦手でしたか?」

「お茶は好き。母上が毎日入れてくれたから……でも、これは飲めない」


 桃姫は苦しそうな顔で着物の裾を握りしめた。


「草だんごはどうでしょうか。とてもおいしそうですよ」


 雉猿狗の言葉を聞いた桃姫は緑色のだんごを見つめた。


「あの、すみません」


 雉猿狗は他の客に注文を運び終えた女店主に声をかけ、空の湯呑を掲げた。


「お水のお代わり、いただけますでしょうか」


 女店主は不機嫌な顔を隠そうともせず、雉猿狗から湯呑を奪うように掴み取り、店の奥へ向かった。

 雉猿狗は女店主の態度に苦笑すると、後ろの格子窓に視線をやって、播磨の田園風景を眺めた。


「…………」


 桃姫は草だんごの一つを指で摘み上げ、鼻まで運ぶと表情を曇らせた。


「……変なにおい」


 よもぎの香りに混じる異臭を感じ取って呟くと、それでも小さく口を開け、だんごを口に運んだ。

 一噛みした瞬間、砂利を噛んだような違和感と不快な血の味が口内に広がり、桃姫は大きく目を見開いた。


「次からは、お代いただくからね」


 持ってきた湯呑みを縁台に置きながら女店主が言うと、桃姫の顔を見て眉をひそめた。


「ちょっと、あんた大丈夫かい?」

「……?」


 女店主の声を聞いた雉猿狗は、視線を戻して桃姫の顔を見た。桃姫は両手で口を押さえてふるえていた。


「うぷっ……」

「おいおい、店ん中で吐くんじゃないよ!」

「桃姫様!?」


 他の客が騒ぎに注目する中、桃姫は涙目で必死に咀嚼し、異様な味のする草だんごを無理やり飲み込んだ。


「うぅっ……」

「桃姫様、お水を」


 雉猿狗が差し出した湯呑を受け取った桃姫は、口内を洗い流すため急いで飲んだ。水だけは正常な味がすることに、桃姫は心の底から安堵した。


「桃姫様……大丈夫ですか?」


 桃姫の背中をさすりながら雉猿狗が心配そうに尋ねると、女店主は鼻で笑った。


「大げさだね、だんごが喉に詰まっただけだろ?」


 桃姫は湯呑から口を離し、小さな声で呟いた。


「……今まで食べただんごの中で、一番まずかった」

「はぁッ!?」


 桃姫の言葉に女店主は愕然として目を見開き、怒声を発した。


「失礼な娘だねッ! 他のお客さんの前で、そんなこと言うもんじゃないよ!」

「ッ……申し訳ございません」


 雉猿狗が頭を下げると、女店主の矛先が向けられた。


「あんたもあんただよッ! なぁんであんたは注文しないんだい!」

「その……私たちは、訳ありで」

「見りゃわかるよ! だとしても礼儀ってもんがあんだろう!」


 雉猿狗の釈明はさらに女店主の怒りを買う結果となった。


「……食事が終わったら、すぐに帰りますので」

「いらない……私これ、食べられない」


 桃姫が皿を追いやると、女店主の顔が真っ赤に染まった。


「今すぐ出て行っておくれ! お代はいらないから、二度と来るなぁッ!」


 女店主の一喝で、ふたりは茶屋から追い出された。


「ごめんなさい……雉猿狗」


 謝った桃姫。ふたりは、遠くに見える宿場町に向かって歩き始めていた。


「気にしないでください。桃姫様はなにも悪くありません」


 雉猿狗がやさしく声をかけると、桃姫は目を伏せて口を閉じた。草だんごの異様な味のことを、雉猿狗に話すべきなのか桃姫は迷っていた。


「ですが桃姫様。昨日からなにも口にしていません。このままでは倒れてしまいます」

「雉猿狗は……なにか食べなくていいの?」


 桃姫は気になっていたことを尋ねた。


「私には、食欲というものがありません」

「そうなんだ」


 雉猿狗は両手を広げ、夕焼けに染まる空を仰いだ。


「こうして陽の光を体に浴びていると、それだけで心身が満たされます」


 飛んでいた赤とんぼが気持ちよさそうに目を閉じた雉猿狗の指先に止まった。

 桃姫はその姿を見ながら、雉猿狗が"この世ならざる存在"であることを実感した。


「私は太陽が好きです。天界では、天照大御神様のお側にずっとおりましたから」

「アマテラス様……って、日ノ本で一番偉い女神様、だよね?」


 桃姫が尋ねると、雉猿狗は翡翠色の瞳を開いて桃姫に大きく頷いた。


「はい。鬼退治に命を賭した私たち三獣を、天照大御神様は深く愛してくださいました。そして──」


 雉猿狗は胸に手を当て、想いを込めるように握りしめた。


「──この身体を授けてくださったのです。桃姫様をお護りするための、この聖なる身体を」

「…………」


 ほほ笑む雉猿狗から深い愛情を感じ取った桃姫は、夕日に照らされる神々しい姿をただ黙って見つめるのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ