30.役小角の赤い部屋
鬼ノ城の地下へと続く長い階段を、役小角は降りていった。
前鬼と後鬼を引き連れ、満面の笑みを崩さず、燭台の灯りに照らされる下り階段を進んだ先には、赤い扉があった。
赤い扉の前に立った役小角は、右手に携えた〈黄金の錫杖〉の頭を扉の取手にかざし、弁財天のマントラを唱える。
「──オン・ソラソバ・テイエイ・ソワカ」
役小角の詠唱を聞き届けた赤い扉は、取っ手を紫光させからガチャリと音を立て、ギィと少しだけ手前に開いた。
「おぬしらはここで待て」
呟いた役小角が取手に左手を伸ばし、赤い扉を開けて中に入っていく。
残された前鬼と後鬼が呪符越しに互いの顔を見合わせると、巨体を反転させ、閉じられた扉の前に立つ門番となった。
「……さて」
暗い室内でひとり呟いた役小角は、チリンと〈黄金の錫杖〉を鳴らした。次の瞬間、燭台の火が次々と灯り出して、部屋の全貌を明らかにした。
その部屋は、壁から天井、床一面に至るまで赤一色であった。
「……最も偉大な師とは、最も自分を苦しめた人物である……とはよく言うたもので」
宝物庫よりも少し手狭な赤い部屋には、役小角が千年をかけて日ノ本各地で集めた禍々しい呪物や書物の数々が、左右の棚に収められていた。
中でも異様さが際立っているのは、部屋の中央に置かれた赤い瓶であった。
赤い床に描かれた赤い五芒星の上に鎮座する赤い瓶には、苦悶の表情を浮かべた不気味な装飾が幾つも施されていた。
「のう……御師匠殿」
満面の笑みを浮かべながら言った役小角は、赤い瓶に近づくと、中をのぞき込んだ。
瓶の中には、ふつふつと泡立つ赤黒い液体が渦を巻くようにうねっており、地獄の釜を彷彿とさせる邪悪さを見せつけていた。
「わしにも弟子が三人おるでな……弟子を持つ苦労も、十分に理解しておるつもりじゃよ。かかか」
笑った役小角は、立てかけられていたひしゃくを手に取ると、どろどろとした赤黒い液体を掻き混ぜ始めた。
すると叫び声を上げるように、さらに激しく液体が泡立ち始めた。その様子を満足げに役小角が眺めていると、聞き取り不能な女性の金切り声が響いた。
「────ッ!」
「……静かにせい」
金切り声に対して役小角は吐き捨てるように呟くと、赤い瓶から離れて呪物が陳列された棚の前へと移動した。
「────ッ! ────ッ!」
「……"千年善行"の間は大人しくしておったのに、最近になってまたずいぶんと騒ぎ立てるようになったのう」
鳴り響く金切り声に慣れた口調で応じた役小角は、〈黄金の錫杖〉を立てかけてから、棚の前の椅子に腰かけた。
「────ッ!」
「かかか。無駄じゃ無駄じゃ……御師匠殿の叫びは、無駄も無駄」
役小角は棚に置かれている筒立てに並べられた八本の小瓶を見ながら言った。八本のうち二本は空になっているが、それぞれが赤や青、黄や緑などの怪しく光る液体を内包していた。
さらに八本の小瓶には、それぞれ筆文字で"八天鬼"の名前が記されていた。左から、荒羅、滅羅、愚羅、波羅、餓羅、怒羅、絶羅、燃羅。
このうち"燃羅"と"愚羅"と記された小瓶が空になっていた。
「わしは死なず、おぬしはその空虚な社の奥深くで、ただひたすらに森羅万象の波を傍観して暮らす定めなのだ」
「────ッ!」
「かかか。泣こうがわめこうが結果は覆らん……千年前の京にて決したことだわいの」
役小角は、並んだ小瓶のうち空の小瓶の一本をスッと手に取ると、"愚羅"の文字を眺めながら呟いた。
「おぬしの負けじゃ。愚かな葛城山の女神よ」
役小角は自身のへそ、気海丹田の奥深く──"社神の術"によって築かれた社、その固く閉じられた扉に向かって声を投げかけた。
扉には、泣き叫ぶ女の影が浮かんでいた。それは千年前に役小角と陰陽師たちによって捕らえた葛城山の女神・一言主であった。
「引きこもりの女神のくせに、迂闊にも葛城山から降りてきたのがいかんのだ。"カサゴ"ごときに釣られおって」
「────ッ! ────ッ!」
「かかか。"卑怯者"と千年前からおぬしはそればかりだのう。他に言うことはないのかのう」
赤い部屋に響き渡る金切り声に役小角は笑って返すと、空の小瓶を筒立てに戻した。
「────ッ!」
「……なにぃ? あの掛け軸は、本物……?」
一言主の叫びに役小角は白眉を寄せながらうめいた。
「────ッ!」
「"ざまあみろ"……とな。まったく……おぬしは。かかか」
役小角は呆れたように掠れた笑い声をこぼすと、自身のへそを両手で撫でた。
「それだけ元気ならば大丈夫……もうよい、駄弁りは仕舞いじゃ」
「────ッ!」
「知るか……また気が向いたら対話してやる。それまでは大人しくしておれ」
役小角は一言主の抗議の声を一方的に制すると、"社神の術"によって築かれた荘厳な社のさらに外にある扉を固く閉じ、一言主の声は役小角のもとに届かなくなった。
「まったく……"腹の虫"とはよく言うが、"腹の女神"ほど厄介なものはないわい」
役小角は腹部を撫でながら言うと、棚の上に陳列された呪物、その中でも特別扱いを受けている赤い神棚に祀られるように鎮座する呪物を見やった。
「のう……おぬしもそうは思わんか?」
役小角は満面の笑みを浮かべながら愛おしそうに小さな桐箱に入ったその呪物に声をかけた。
「もうしばらくの辛抱だわいの……なんせ、わしらは千年も待ったのだ……千年──ああ、長かったよなぁ?」
桐箱に収められたそれは、赤紐で縛られた、雪のように白い一房の頭髪だった。
「だがもう少し……もう少しだけ、辛抱してくれよ──わしの"悪路王"」
役小角は千年もの間片想いを続ける相手の名を告げると、細められた漆黒の眼の奥深くに大宇宙の輝きを映し出すのであった。