29.おつるの覚悟
「さすがのおつるちゃんでも、この柘榴石を見せたら羨ましがるでしょうねェ」
鬼蝶はいたずらっぽい笑みを浮かべ、黒い引き戸に左手をかけた。
「──ねぇ、おつるちゃん? ちょっと話があるのだけれど」
鬼蝶は告げると、柘榴石を握った右手を背中に回しながら引き戸を開いた。
燭台の灯りに照らされた黒い寝台の上で、ひざを抱えて座りながら顔を伏せているおつるの姿を見た鬼蝶は、苦笑してから室内に足を踏み入れた。
「見て、おつるちゃん……いいでしょう? 鬼になるとね、こういう素敵な物が手に入るの」
鬼蝶は自慢げに言いながらおつるに柘榴石を掲げた。だがおつるは見向きもせず、むしろうずくまるようにその体を丸めた。
「ふっ……まったく、いつまでそうしてるつもりよ? せっかく採ってきた柘榴だって食べてないし……」
鬼蝶は机の上に置かれた手つかずの柘榴の果実を見やると、左手を伸ばして掴み取り、代わりに右手の柘榴石をコトッと机の上に置いた。
机の下に仕舞われていた椅子をギギギと黒い床をこすりながら引っ張り出した鬼蝶は、うずくまっているおつるを眺めながら椅子に腰かけた。
「いい加減、この状況を受け入れなさいな……桃太郎は死んでしまったし、桃姫ちゃんも助けには来れないの……おつるちゃんはね、もう鬼になるしか道はないのよ」
左耳の上に赤いかんざしが挿されたおつるの黒髪を見つめた鬼蝶は、言い聞かせるようにそう告げ、しなやかに右脚を組んだ。
「鬼ヶ島で育てたこの柘榴を食べれば、あなたは立派な鬼女になれるの。そりゃ鬼になるとき、ちょっと苦しむかもしれないけど……でも安心してちょうだい、そこから先は、素晴らしい鬼の世界が待ってるんだから」
鬼蝶は左手から右手へと、熟成しきって果皮を弾けさせた柘榴の果実をもてあそぶように持ち替えると、黄色い瞳に宿った"鬼"の文字を赤く光らせながらおつるに告げた。
「この残酷な世界に絶望するんじゃなくて、鬼の側になって思う存分に楽しめばいいのよ……殺される側から、殺す側になって、"残虐"を心から楽しむの──さぁ、おつるちゃん。鬼の世界に旅立ちましょうよ」
鬼蝶は陰惨な笑みを浮かべながら椅子から立ち上がった。赤い鼻緒の黒い下駄でカン、カンと床を踏み鳴らし、おつるがうずくまる寝台へと歩み寄っていく。
そして、左ひざを冷たい寝台の上にすべらせるように乗せると、右手に持った柘榴の果実をおつるの前に突き出す。
「私の手下として、たっぷり可愛がってあげるから……さぁお食べなさいな、おつるちゃん」
腐臭にも似た何とも形容しがたい鬼ヶ島産柘榴の甘ったるい芳香がおつるの鼻腔を突いた。
「…………」
黒髪の隙間から鬼蝶の顔をキッと睨んだおつる。その瞬間、抱え込んだひざ下に隠していた小刀の切っ先を、鬼蝶の首筋めがけてシュッと突き出した。
「──あははッ!」
鬼蝶は甲高い笑い声を発しながらその切っ先をかわすと、伸ばされたおつるの右腕を鬼の爪が生えた左手で瞬時に掴み取り、勢いそのまま、おつるの体を組み伏せて寝台の上に押し込んだ。
「──気づいてたわよォ、小刀がなくなってることくらいねェ……いったいいつになったら刺してくるのかなァ、なーんて……わくわくしながら、待ってたんだから」
「く、くぅ……っ」
鬼蝶は自身の吐息がおつるの顔にかかる距離まで顔を近づけて告げると、おつるは黒い爪を立てて握りしめられた右腕に鋭い痛みを感じながらうめき声を漏らした。
「ふふふ。やってくれたわねェ、おつるちゃん……でもね、その気迫。正直言って私、嫌いじゃないわ……鬼蝶様の手下に相応しい行動よ……とーっても気に入っちゃった」
「……ぐ……ぐっ」
鬼蝶は熱っぽい声で言いながら鬼の爪をさらに立てて握りしめると、おつるは握り続けていた小刀を手放して、寝台の上にカツンと落とした。
「でもね? 私はあなたの飼い主なの。飼い主にだけは歯向かっちゃいけないってことだけは……しっかりと"躾"ないといけない」
「ぐッ! あ、ああッ……!」
鬼蝶の爪がおつるの腕の肉にグググと突き刺さっていくと、あふれ出した鮮血が五本の赤い線となって流れ、黒い寝台の上にポタポタと垂れ落ちた。
「おつるちゃん、私に忠誠を誓いなさい。金輪際、鬼蝶様には歯向かいませんと──おつるちゃん、誓いさいなッ!」
「──いやだっ!」
おつるが叫んで拒絶すると、鬼の目をカッと見開き、右手に持つ柘榴の果実をグシャッと握り潰しながらおつるの口元に突き出した。
おつるは咄嗟に口を固く閉じて顔を横にそむけたが、鬼蝶はねじ込むように赤い果汁を垂れ流す破裂した柘榴を顔面に押しつけた。
「こんなに強情な娘だとは思わなかったわ! もう鬼女になるしかないって! どうしてそんな簡単なことが理解できないのよッ!?」
鬼蝶がおつるの顔を睨みつけながら声を荒げると、おつるは不意に口を開き、口内に滑り込んできた鬼蝶の右手の小指をガリッと力強く噛みしめた。
「──ギヤッ!!」
突然の激痛に喉奥から声を張り上げた鬼蝶は、飛び退くようにおつるの体から離れると、背後の椅子を弾き飛ばし、背中を強かに机の角に打ちつけた。
その衝撃で机がガタンと大きく揺れると、置かれていた柘榴石が転がり落ち、黒岩を削り出して作られた硬い床に激突して、カシャンと甲高い音を立てながら四方八方に砕け散った。
「あ、ああッ……ああッ──!!」
黒い床に花びらのように散らばった赤い欠片を見回して、ふるえる声で叫んだ鬼蝶。おつるはその隙に、流血する右腕を伸ばして寝台に転がる小刀を掴み取った。
「やってくれたわね」
憤怒の形相で顔を上げた鬼蝶は、おつるの顔をギンと睨みつけながら告げると、右手から伸びる鬼の爪をザッと限界まで伸ばした。
「私は鬼になんかならないッ!」
目に涙を浮かべながら叫んだおつるは、硬い寝台を蹴り上げ、両手で握りしめた小刀を突き出しながら鬼蝶めがけて飛びかかった。
「──じゃ、いらない」
冷たく言い放った鬼蝶は、飛びかかってくるおつるの腹部めがけて、右腕を振り上げて叩き込んだ。
「……っ!」
おつるによって突き出された小刀は鬼蝶の左頬を切り、黒い鬼の血を流れさせた。
その一方、長く伸びた鬼蝶の爪は、おつるの腹部を刺し貫き、鋭い五本の鬼の爪に真っ赤に染め上げていた。
「……かっ……っ」
黒い瞳を見開いたおつるは掠れる声を漏らすと、握っていた小刀を手放して、黒い床にカツンと音を立てながら落とした。
「フーッ……フーッ……フーッ」
鬼蝶は荒い呼吸を繰り返しながら、長い鬼の爪が伸びる右手をズッとおつるの腹部から引き抜き、冷たい床の上におつるの体を落とした。
光が失われていく瞳に涙を湛えたおつるは、口から鮮血を垂らしながら弱々しい声で呟いた。
「……おかぁ……さん……」
「フーッ……フーッ……フーッ……」
鬼蝶は肩を揺らし、荒い呼吸を繰り返しながらおつるの姿は見ず、黒い壁の一点だけを睨み続けた。
「……ももひめ……ちゃん……」
最期に"大親友"の名を呼んだおつるの黒い瞳から命の光が完全に失われると、鬼蝶の呼吸はさらに激しくなった。
「フーッ……! フーッ……! フーッ……!」
そして柘榴石の破片が散らばっている黒い床に倒れ伏しているおつるを鬼蝶はゆっくりと見やると、爪の先から鮮血を滴らせている鬼の爪を唇を噛みながら短く戻した。
「……私は悪くない……私は悪くない……私は悪くない……私は悪くない」
鬼蝶は自身の荒ぶる鬼の心に言い聞かせるように呟き続けると、深く息を吐いてから、おつるの亡骸に背を向けた。
「だって、おつるちゃんが悪いのよ……そうでしょ」
鬼蝶は呟きながら、黒い下駄で柘榴石の破片をパキパキと踏みして歩き出した。
燭台に灯っているロウソクの火を鬼の爪でひねり潰すように消し、部屋を暗闇に落とした鬼蝶が廊下に出る。
後ろ手で黒い戸を閉めようとした鬼蝶は、横目でちらりとおつるの姿を見やった。
「……くッ」
鬼蝶は苦々しげな顔をしておつるの亡骸から目を逸らすと、黒い戸を完全に閉め切るのであった。