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28.千年善行・千年悪行

「千年前のわしの力量では、単独での成功は不可能──優秀な弟子たちの手助けがあってこその"社神の術"だったというわけじゃ」


 役小角は感慨深げに言うと、千年にわたって一言主が捕らえられているへそに、グッと手を押し当てるのであった。


「そして、"千年善行"を始めたというわけか」


 巌鬼の低い声に、役小角は深く頷き、細く閉じられていた漆黒の眼をわずかに開いた。


「いかにも……"千年善行"」


 役小角は千年に及ぶ善行の記憶を脳裏に走らせながら、宝物庫の中を再び歩き始めた。


「御師匠殿を体内に捕らえて不死となったわしは、それから千年にわたって日ノ本を行脚し、善行に勤しんだ──とにかく我武者羅に、目につく限りの人助けを強行した……老若男女、貴賤貧富を問わず……助けて助けて、助けまくったわいの」


 役小角の漆黒の眼は、自分にすがりつく民衆の姿を幻視していた。


「ときには右手で病を癒し、ときには左手で怪我を治す。そして〈黄金の錫杖〉を振るっては邪鬼を祓った……一切の見返りを求めることなく、千年間ひたすらに善行を重ねた。ただ一つだけ、求めずとも止め処なく押し寄せてきたものがある」


 役小角は傾聴する鬼蝶と、太い腕を組んで無関心を装う巌鬼を見やった。


「"感謝"じゃよ──それはそれは感謝された。皆わしの前にひざまずき、両手を合わせて拝まれた……行く先々で人々が待ち構えては、平伏しながら道を開けた……あのとき、わしの耳は確かに……"功徳"が積み上がっていく音を聞きましたわいの」

「……ふん、くだらん」


 鼻で笑った巌鬼の冷笑に、役小角もまた笑みを浮かべて答えた。


「その通りじゃよ、温羅坊。まったくもってくだらぬことよ──現にわしは"飽き果てた"……人々から感謝されること、それ自体に飽き果てたのじゃ。まぁ何事もそうであろうが、千年もやり続ければ、"完全なる飽き"というものが訪れるものよ」


 嘆息しながら告げられた役小角の言葉を聞いた鬼蝶と巌鬼は、ちらりと互いの視線を交わし合った。


「……ゆえに次は、"千年悪行"でございますか?」


 黄色い目を細めた鬼蝶の問いかけに、役小角は一拍の沈黙の後、これでもかと口を大きく開いて大笑いを放った。


「かかか! いかにも! 千年の"善行"を執り行い、次の千年には"悪行"を執り行う! これにて"陰陽の均衡"が完成するのじゃッ!」


 役小角は我が意を得たりという面持ちで漆黒の両眼を完全に開くと、星々が渦巻く深遠なる大宇宙をその双眸に映し出した。


「この大宇宙は陰と陽の妙絶なる均衡の上に成り立っておる! わしはひとりで陽を日ノ本に振り撒きすぎたのじゃ! これではいかん! これでは、均衡が崩れるッ!」


 〈黄金の錫杖〉を高く掲げながら甲高い声で告げる役小角。役小角の見開かれた両眼を初めて目にした巌鬼と鬼蝶は、その瞳に大宇宙を秘めていたことに息を呑んだ。


「均衡じゃ! この大宇宙にとってなによりも肝心なのは、"陰陽の均衡"なのじゃよッ!」


 宣言するように高らかに告げた役小角は〈黄金の錫杖〉でカンッと床を突き、金輪をチリンと盛大に鳴らしてから、身をひるがえし、開かれている扉へと颯爽と歩き出した。


「お待ち下さい、行者様……千年にわたって"悪行"を執り行なった、その後は、どうなされるおつもりで?」


 宝物庫を立ち去ろうとする役小角の背中に、鬼蝶が疑問を投げかけた。


「うむ。"千年善行"を行ったわしは、莫大な力を得た……さらに加えて"千年悪行"を行えば、いったいどうなってしまうのか──」


 神妙な声で呟いた役小角は、グルンと"顔だけ"を背後に回して、鬼蝶と巌鬼を見やった。


「──わしにもわからん──」


 千年にわたる善行をやり遂げた結果、顔面に貼り付いて剥がれなくなった満面の笑みで告げた役小角。

 再びグルンと顔を回して正面に戻すと、「かかか」と高笑いしながら宝物庫を去っていった。


「クソジジイが……」


 役小角に対して少なからぬ畏怖の念を抱いていた己に気づいた巌鬼が呟いた。


「……"陰陽の均衡"だと? 偉そうなことを……さらなる力を得たい、ただそれだけだろうが」


 巌鬼が憎々しげに口にすると、鬼蝶がしなやかに巌鬼の前に移動して、その顔を見つめながら口を開いた。


「ですけど、巌鬼。行者様の持つ圧倒的な力に鬼ヶ島の軍勢が助けられているのは事実──気の済むまで泳がせておけばよいではありませんか」


 鬼蝶が諌めるように言うと、巌鬼は熱い息を鼻から吐いてから、床に落ちている破れた掛け軸を睨んだ。


「わかっている……一言主とかいう癇癪持ちの女神が体内にいるのも事実だろう。ヤツの力を利用しなければ、日ノ本に地獄を作り出すことは叶わぬ──忌々しいクソジジイだ」


 吐き捨てるように言った巌鬼が、分厚い足を一歩前に踏み出すと、眼前に立っている鬼蝶がアゲハ蝶のように両手を大きく広げた。


「どうせこの世は無意味──ならばせめて楽しみましょうよ。ねぇ巌鬼?」

「…………」


 妖艶なほほ笑みを浮かべた鬼蝶の顔を巌鬼は無言で睨みつけると、太い腕でその体を押しのけ、扉に向かった。


「……あら」


 よろけた鬼蝶は、宝物庫から去っていく巌鬼の大きな背中を見つめた。廊下に出た巌鬼は、宝物庫の中にひとり残された鬼蝶に向けて口を開いた。


「この扉は俺しか動かせない。閉じ込められたくなければ、今すぐに出ろ」

「……あ! 待って」


 巌鬼の警告を聞いた鬼蝶は慌てたように駆け出し、扉を抜けて廊下へと躍り出た。巌鬼は分厚い黄金の扉をドオンという重い音を立てて閉めた。


「それで鬼蝶──なぜ貴様は、その柘榴石を盗み取った?」

「……え」


 廊下に仁王立ちした巌鬼が見下ろしながら告げると、鬼蝶はぎくりとした顔で声を漏らした。


「出てくる時、左の袖に入れただろう……俺が気づかないとでも思ったか?」

「……う」


 巌鬼の詰問に顔を伏せた鬼蝶は、左の袖に右手を差し入れると、手のひらに収まる真っ赤な柘榴石を取り出した。


「……欲し……かったから」

「宝物庫から"盗み"を働くのがどういうことか……わかっているよな?」


 ドスの効いた巌鬼の言葉に、鬼蝶の白い顔がまたたく間に青ざめていく。鬼ノ城は城主である巌鬼の城──その宝物庫から"盗み"を働いたとなれば、この場で殺されても文句は言えない。


「…………」


 巌鬼が今どのような表情を浮かべているのか、恐ろしくて鬼蝶は顔を上げることができなかった。


「持っていけ……ただし、二度目はないぞ」


 ふるえる鬼蝶の肩を見下ろした巌鬼は言い放つと、鬼の足を踏みしめながら廊下を歩き去っていった。


「……っ」


 まさかの返答に驚いた鬼蝶は、手にした柘榴石を思わず落としそうになるが、慌てて胸元に抱き入れて両手で握りしめた。


「だから好きなのよ! 巌ちゃん!」


 巌鬼の筋肉質な背中に向けて満面の笑みで叫んだ鬼蝶。その声を耳にした巌鬼は立ち止まると、おもむろに左の拳を持ち上げ、黒い壁を裏拳で殴りつけた。


「もう一度その呼び方をしてみろ──本当に殺すからな」


 巌鬼は横顔で鬼蝶を睨みつけながら言うと、鬼の拳を壁から抜き取った。

 拳の形にへこんだ壁面から黒岩の破片がパラパラと廊下に落ちると、巌鬼は玉座の間に向かって歩き去っていった。


「……怖い怖い」


 小さく声を漏らした鬼蝶は遠ざかる巌鬼の背中を引きつった笑顔で見送った。

 それでも美しい柘榴石を手に入れられたことに気分を良くした鬼蝶は、城内を軽やかに歩き、おつるがいる部屋の前へとたどり着くのであった。

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