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26.御館様の祈り

 雉猿狗の後を追いながら、桃姫の表情は次第に暗く沈んでいった。

 昨夜小夜に手を引かれて駆け抜けた村の通り。陽光の下で見る破壊された村の惨状は、桃姫の心に影を落とした。


「桃姫様、お体の具合はいかがですか。顔色が優れないようですが」

「…………」


 遅れがちになった桃姫に気づき、振り返った雉猿狗が心配そうに声をかけた。桃姫は無言のまま首を横に振って返した。

 雉猿狗は心配の色を浮かべながらも歩みを止めることなく北へ向かい、やがて花咲村の裏門に到着した。

 門をくぐり抜け、村を出た桃姫の目に花咲山に続く赤い鳥居が映った瞬間、足が止まった。


「はぁ……はぁ……はぁ!」


 肩を上下させ、荒く激しい呼吸をしながら両手で胸を押さえた桃姫。


「……少々お待ちください!」


 桃姫の異変に気づいた雉猿狗は、その場から駆け出していく。そして、近くの井戸から手早く水を汲み上げると、袖から取り出した白い手ぬぐいに水を含ませた。

 濡らした手ぬぐいを手に、雉猿狗は急いで桃姫のもとへ戻る。先ほどよりいっそう激しく呼吸を乱した桃姫に濡れた手ぬぐいを差し出した雉猿狗。


「お水を飲みましょう、桃姫様」

「はぁっ……はぁっ……はぁっ!」


 雉猿狗は細い指で桃姫のあごを支え、わずかに顔を上向かせる。右手でゆっくりと手ぬぐいを絞り、水滴を口の中に落としていった。

 桃姫は舌に落ちた冷たい水を自然に嚥下していき、昨夜から水分を摂っていなかった乾いた体に、染み渡るように吸収されていく。


「ん、ごく……」


 喉を鳴らした桃姫は、手ぬぐいから最後の一滴が落ちるまで飲み続けた。雉猿狗も完全に絞り切るまで水を与え続けた。


「はぁ……はぁ……」


 水分の補給により、桃姫の荒い呼吸は徐々に落ち着きを取り戻していった。雉猿狗もほっと安堵のため息をついた。


「桃姫様、お顔も」


 雉猿狗は湿った手ぬぐいで、桃姫の顔をやさしく拭い始めた。

 目を閉じた桃姫は雉猿狗に身を任せ、埋葬作業で汗と土にまみれていた顔を清められていった。


「先へ進むのが、恐ろしいですか?」


 桃姫の顔を拭き終えた雉猿狗が手ぬぐいを離しながら尋ねると、桃姫は静かに頷き、目を閉じたまま口を開いた。


「……嫌なことが、あったから」


 苦しげにそう呟く桃姫を黙って見つめた雉猿狗は、手ぬぐいを袖の中に仕舞い込むと、赤い手甲を着けた右手で桃姫の左手を握った。

 手のひらに"太陽の熱"を感じた桃姫は思わず濃桃色の瞳を見開いた。そして雉猿狗の整った顔立ちと、翡翠色の透き通った瞳を見た。


「ともに参りましょう、桃姫様──雉猿狗と一緒なら、なにも恐れることなどございません」


 雉猿狗はやさしくも毅然とした声で告げ、歩き出した。雉猿狗の手に引かれるようにして、桃姫は赤い鳥居へと歩みを進めていく。

 桃姫は雉猿狗と結ばれた手のひらに生じる太陽の日差しのような不思議な温もりを感じながら、ふたり並んで赤い鳥居をくぐり抜けた。

 山道を進むうちに、いつしか太陽は沈み、夜の帳が降りた。雉猿狗と桃姫が三獣の祠の前にたどり着くと、桃姫は目を細めた。


「昨夜、桃姫様をご自宅まで運び、新しいお着物に着替えさせ、お布団にお休みいただいた後……私は、御館様のご遺体をここまで運びました」


 三獣の祠の前には、切断された右肩がつなぎ合わされ、白い死装束をまとった桃太郎の遺体が横たわっていた。

 桃太郎は胸の上で両手を合わせて合掌し、死の瞬間に見開かれていた目は今は静かに閉じられ、穏やかに見える表情を浮かべていた。

 その頭上には、打刀〈桃源郷〉と脇差〈桃月〉を収めた白鞘が並んで置かれていた。


「……父上」


 桃姫は静かに呟くと、月明かりに照らされる桃太郎の遺体の傍らにしゃがみ、そっと身を寄せた。その光景を見つめながら、雉猿狗は語り始めた。


「御館様は、鬼退治を終えて村にお戻りになられると、すぐに私たち三獣を手厚く供養し、この三獣の祠を建立してくださいました」


 雉猿狗は心から嬉しそうにそう言ってほほ笑むと、白い石造りの祠の格子扉の奥をのぞき込んだ。

 そして、榊に挟まれた神棚に祀られていた〈三つ巴の摩訶魂〉が消えていることを確認した雉猿狗は、手間にある香炉を囲んだ三つの骨壺を見た。

 雉猿狗は、小さな青白い三つの骨壺に、桃太郎の手によって藍色の顔料で描かれた犬、猿、雉の絵を、穏やかな笑みを浮かべながら眺めた。


「18年にわたる御館様の祈りは、天界にいる私たちのもとまで届きました。最初の4年間、御館様の祈りは私たち三獣に対する"感謝の祈り"でした」


 雉猿狗は満ち足りたような声でそう言うと、桃太郎の遺体に寄り添う桃姫へと振り返った。

 桃姫は桃太郎の腹部に当てていた顔を上げ、雉猿狗の翡翠色の瞳を見つめた。


「そして……その後の14年間の祈りは──"どうか桃姫を護ってください"……ただひたすらに、その一念でした」


 桃太郎の祈りの言葉を雉猿狗が告げると、桃姫の濃桃色の瞳から涙があふれ出た。次々とこぼれ落ちる涙が、桃太郎の死装束を点々と濡らしていく。


「御館様の祈りは、私たちをこうして再び現世に降臨させるほど強いものでした……そして、それは私たちの願いでもあります」


 雉猿狗はそう言うと、その場に片ひざをつき、涙を流す桃姫と目線を合わせた。


「たとえ死んででも、雉猿狗は桃姫様をお護りいたします──それが私たち三獣の切なる願いなのです」

「……ッ」


 雉猿狗の凛とした声と眼差しに息を呑んだ桃姫は、小さく口を開いて呟いた。


「……死んだら……護れないよ」


 眉をひそめた桃姫の言葉を聞いて、雉猿狗は軽く咳払いをしてから改めて宣言した。


「死んでもよい覚悟で、お護りいたします」


 雉猿狗は何度見ても美しい凛とした佇まいでそう告げると、桃姫は小さく頷いた。


「……うん……それなら、いいかもしれない」


 その言葉を聞いた雉猿狗は、これ以上ないほどの満面の笑みを見せた。その笑顔に釣られて、桃姫も少しだけ笑みを浮かべた。

 永遠の眠りについた桃太郎を前にして、互いの笑顔を見せ合った桃姫と三獣の化身。そんなふたりの姿を、秋の黄色い満月がやさしく照らし出すのであった。

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