24.鬼人の大穴
「……おっとお、おらもうだめだぁ」
「こらえろ、吾作。鬼の食いもん、一度でも食っちまったら、どうなるかわかんねぇだ」
吾作と呼ばれた少年が父親に弱々しく言うと、父親は声を荒らげて吾作の行動を制した。
「だども、おら……腹すかして待ってた祭りで、なんも食えんかったから……ほんとに腹が減って……このままだと、死んじまうよぉ」
吾作が悲痛な面持ちで声を漏らしたそのとき、笹の葉をガバッと開いて、山と盛られた赤飯に手を突っ込む若い男の姿があった。
「もう我慢ならねぇ! 俺は食うぞ! こんなとこで飢え死になんかして、たまるかってんだ!」
「おい、やめろ!」
かつて桃太郎とともにやぐらの建設をしていたその男は、他の村人が制止する声も聞き入れず、右手に掴み取った赤飯を口の中に押し込んだ。
「あぐっ! ん、んめえっ! んめぇぞ、こりゃあ! 大丈夫だっ! みんな、食える! このメシ、食えるぞ!」
「…………」
嬉々とした声を上げながら赤飯を食べだした男の姿を、その場にいる村人たちが生唾を飲んで見つめた。
そして、村人たちの中からひとり、またひとりと、赤飯に近づく者が現れだした。
「ほんとだ……米だ。ちゃんとした米だ!」
「んぐ! んめえ……! んめぇなぁ!」
ひとりが赤飯に手をつけたことを皮切りに、吸い寄せられるように次々と赤飯に手を伸ばしていく村人たち。
その光景を羨ましそうに見つめていた吾作は、山ほどあった赤飯が減っていくのを見ながら叫んだ。
「おら食うだ!」
「吾作……!」
父親の声を振り切って走り出した吾作は、村人たちの間を分け入り、残り少なくなった赤飯に両手で掴みかかった。
「あぐっ! ん、んめ! んめぇ!」
「おらだってな……おらだって、ほんとは食いてぇだよぉ」
両手に握った赤飯をむさぼり食う息子の幸せそうな顔を見た父親は、その場に座り込むと、両ひざを両拳で叩きながら涙を流した。
「おっとお……ほら」
立ち上がった吾作は父親のもとに近づくと、左手に握りしめた赤飯を差し出した。
「早く食わねと、おっとおの分が無くなっちまうだから」
「そうだな……そうだ。おめぇの言うとおりだ……食わねと……食わねとな」
正座をした父親が呟いて、吾作が差し出す赤飯に手を伸ばした、そのとき。
「うッ! うッぐ……ぐッ! ぐア、あ……ががアが!」
「……!? どした!? どしたぁ、吾作!?」
突如として苦しみ出した吾作は、差し出していた赤飯を地面に落とすと、両手で自分の喉を押さえた。
うめき声を発し、苦悶の表情を浮かべた吾作の顔が、またたく間に青黒く染まっていく。
「かかか! 始まりおったぞ! 人が鬼へと転じるさまは、いつ見ても愉快だのう!」
大穴の上で笑い声を発した役小角。大穴の底にいる父親が悲痛な面持ちで役小角を見上げて叫んだ。
「なにしたァ! おめえッ! おらのせがれに、いったいなに食わしただぁッ!」
「かかか。なに、ちょいと隠し味に"鬼の血"を混ぜて炊いただけじゃよ」
その言葉に父親は愕然とすると、役小角は〈黄金の錫杖〉の頭で大穴の底を指し示した。
「呆けた面しとる場合ではないぞ。ほれ、大事なせがれがおぬしのことを見ておる」
「……っ?」
父親が吾作の方に顔を向けると、そこには赤い角を額から生え伸ばし、赤い眼を光らせる青黒い肌の鬼人と化した吾作が立っていた。
「ああ!? ああ、吾作! おめぇ、どしただ!?」
「……おどお、アア、ぐがが──ガああ、アアああッ!」
鋭く伸びた牙を剥き出しにして吼えた吾作は、戦慄する父親に襲いかかった。
「ギやぁあッ!」
「かかか。これで、おぬしのせがれは空腹に苦しまずに済むでな。父親としての務めを立派に果たせましたわいの」
息子に食われる父親の断末魔の声を耳にしながら役小角が笑うと、隣に立っていた鬼蝶があることに気づいて口を開いた。
「あら……赤飯を食べたのに、鬼人に転じぬ者がおりますわ」
苦しんだ末に鬼に転じる者と絶命する者との二者に分かれていることを鬼蝶は見て取った。
「そこに気づくとは目聡いのう……いかにも、鬼に転ずる確率は半々──陽が出れば死に絶え、陰が出れば鬼人と化す」
「なるほど……陰と陽のどちらが出るかは、生来の性質ですか?」
役小角の説明に、鬼蝶は納得の声を上げながら分析した。
「難しいところだのう。人は変わるでな。陰が陽に、陽が陰に。肝心なのは均衡じゃ──ゆえに確率は半々になるのよ」
役小角は言うと、〈黄金の錫杖〉をチリンと鳴らしながら大穴の底を指し示した。
「しかし、死に絶えることとて無駄ではない。その亡骸はむさぼり食われ、他者の血肉に変わって生きる──これこそが、万物流転の理ですわいの」
「千年の時を生きる行者様のお言葉、敬服いたしますわ」
「かかか」
笑った役小角は、前鬼と後鬼を引き連れて大穴を立ち去っていく。
すると、腕を組んで仁王立ちしていた巌鬼がギロリと役小角を見やった。
「新たな鬼人が誕生したようだな……鬼の出来損ないだが、花咲村では思いのほか役に立った。もっと作れ」
「おぬしに言われずとも、鬼人兵の大軍勢を築き上げるのが目下の課題じゃ。なにより、鬼ヶ島の戦力は枯渇しとるからのう」
巌鬼の前で立ち止まった役小角が、満面の笑みを浮かべながら漆黒の眼を細めた。
「のう温羅坊、覚えておるか?」
神妙な声を発した役小角の顔を巌鬼が黙って見下ろすと、役小角はにんまりとした笑みで巌鬼の顔を見上げた。
「おぬしは、母鬼の肉を喰らおうとしておった。あともう少しで、"あれ"に成り果てようとしておったのだぞ?」
そう告げた役小角を巌鬼は憎々しげに睨んだ。
「せいぜいわしに感謝せいよ、温羅坊」
「誰が感謝などするかよ! 腐れ外道僧ッ!」
もしあのとき、母鬼の肉を食べていたら、もし役小角が来なかったら、巌鬼は拳をふるわせた。
「外道の鬼に言われるとは、こりゃあ傑作じゃ! かかか!」
笑った役小角は振り返ることなく、二体の大鬼を引き連れて鬼ノ城へと歩いていく。
「……あンの、クソジジイ」
息を荒くした巌鬼が、大鬼に扉を開けさせて場内に入っていく役小角の姿を見送ると、鬼蝶が隣にやってきて巌鬼に声をかけた。
「でも、私たちには行者様の力が絶対的に必要……そうよね、巌鬼?」
「……そんなことは、わかっている」
巌鬼は鬼蝶の顔を見ずにぶっきらぼうに答えると、肩を怒らせながら鬼ノ城に歩いていった。
「さてと……」
去っていく巌鬼の背中を見送った鬼蝶は裏庭を歩き出し、赤い海原が一望できる崖沿いに向かって歩き出した。
裏庭の崖沿いには、鬼蝶によって育てられた柘榴の木が二本並び立っていた。
鬼ヶ島特有の腐敗した赤土と、赤い海から吹きつける臭い潮風を浴びた柘榴の木は、枝葉同士が絡み合って、見るも無惨な邪悪な形状をしていた。
「うーん……これにしましょう」
鬼蝶は、しなだれかかった枝に実っている柘榴の果実を手に取って、馥郁とした香りを嗅いだ。
熟しきった果皮は盛大に破裂しており、美しくも凄惨な果肉を見せつける柘榴の果実を見回した鬼蝶は、思わず笑みをこぼした。
「……これならきっと、気に入ってくれるわよね」
日ノ本の物より一回り大きな鬼ヶ島の柘榴の果実を黒爪でちぎり取り、胸に抱えた鬼蝶は鬼ノ城へと戻った。
そして、城内の燭台が照らし出す長い廊下を歩き、目的の部屋の前までやってくると鬼蝶は声を上げた。
「入るわよ、おつるちゃん」
黒い引き戸をガラガラと開けた鬼蝶は、黒岩を削り出して作られた黒い部屋の一段高くなってる寝台に座るおつるの姿を見やった。
ひざを抱えたおつるは、虚ろな瞳で荒削りの黒い壁をじっと見つめていた。
「…………」
母・おかめの悲壮な死に様、赤々と燃え上がる花咲村、小夜に手を引かれ叫びながら遠ざかっていく桃姫の顔。
それらの光景が、おつるの脳裏に映っては消えてを繰り返し、おつるの心を増々疲弊させていった。
「ふん」
そんなおつるを鼻で笑った鬼蝶は、黒い部屋に足を踏み入れ、燭台のロウソクに火をつけた。
「見て、この鬼ヶ島の柘榴。立派でしょう? 私が育てたのよ。食べなさい」
鬼蝶は柘榴の果実を掲げながら言うと、おつるは顔を伏せたまま一切の反応を返さなかった。
鬼蝶は机の上に柘榴の果実と小刀を置くと、着物の袖からキセルをスッと取り出した。
「おつるちゃん、あなたを私の部下にしてあげる……これは初めてのことで、とても光栄なことなんだからね」
鬼蝶は慣れた手つきでキセルに着火して、机に寄りかかりながら一服すると、沈黙するおつるの顔に向けて紫煙を吹きかけた。
「今はまだちんちくりんだけど……成長したら、かなりの美人さんになりそうな予感はしてるのよね」
濃厚な紫煙が顔を覆っても、おつるは表情一つ変えなかった。その生気のない顔を見つめた鬼蝶は、キセルを口から離すと思案しながら告げた。
「ねぇ、おつるちゃん。あなた、なにか欲しい物はないわけ? お菓子でも着物でも宝石でも……この鬼ヶ島なら、なんでも手に入るのよ? 本当よ?」
「…………」
鬼蝶の提案に無言を貫いて答えとしたおつる。
「……あっそ」
その態度に嫌気が差した鬼蝶はキセルを逆さにして、火皿に詰まった刻み煙草を冷たい石畳の上に振って落とした。
「まぁ、そのうち気が変わると思うわ……どうせ、あなたに残された道は一つしかないのだから」
鬼蝶は冷たい声でおつるに言うと、廊下に出て引き戸を閉めた。
「…………」
鬼蝶が居なくなった部屋でおつるはゆっくり顔を上げると、机の上に置かれた柘榴の果実と小刀を静かに見つめるのであった。