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23.鬼蝶

 血の色をした海に浮かぶ鬼ヶ島。その中央にそびえ立つ鬼ノ城、玉座の間にて。

 漆黒の玉座に腰かけ、太い腕を組みながら固く目を閉じる鬼ヶ島首領・温羅巌鬼の姿があった。


「ぐ……ウウ……うぅむ」


 桃太郎退治を見事に成し遂げ、鬼ヶ島に堂々たる帰還を果たした巌鬼は──しかし、襲いくる過去の悪夢に苛まれ、苦しげにうなり声を漏らしていた。


「……かか……かか……」


 18年前の"奥の間"──赤子の巌鬼が死に絶えたおはるの亡骸を揺さぶっていた。

 桃太郎はすでに立ち去っており、鬼の黒血が屏風や寝具、玩具や着物など、あたり一面に無惨に飛び散っていた。


「……かか、まんま……」


 鬼女と子鬼の亡骸の中、孤独と空腹に耐える巌鬼は、おはるに食事を要求し続けた。

 巌鬼は父の特性を受け継ぎ、二つの命を持っていた。それが彼を死から救ったが、空腹が続けば残された命も失われる。


「……かか……まんま……」


 惨状は"奥の間"だけではない。鬼ノ城の城内はその至るところに桃太郎に"退治"された鬼女たちの亡骸が転がっていた。

 供養する者もなく、惨たらしく放置されている城内を、満面の笑みを浮かべた役小角が〈黄金の錫杖〉をチリンチリンと鳴らしながら歩いていた。


「……まんま……かか……あグあ」


 飢えに耐えきれなくなった巌鬼は、小さくも鋭い鬼の牙が生えた口を開き、おはるの柔らかそうな首筋にかぶりつこうとした。


「──待て」


 特徴的なしゃがれた声が"奥の間"に響くと、開かれた巌鬼の口内に〈黄金の錫杖〉の先端がグッと突っ込まれた。


「あが、あがが」


 巌鬼は黄色い目で役小角の顔を見上げた。


「母鬼の肉を喰らえば、餓鬼畜生に成り下がるぞ」


 役小角は〈黄金の錫杖〉を巌鬼の口から抜き取ると、白装束の裾を揺らしながら身をひるがえした。


「わしについてこい。広場に馳走を用意したでな」


 巌鬼は呆然とした表情で"奥の間"を出ていく役小角の背中を見つめた。


「はよせい。温羅坊」


 横顔を向けた役小角の急かす声を耳にした巌鬼は、無意識のうちに生まれて初めて二本足で立ち上がると、両手を前に出しながら、その背中を歩いて追いかけた。


「ほれ。好きだけ喰らうがよろしい」


 巌鬼を鬼ノ城の外まで連れ出した役小角は、広場の中央に横たわる一頭の黒毛牛を〈黄金の錫杖〉の頭で指し示した。


「法術で気絶させておるから、安心して喰らえ。かかか。鬼というは、生きた血肉が大好物だからのう」


 役小角の言葉はまだ理解できなかったが、とても魅力的なことを言っていると巌鬼はわかった。

 巌鬼は短い二本足で必死に歩き、目を閉じて静かに呼吸する黒毛牛の腹部に、大口を開けてかぶりついた。

 噛みつき、引きちぎり、咀嚼する──温かい血肉を飲み込んだ瞬間、幼い巌鬼の黄色い眼球が見開かれ、縦に走った赤い瞳孔が横に広がる。


「気に入ったようでなにより。大きく育てよ、温羅坊」


 役小角の言葉など聞こえぬまま、巌鬼は無我夢中で黒毛牛を喰らい続けた。

 そして空腹が満たされた巌鬼は、牛肉を咀嚼しながら役小角に振り返った。

 この老人は何者なのか。なぜ自分を助けたのか。幼い鬼の心に感謝と困惑の感情が入り混じった。


「わしはいったい誰なのかと? かかか。わしの名は、役小角。おぬしの友人じゃよ」


 これが巌鬼の記憶の中にある、役小角との最初の出会いだった。

 それから8年後、成長した巌鬼が鬼ノ城を歩いていると、不意に現れた役小角に声をかけられた。


「温羅坊。ちょいとこい。おぬしに紹介したい者がおるでな」

「…………」


 少年巌鬼が役小角の後について広場に出ると、紫色の着物をまとった育ちのよさそうな女がひとり立っていた。

 女の額には紅い鬼の角が生えており、人間の女ではないと巌鬼はすぐにわかった。


「初めまして、巌ちゃん。私の名は鬼蝶。行者様からお話はうかがっております。鬼ヶ島の新たな首領なのですってね、素敵だわ」


 妖艶な笑みを浮かべながら告げた鬼蝶は、右手を巌鬼に差し出した。


「これから、仲良くしてくださいね」


 巌鬼は差し出された鬼蝶の手を黙って見つめた。白く細い指先からは、黒い鬼の爪が伸びている。


「なーにをしておるか、温羅坊。はよう手を握り返してやらぬか」


 役小角は巌鬼に言うと、手を差し出し続ける鬼蝶を見た。


「すまんのう鬼蝶殿。こやつ美人を前にして、緊張しておるようでな」

「…………」


 巌鬼は鬼蝶の整った顔をちらりと見た。そして、その整った顔からすぐさま目を逸らすと、ぶっきらぼうに右手を突き出す。


「よろしくね」


 黄色い目を細めてほほ笑んだ鬼蝶は、巌鬼の手を取り、握手を交わした。


「鬼蝶殿には温羅坊の教育係をお願いしたい。鬼ヶ島を率いるからには、ある程度の知識と教養が必要だからのう」


 満面の笑みを浮かべた役小角が告げると、巌鬼は互いの手を重ねている鬼蝶の顔をちらりとうかがった。


「──う。ぐッ」


 眠っていた巌鬼が意識を戻しながら黄色い目を開くと、眼前に巌鬼の顔をじっと眺めている鬼蝶が立っていた。


「ッ、なんだ!?」


 鬼の心臓が驚きに跳ねた。鬼蝶は夢の中となんら変わらず、時が止まったような美しさを維持していた。


「おはよう、巌鬼。行者様が裏庭でなにやら面白そうなことやっていますよ」

「裏庭だと……」

「ふふふ。一緒に見に行きましょう?」


 鬼蝶は夢の中で見たものと同じほほ笑みを巌鬼に向けると、しなやかに振り返って玉座の間を去っていく。


「……なんだというのだ」


 巌鬼は寝ぼけた頭を鬼の手で押さえながら呟くと、燭台の灯りが照らす玉座から立ち上がって鬼蝶の後を追った。


「前鬼、後鬼。はよう客人衆に飯を降ろしてやらんか」

「ウグォアア」


 荒涼とした赤土が広がる鬼ノ城の裏庭にて、役小角が二体の大鬼に指示を出していた。

 裏庭の中央には大穴が掘られており、笹の葉に包まれた謎の物体を前鬼と後鬼が麻縄を使って降ろしていく。


「そうじゃ、ゆっくり降ろせよ。かかか」

「グオァアア」


 大穴の底では、30人の村人たちが悲壮感を漂わせた顔で座っており、降りてくる物体を見つめていた。


「待たせたのう、客人衆。飯の時間じゃ。みなで分け合って食うがよい」


 大穴の縁に立った役小角が底に向かって告げると、反響した声が村人たちの耳に響いた。

 村人のひとりが立ち上がって、笹の葉に歩み寄り、縛っている麻縄を解くと、山のように盛られた赤飯があらわになった。


「……赤飯だ」


 小豆とともに炊かれた赤く染まった米。湯気が舞って甘い香りが大穴の底に充満していくと、村人たちが役小角を見上げて叫んだ。


「食うわけねぇだろ! 鬼ヶ島の食いもんなんざ!」

「鬼ヶ島のもん食えば鬼になる! おらたちが知らねぇとでも思ったか!」

「んだ! 鬼の食いもん、人間様が食うと思うなよ!」


 役小角に向かって口々に怒号を発した村人たち。


「かかか。無理して食わぬでもよろしい。食わねば飢えて死ぬだけですわいの」


 役小角が愉快そうに告げると、鬼ノ城の裏扉が開かれ、鬼蝶と巌鬼が連れたって現れた。


「……なにをしているかと思えば」


 巌鬼が呆れたように呟くと、鬼蝶は役小角の背中に声をかけた。


「どうですか行者様。もう始まりました?」

「いや、これからじゃよ」


 鬼蝶は役小角の隣に並ぶと、大穴の底をのぞき込んだ。そこには飢えと戦いながら赤飯をじっと見つめる村人たちの姿があった。


「耐えているようですね……前回の村人たちはすぐに食べていましたが」

「なぁに、見ておれ。すぐに心折れますわいの」


 鬼蝶と役小角は、まるで蟻の巣でも観察するような会話をしながら大穴の底をのぞき込むのであった。

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