22.雉猿狗
桃姫は夢を見ていた。それは、この世の闇を何一つとして知らなかった幼い日の夢──。
「ねぇ桃姫……悪いことをするとね"地獄"に落っこちちゃうんだよ?」
小夜の言葉に、台所で皿洗いを手伝っていた幼い桃姫がピタリと手を止めた。
「……"じごく"って、なあに?」
桃姫が小夜に尋ねると、小夜はまじまじと桃姫の顔を見つめて告げた。
「地獄はね、鬼がいる世界のこと──血と肉の焼ける嫌な臭いがして、大切な人が死んじゃってて、悲しみが止まらない世界のこと」
「あ、ああ……やだあ! "じごく"に落ちたくないよお!」
地獄の解説を聞いて顔色が悪くなった桃姫は、体をすくめながら悲鳴のような声を発した。
「なら今まで通り、良い子に暮らしてれば大丈夫……母上と父上に嘘をつかずに、言われたことはちゃんとやって、服も脱ぎっぱなしにしない──わかった?」
「わかった! だからお願い、桃姫を"じごく"に落とさないで?」
桃姫は小さな両手を合わせて、懇願するような上目遣いで小夜に頼んだ。
「ちょっと、桃姫……母上は地獄に落とす人じゃないよ?」
「……そうなの?」
本気で怯えだした桃姫の顔を見て心苦しくなった小夜は、地獄の解説に希望を付け加えることにした。
「……そうだ。ここで一つ、桃姫によいお知らせがあります」
「……へ?」
小夜が人差し指を立てて言うと、地獄の様相を想像して怯えていた桃姫が小夜の顔に注目した。
「鬼はぜーんぶ桃太郎さんが退治してくれました! だから、大丈夫! もう地獄はありません!」
小夜はそう言うと、濡れた手を前掛けで拭ってから桃姫の髪を撫でてほほ笑んだ。
その笑顔を見た桃姫の表情も花が咲いたように明るくなると、桃太郎が風呂場の戸を開いて土間へと出てきた。
「……ん? ふたりして、いったい何の話で盛り上がってるんだ?」
手ぬぐいを首にかけ、体から湯気を発した桃太郎が尋ねると、桃姫が絶叫しながら駆け寄った。
「きゃあああ! 父上が鬼をぜーんぶやっつけたんだ! だから地獄はもうないんだ!」
「うお! おい、桃姫! 小夜、なんとかしてくれ!」
突撃してきた桃姫の勢いに気圧された桃太郎は困惑しながら助けを求めた。小夜は笑顔でその様子を眺めた。
「そうよ、桃姫。だから桃姫は絶対に地獄には──落ち──な──地獄──に──落──」
崩れていく小夜の声──桃姫が目を開くと、冷たく硬い地面に倒れ伏した体に鈍い痛みが走った。
視界の上半分は眩い光に覆われ、下半分は赤くぼやけて、ここがどこなのかまったく判断がつかない。
桃姫は両手を地面につき、なんとか上半身を起こすと、身を焦がすような熱風が頬を撫でた。
焦点が合うにつれ、光の正体が燃え盛るやぐらだとわかった。そしてその下に広がっていたのは──桃太郎の亡骸と血溜まりであった。
「…………」
その瞬間、気絶するまでの記憶が一気に桃姫の脳裏に流れ込んできた。
──地獄はね、鬼がいる世界のこと。
鬼蝶の黒爪に絡んだ小夜の黒髪。
──血と肉の焼ける嫌な臭いがして。
桃姫は堪らず嘔吐した。それでも顔を上げ、這いずるように桃太郎のもとへと向かう。
──大切な人が死んじゃってて。
最愛の娘が近づいても、心臓を失った桃太郎は目を見開いたまま沈黙していた。
──悲しみが止まらない世界のこと。
巌鬼の〈黑鵬〉によって寸断された右肩。その傍らに転がる〈桃月〉の柄を掴んだ桃姫。
「父上……母上」
力ない声で呟きながらその場で正座すると、濃桃色の瞳を閉じ、一筋の涙を流した。
「桃姫は……地獄では、生きていけない」
銀桃色の刃を持つ〈桃月〉の切っ先を、自身の喉元に向ける。
「弱い子で……ごめんなさい」
桃太郎の亡骸を前に謝罪すると、桃姫は両手で握りしめた〈桃月〉の刃を一息に喉元へと突き出した──。
「──なりません」
鈴の音のような凛とした声が響く。切っ先が喉を突く寸前で〈桃月〉の刃が止まっていた。
目を閉じている桃姫は自身の両手が、温かな手に包み込まれていることに気づく。
「──決して、死んではなりません。桃姫様」
桃姫は恐る恐る目を開いた。白い数珠を巻いた左手と赤い手甲を着けた右手が、自分の手をやさしく包んでいる。
青い着物の袖から伸びる白い腕を辿り、桃姫はゆっくりと視線を上げた。
「私の名は、雉猿狗──御館様の祈りを受け、ただいま天界より降臨いたしました」
翡翠色の瞳をした銀髪の美しい女性が、桃姫を慈悲深く見つめ、自らを雉猿狗と名乗った。
「私は……生きていても、いいの……?」
「どうか、生きてくださいませ」
生を肯定するその言葉を聞いた桃姫の目から涙があふれ、〈桃月〉を握る手の力が緩んで地面に落ちる。
「ありがとう──雉猿狗」
桃姫は呟くと、張り詰めていた糸が切れたように前方に倒れ込んだ。雉猿狗は素早く両ひざを地面につき、桃姫の体を受け止める。
意識を失った桃姫を抱きしめた雉猿狗は、桃太郎の亡骸を見やって告げた。
「……御館様の祈り、確かに天界まで届きました」
桃太郎は無言のまま、雉猿狗と桃姫を見つめていた。
「桃姫様。あなた様が強い女性に育つその日まで──私があなた様を、必ずや護り抜きます」
桃姫の頭を胸元に抱き入れた雉猿狗が力強く宣言すると、東の地平線からゆっくりと太陽が姿を現し、桃色と黄金が融け合った美しい曙光で、世界を明るく照らし始めるのであった。