19.小夜
三獣の祠の前までたどり着いた三人。星空に照られた山道に座り込んだ桃姫は、荒い呼吸を繰り返した。
「はぁ……はぁ……はぁ」
「ここまでくれば……もう大丈夫だから、ね」
小夜が額から流れ落ちる汗を着物の袖で拭いながら言うと、おつるは地面に伏せるように倒れ込んだ。
「おつるちゃん……!」
桃姫が心配そうに声をかけると、おつるは焦点の合わない瞳を開きながら何かを呟いていた。
桃姫はその口の動きを見て、「お母さん」と言っているのだと気づくと、何も言えなくなり、小夜の方を向いた。
「母上……鬼は、父上が退治してくれる……よね?」
桃姫が恐る恐る尋ねると小夜は静かに頷いた。
「ええ、大丈夫……絶対に大丈夫だから……」
小夜は顔を上げると、花咲山の満点の星空を見つめ、自分の心に言い聞かせるようにそう言った。
「──いったい全体、何が大丈夫なわけェ?」
突如として響き渡る冷たい女の声。その声を耳にした三人の背筋が凍り、昆虫標本のごとく動けなくなった。
「あなたたちの愛する桃太郎様なら──今、やぐらの前でブザマに死にかけてるわよ」
「……ッ」
嘲笑まじりのその言葉を耳にした小夜は目を見開くと、勇気を振り絞って声の発せられる方を見やった。
木々が織りなす山道の影の中、黄色い眼球を爛々と光らせながら歩いてくるひとりの女。
「申し訳ないんだけど、誰ひとりとして逃さないように言われてるのよ」
紫の着物をまとい、妖艶な雰囲気を漂わせた女が月明かりの下に姿を現した。小夜は額から伸びる紅い鬼の角を目にして息を呑んだ。
「……あなたも、鬼」
恐怖に気圧されながらも何とかして小夜が声に出すと、女は陰惨な笑みを浮かべた。
「ええ。"鬼の蝶"……鬼蝶よ」
黄色い瞳の中央に赤い"鬼"の文字を宿した鬼蝶が告げると、着物の袖から金色の篠笛をすっと取り出した。
「これはね、鬼人を操る笛……この笛の音を聞かせれば、どこに行けとか、何をやれとか……あるいは燃やせとか──命令し放題なの」
鬼蝶はうっとりとした顔つきで言うと、篠笛の歌口に真っ赤な唇の先端を重ねた。
そして、白く長い指を動かして指孔を塞ぎ、美しくも物悲しい笛の音色を花咲山に響き渡らせた。
「さぁ、鬼人がやってくるわよ──命が惜しいなら、早く逃げたほうがいいんじゃないかしら?」
「……っ」
鬼蝶はいたずらっぽい笑みを浮かべると、小夜はふらふらと立ち上がって桃姫とおつるを見た。
小夜と視線を合わせた桃姫は、ふるえる足で立ち上がって逃げる意思を見せたが、おつるは地面に倒れ伏したままであった。
「あら、その娘はもう逃げる気がないみたい……でも、それも人生の選択の一つ……彼女の意思を尊重してあげたほうがいいわよ」
鬼蝶は他人事のように言ってのけると、桃姫はおつるのそばにしゃがみ込んでその腕を掴んだ。
「おつるちゃん、逃げよう……! 鬼がくるから、逃げないといけない……!」
桃姫はおつるの腕を引っ張るが、まるで死体を扱っているかのように、おつるの体には生気がこもっていなかった。
「はーい、30秒が経ちました……さぁ、さぁ。早く逃げないと、こわーい鬼に襲われちゃいますよォ」
鬼蝶のふざけた口調に歯噛みした小夜は、桃姫の隣まで歩くとその腕を掴んだ。
「桃姫、行きましょう」
「え……!? 待って母上、おつるちゃんが!」
「──いいから! 逃げるのッ!」
小夜は力づくで桃姫を立ち上がらせると、その手を握りしめて有無を言わさず歩き出した。
「母上、待って! おつるちゃんッ!」
困惑する桃姫に小夜は沈黙を貫き、歩きから小走りになった。桃姫もそれにつられて走り出すと、おつるとの距離がどんどん離れていった。
「ふふふっ、いいわねェ……! 我が子は特別──んー、それこそが母性ってやつよねェ」
鬼蝶は意地悪い笑みを浮かべながら、三獣の祠の前から走り去っていく小夜と桃姫の背中を見やった。
それから遅れて、赤い鳥居の方角から四人の鬼人兵が小走りでやってくる。
「……あなたたち、本気で走ってますか、それ」
鬼蝶が睨みながら不満げに言うと、鬼人たちは互いに顔を見合わせた。
「そこに転がってる娘……おつるちゃん。鬼ヶ島に連れて帰りますから。丁重に扱いなさい」
力なく倒れ伏しているおつるを鬼蝶が金色の篠笛で指し示すと、鬼人兵のひとりが近づいていき、おつるの体を肩に担いだ。
「……ッ!? おつるちゃんッ!」
小夜に手を引かれて走りながら後ろを振り返った桃姫は、その光景を遠くに見て叫んだ。
「…………」
おつるは鬼人兵に担がれた状態で視線を上げると、桃姫の濃桃色の瞳と自身の虚ろな黒い瞳とを無言で交差させた。
「おつるちゃんッ……!」
桃姫は叫びながら、それでもおつるから遠ざかるように走っていく。小夜はただ前だけを見て、愛娘の手を握りしめ、引っ張って走り続けた。
「さて……そろそろ茶番も終わりにしましょうか」
鬼蝶は冷めた口調で呟くと、再び篠笛を口元にはこび、先程とは異なる激しい音色を奏で始めた。
おつるを担いでいない鬼人兵たちがその旋律を耳にした途端、体をガクガクとふるわせ始め、両手を地面について四つん這いになる。
「──ほら、行け」
冷たく言い放った鬼蝶は、甲高い笛の音を吹いた。その瞬間、四ツ足の獣と化したの三人の鬼人兵は、口から熱い息を吐き出して吼えた。
「シィイイッ!」
手足を使って地面を蹴り上げ、一斉に駆け出した鬼人兵。桃姫の手を引きながら走り続けた小夜が後ろを振り返り、誰も追ってきていないことを確認して足を止める。
「母上っ、ひどいよ! おつるちゃんが!」
涙を浮かべた桃姫が小夜に声を荒げた。小夜は呼吸を整えると、泣き顔の桃姫を見ながら告げた。
「桃姫、私たちはこのまま花咲を離れましょう。じゃないと鬼が──」
「──なに、あれ」
小夜の言葉をさえぎった桃姫は、赤い眼光を遠い暗闇の中に目撃して呟いた。
「……ッ!」
振り向いた小夜も、急速に近づいてくる赤い眼光の群れを目にして慄いた。
「──桃姫ッ!」
呆然とした桃姫に呼びかけた小夜は、その手を引っ張って自身の胸に抱き入れた。
「っ……母上!?」
満点の星空の下、山道で抱き合う母と娘──桃姫は汗をかいた小夜の濃い匂いを嗅いだ。
それは小夜も同じで、桃姫の柔らかく甘い髪の匂いを鼻をこすりつけ、自身の肺の中に入れた。
そして小夜は、桃姫の額に自身の額をくっつけると、ささやいた。
「──桃姫のこと、ずっと見護ってるからね」
「えっ?」
桃姫が声を漏らすと、小夜は桃姫の体をトンッと両手で突き飛ばした。
ゆるく傾斜した山の斜面に向かって飛び出した桃姫の体。桃姫の視線と小夜の視線が一瞬だけ交差し、小夜はすぐさま山道を走り出した。
そして次の瞬間、桃姫の視界がひっくり返って山の斜面を真っ逆さまに転げ落ちていく。
枯れ草を押し潰し、枯れ枝をへし折り、全身を回転させて斜面を落ちていった桃姫は、大樹の幹に背中からぶつかってようやく停止した。
「くっ、うッ……うう」
桃姫は口に入った枯れ葉を吐き出すと、うめきながらよろよろと立ち上がった。
お気に入りの萌黄色の着物はみすぼらしいほどに汚れ、桃色の髪の毛も乱れていた。
「……母上」
山の斜面のはるか上を見ながら弱々しく声を漏らした桃姫。
小夜が山道を走り出した瞬間、桃姫にはわかった。迫りくる鬼人兵の群れから身を挺して、自分を逃がしてくれたのだと。
「……母上ぇぇ」
顔を歪めた桃姫は大粒の涙をこぼし始めた。頬を伝ってぼたぼたと落ちた涙が、大樹の根本に生えたキノコに降りかかる。
「おつるちゃん、母上……なんでぇ……なにが起きてるの、父上ぇ」
桃姫は泣きながら歩き出した。薄暗い森の中を悲嘆と混乱が入り混じった頭でさまようと、暗かった森の木々が開けて急に視界が明るくなった。
それは花咲山の中腹にある開けた空間であり、ここからは花咲村の全容を見渡すことができた。
「……あ、ああ……」
柵で囲まれた村は、その全体が轟々と燃え上がっており、秋風に乗って、悲鳴、怒号、絶叫がかすかに桃姫の耳まで届いた。
破壊されていく故郷の地獄を目の当たりにした桃姫は、自分の心が村とともに破壊されていく強烈な感覚を覚えた。
「うっ、うああ──!」
どこがどういう場所か、どこに誰が住んでいるか、どこの食べ物屋で両親と笑いながら食事をしたか。
炎に飲み込まれていく花咲村の遠景を見ながら、桃姫は平穏な日々の何気ない出来事を思い出して、声にならない嗚咽とともにさらに涙をこぼした。
「──悲しいわよねェ……生きるって」
桃姫の背後から投げかけられる冷たい声。ふるえる桃姫の肩に、しなやかな左手が静かに置かれた。
「信長様がこの光景をご覧になられたら、何とおっしゃられたのかしら」
桃姫の肩に置かれた手は、白い指にも関わらず不気味なほど黒い爪をしていた。
「哀れ? それとも、天晴れ? ねェ、どちらだと思う──桃姫ちゃん」
桃姫の背後に立った鬼蝶は、色白の肌を橙色に照らし出すと、赤い"鬼"の文字が宿る黄色い瞳を見開きながら、陰惨なほほ笑みで尋ねるのであった。