18.暗転
その30分前──小夜に連れられた桃姫は、村役場の隣に設けられた煙突が伸びる炊事小屋へと料理の手伝いにやってきていた。
「母上、早くしないとお祭り始まっちゃう! 父上がやぐらに出てきちゃうよ!」
まな板に置いた椎茸を包丁で切り終えた桃姫が言うと、小夜は土鍋で煮ている里芋の味つけを確認しながら口を開いた。
「その前に終わらせるために桃姫を連れてきたんでしょ。切った椎茸は、お味噌汁のお鍋の中に入れてちょうだい」
「もう!」
小夜の指示を受けた桃姫は、眉を寄せながら椎茸の山を両手で掴むと、味噌汁の大鍋の中にドサッと投入した。
横目でそれを見た小夜は、隣にやってきた女性に焼き魚が並んだ大皿を差し出した。
「おかめちゃん。これはすだちを軽く絞るだけでいいから、食堂まで運んでください」
「はい。手際のいいお小夜さんが居てくれて、ほんま助かります」
短く太い眉毛をしたおかめは、ほほ笑みながらそう答えると、焼き魚の並んだ大皿を持って炊事小屋を後にし、村役場内の食堂へと運んでいった。
「おつるちゃんの母上ってさ、おつるちゃんにそっくりだよね」
「えへへ。そお~?」
おかめの背中を見送った桃姫が口にすると、味噌汁の入った大鍋をおたまで掻き混ぜていたおつるが嬉しそうに笑った。
「はい。それじゃあ、ふたりに次のお仕事があります」
小夜が濡れた手を前掛けで拭いながら桃姫とおつるに声をかけた。小夜の前までふたりがやってくると、小鉢が敷き詰められた二枚の大きなおぼんを視線で示した。
「このおぼんを食堂まで運んでください。た、だ、し……絶対に落とさないように」
小夜が人差し指を口の前に立てながら厳重に言うと、桃姫とおつるは互いの顔を見て、頷き合ってから小夜の顔を見た。
「はい!」
「はい!」
ふたりは元気よく声を上げて答えると、漬物や煮物が所狭しと並ぶおぼんに両手を伸ばして慎重に抱え持った。
調理台から持ち上げてみれば、大きさだけでなく重量もかなりあることがわかり、桃姫とおつるの顔に緊張が走った。
「行こう。おつるちゃん」
「うん、桃姫ちゃん」
両腕を広げてようやく抱えられる大きさのおぼんを携えたふたりは、声をかけ合いながらゆっくりと歩き出した。
歩くたびに小鉢同士がぶつかり合い、カタカタと小さな音を立て、桃姫とおつるの集中力を試した。
小夜は、桃姫を先頭にして炊事小屋を出ていくふたりの背中をほほ笑みながら見送った。
「…………」
炊事小屋から村役場へと通じている道をおぼんを抱えたふたりが無言で歩く。
短い眉毛を寄せたおつるが、桃姫の背中を見つめながら慎重に歩いていると、道の真ん中で突然、桃姫の背中がピタリと止まった。
「っ! 桃姫ちゃん! 急に止まらないで!」
何とか小鉢を落とさずに足を止めたおつるが抗議の声を上げると、立ち止まって首を横に向けた桃姫は、道の真ん中からちょうど見える中央広場のやぐらを見ながら口を開いた。
「父上だ」
松明の火で明るく照らし出されたやぐらの舞台に桃太郎が現れると、村人たちの歓声の中で桃太郎は気恥ずかしそうに手を振った。そして──。
「──桃姫、桃姫ッ!」
桃姫の肩をゆさぶりながら小夜が叫ぶ。桃姫は正気を取り戻すと、いつの間にか手から落としていたおぼんを見下ろした。
おぼんはひっくり返り、乗せていた小鉢のすべてが割れて、丹精込めて作られた料理の数々が地面に散乱していた。
「あ、母上……ごめんなさい」
桃姫が静かに呟くと、小夜は桃姫の手を強く掴んだ。
「おつるちゃん! おつるちゃんも来なさい!」
やぐらを見ながら同じくおぼんを落とし、放心状態のおつるに呼びかけた小夜は、その手を取って握りしめた。
「……お小夜さん……私の、お母さんが」
呟いたおつるが、村役場の方にふらふらと歩き出そうとしたのを小夜が手を引っ張って止めた。
「行ってはだめ! 今はどこかに逃げるのよ!」
叫んだ小夜が逃げられる場所はどこかないかとあたりを見回していると、村役場の木戸がバンッと勢いよく開かれて、中からおかめが這い出てきた。
「お母さん!」
その姿を目にしたおつるは安堵の表情を浮かべて声を上げたが、おかめはどうも様子がおかしかった。
「おつる……逃げ、なさいっ……逃げ──」
苦しげに告げながら倒れ込んだおかめ。橙色の着物を着たその背中は真っ赤に染まっており、またたく間に地面に血溜まりを作り始めた。
「おかあ、さん……?」
何が起きたのか思考が追いつかないおつるが呆然と呟くと、開かれた村役場の扉の奥から青黒い肌をした赤眼の鬼人兵が姿を現した。
額から歪んだ一本角を生やした鬼人兵は「シューシュー」と異様な呼吸音を発しながら、手にした槍の先端に付着している鮮血を振り払って小夜たちを見た。
「お……鬼」
ふるえる声で声に漏らした小夜は、桃姫とおつるの手を握る両手に力を込めた。
「走るわよ、ふたりとも! ここから逃げるの!」
小夜は眼の前の出来事に戦慄している桃姫とおつるに声をかけると、、松明が引火して燃えているやぐらの残骸とは異なる方角に向けてふたりの手を引っ張りながら走り出した。
「ああ! 誰か! 誰か、ああッ!」
「母上……あの人!」
刀を持った鬼人兵に襲われている村人を目にした桃姫が小夜の背中に呼びかけるも、小夜はちらりと横目で見ただけで構わず走り続けた。
小夜は無意識のうちに自宅の方角に向けて走っていたらしく、家の前で右往左往しているおとよの前まできて足を止めた。
「おとよさん! 鬼が出た! 一緒に逃げよう!」
桃姫は心配そうに声をかけると、おとよは額に汗をかきながら場違いなほほ笑みを見せた。
「ええ! でも、桃太郎様! 私たちには桃太郎様がいるじゃないの! 鬼なんて、あっという間に退治してくださるわよ!」
口元をふるわせたおとよは、両手を叩き合わせながらそう言った。
「だとしても、どこかに避難したほうがいいです! 私たちと村の外に向かいましょう!」
小夜が真摯な眼差しで告げると、おとよは大笑いしながら声を上げた。
「あっははは! なにを言ってるのよ、お小夜様! あなた、奥方なのに桃太郎様を信用してないの? 花咲には桃太郎様がいる! だから大丈夫なのよ! あっははは!」
おとよは笑いながら、自宅の玄関を開けて、中に入っていこうとする。
「だめです! 逃げないと!」
小夜は懸命に言うが、おとよは振り返ると虚ろな瞳で答えた。
「私は桃太郎様を信じるわよ」
そう言って木戸をピシャリと閉じる。目を伏せた小夜は、静かに首を横に振った。そして再び、桃姫とおつるの手を力強く握りしめる。
「……村を出なきゃだめ。桃太郎さんが鬼を退治してくれるまで……村の外に避難しないといけない」
小夜は決心すると、ふたりの手を引いて村の南にある表門を目指して走り出した──しかし、すぐにそれは間違いだとわかった。
大きな表門は今いる通りからでも確認することができたが、村の外に逃げようと集まった村人たちを待ち構えていた鬼人兵が襲っていたのだ。
「表門はだめ……なら裏門。そうだ、花咲山に避難しましょう」
小夜が振り返りながら言うと、桃姫は慌てて小夜の手を引っ張った。
「だめ! 山はだめ!」
桃姫は、花咲山で遭遇した謎の老人と灰色肌の大男の姿を思い返しながら叫んだ。
「どうして? キャアッ!」
小夜が桃姫に問いかけると、突然横合いから吹きつけた熱風に悲鳴を上げた。
「……おうちが、燃えてる」
「ああ! おとよさんの家が!」
おつるが声に漏らすと、桃姫が叫んだ。松明を掲げた鬼人兵が、おとよの家に火をつけている光景を目撃したのだ。
おとよの家以外にも鬼人たちは次々と家屋に火を放ち、燃え出した木造家屋は乾いた秋風に煽られて火勢を増し、隣近所に引火して火柱を天高く巻き上げた。
「……燃えてる……花咲村が、燃えてる……」
おつるが黒い瞳に赤々とした炎を反射しながら呟いた。燃える花咲村を見た小夜は、やはり山に逃げるしかないと結論を出した。
「花咲山に行くわよ……! ここにいたら、私たちも燃え尽きてしまう!」
桃姫は山は嫌だと思いながらも、とは言え他に避難できるような場所を思いつかずに小さく頷いた。
三人は炎に追い立てられるように北の裏門まで走った。そして、門の前にいた四体の鬼人兵が裏門に近づいた村人を発見して追いかけているところに出くわした。
「今のうちよ!」
小夜は他に鬼人兵の姿が見えないことを確認すると、桃姫とおつるの手を引いて裏門をくぐり抜けた。そのまま走り続け、花咲山のふもとに立つ赤い鳥居の前までやってくる。
「……っ」
小夜と手をつなぎながら鳥居の下を走り抜けた桃姫は、昼間に桃太郎と並んで鳥居を通ったことをふと思い出し、それがもうはるか昔のことのように思えた。
「──あらあら。宴の最中に逃げ出すなんて、礼儀がなってないわねェ」
花咲山に入っていく三人の背中を見つめたしなやかな影が、黄色い鬼の目を光らせながら、妖艶な声で呟くのであった。