17.温羅巌鬼
「──ただいまより、鬼退治18周年記念祭を開催いたします!」
やぐらの舞台に立った村長の男が高らかに宣言すると、中央広場に集まった村人たちが歓声を上げた。
「ご存知の通り! 我らが桃太郎様は、お供の三獣とともに鬼ヶ島に勇猛果敢に攻め入り! 見事に鬼退治を果たしました!」
熱演する村長の姿を見上げた村人たちが雄叫びを上げる。
「花咲村が他の村より豊かになったのは、桃太郎様が財宝を持ち帰ってきてくれたからに他なりません! このことを、我々は決して忘れてはならないのです!」
村長の呼びかけに拳を突き上げながら呼応した村人たち。祭りの熱気は最高潮に達していた。
「それではみな様、どうぞ拍手喝采でお迎えください! 日ノ本一の大英雄! 桃太郎様の登場です!」
法被を着た打ち手の男によって和太鼓が叩き鳴らされると、やぐらの内部に組まれた梯子を登って桃太郎が舞台に姿を現した。
鬼退治に用いた物と同じ白の軽鎧に二振りの仏刀、金の額当てを頭に巻いた桃太郎は、照れ笑いを浮かべながら村人たちに手を振る。
その直後、地獄の底から轟いた地鳴りのような恐ろしい咆哮が花咲村に響き渡った。
「──グラァアアッ!」
「っ!?」
桃太郎はその咆哮に聞き覚えがあった。反射的に振り返り、咆哮の発せられた方角、村の北側を見やる。
「鬼……」
桃太郎は呆然と声に漏らした。紫肌の大鬼が猛獣のように両手両足を使って、提灯飾りが並んだ明るい大通りをやぐらめがけて疾駆してくる。
憤怒の形相を浮かべた巌鬼は、額から伸びる鬼の角を見せつけるようにグッと体勢を低くしてから、力強く地面を蹴り上げ、その巨体を夜空に飛翔させた。
「──死ネェエエイッ!!」
鬼の爪が生えた分厚い両手を広げながら、やぐらに向かって飛びかかってくる巌鬼。黄色い鬼の目を光らせ、牙を剥いた大鬼の狙いは明らかに桃太郎であった。
「くッ!」
桃太郎は咄嗟に村長と打ち手を両手に掴むと、やぐらの舞台上から飛び出した。
次の瞬間──凄まじい衝撃音を発しながらやぐらが粉砕された。飛び散った瓦礫が周囲の村人に容赦なく降り注ぎ、殺傷していく。
「ぐう!」
地面に倒れ込んだ桃太郎がうめく。その背中に崩壊したやぐらの柱が倒れ込んでくると、桃太郎は押し潰された。
「ぐ、ぉおお……!」
桃太郎は、伸しかかる柱を膂力を使って持ち上げながら起き上がると、左右で気を失っている村長と打ち手を確認した
「起きろッ! 早くッ、出てくれ!」
桃太郎が声をかけるがふたりは目覚めなかった。再び鬼の咆哮が聞こえ、桃太郎は夜空を見上げた。
「──グルァアアッ!」
両手を広げ、桃太郎めがけて落下してくる巌鬼の姿。桃太郎は村長と打ち手を見やると苦渋の表情を浮かべた。
「すまない!」
自身の体だけを跳ね上げ、残骸から抜け出た桃太郎。巌鬼の落下地点から素早く距離を取ったそのとき、村長と打ち手が目を覚ますのが見えた。
「……っ」
桃太郎が思わず手を伸ばした瞬間、またしても轟音が鳴り響き、あたりに濃い砂煙が舞った。
「ああ!」
桃太郎が声を漏らすと、砂煙の中から黒い影が吼えながら迫ってきた。
「グオラァアアッ!」
「悪鬼ッ──!」
声を上げた桃太郎は、左腰の白鞘に右手を添えて〈桃源郷〉を抜刀しようとした──が、抜けなかった。
「……抜けな!?」
瞠目した桃太郎が愕然とした直後、その顔面めがけて分厚い鬼の手のひらがぶつけられた。
「ぐゥううッ!?」
「グッラァアアッ!」
桃太郎は顔面を鬼の手で鷲掴みにされたまま、全力疾走する巌鬼によって祭り会場を突っ切られ、木造家屋の外壁に背中から激しく叩きつけられた。
「ガはぁっ!」
あまりの衝撃に桃太郎は目をひん剥いて絶叫した。砕けた家屋の外壁、その内部に突入した巌鬼は、ちゃぶ台が置かれた狭い居間で壁に押しつけた桃太郎の耳元にささやいた。
「俺が誰だか、わかるか?」
「ガ……ガあ……!」
桃太郎は顔面を万力のような怪力で掴まれ続けたまま、両手ですがるように巌鬼の太い腕を掴み、うめき声を漏らした。
巌鬼は鬼の睨みを効かせながら、足元に転がる鉄の急須を分厚い鬼の足でペシャリと踏み潰した。
「俺が誰だかわかるかよ!? なァ桃太郎!?」
「う……ううッ!」
悲鳴のような声を上げた桃太郎の顔をさらに強く掴んだ巌鬼は、上半身を大きくひねった。
「グルオラァアアッ!」
野太い鬼の咆哮を張り上げながら、村の中央広場、やぐらの残骸に向かって桃太郎の体を全力で放り投げた巌鬼。
宙空を飛んだ桃太郎の体は、地面に激突すると、鞠のように幾度も跳ねながら、やぐらに向かって転がっていく。
崩壊したやぐらは、まわりに並べられていた松明が倒れた影響で引火し、夜風にあおられながらまたたく間に巨大な炎の塊と化していた。
「桃太郎……俺は貴様のことを、一日足りとて忘れたことはなかったぞ」
巌鬼は大穴が空いた家屋の壁を怪力で崩しながら這い出てくると、黒い爪が生えた鬼の足で地面を踏みしめながら、やぐらの前に倒れ伏す桃太郎に迫った。
桃太郎は起き上がろうとするが、全身に激痛が走ってまた崩れ落ちる。
「ぐ……ッ!」
桃太郎はなんとか後ずさりして、近づいてくる巌鬼から距離を取ろうとするが、背後で燃え盛るやぐらから発せられる熱風でこれより下がるのは不可能だった。
「こいつを見れば、俺が誰だか、思い出せるか?」
巌鬼は黒牛の毛皮で作られた羽織のえりに手を入れると、グッと自身の胸元を開いてみせた。
「ッ!?」
桃太郎は息を呑んだ。筋肉の張った紫肌をした厚い胸板、その左胸に刺し傷の跡があったのだ。
「──18年前に殺したよな、この俺を」
「……嘘だ」
復讐に燃える巌鬼の黄色い目。燃え盛るやぐらを背にした桃太郎は、戦慄しながら濃桃色の瞳を揺らした。
「温羅の息子・巌鬼を──貴様は一度殺したよなァ!?」
牙が伸びる口を大きく開き、恐ろしい鬼の形相で吼え放った巌鬼。
その瞬間、桃太郎の脳裏に「この子だけは殺さないで!」という鬼女になったおはるの悲痛な叫び声が響いた。
──おはる姉ちゃん。私はあの日、赦されないことをしたのか。
桃太郎は、おはるの息子・巌鬼の顔をふるえる瞳で見つめながら、罪悪感の渦に飲み込まれた。
それでも桃太郎は、右手を左腰の白鞘に這わせて、18年前に鬼退治をともにした仏刀──〈桃源郷〉の刃を抜こうとした。
「なぜ抜けない……なぜ」
しかし、まるで鞘と刃が一体化してしまったかのように固まっていて、抜刀できない。そんな桃太郎の姿を見下ろした巌鬼が吐き捨てるように告げる。
「その刀を最後に抜いたのはいつだ?」
巌鬼の言葉を聞いた桃太郎は、18年前の鬼退治以来、一度も白鞘から抜いた試しがないことを思い出した。
鬼退治のことを思い出したくないがばかりに、村人たちにせがまれても抜かないと決めていたのだった。
「刀は手入れをしなければ腐る。そんなことすら、忘れてしまったのか?」
巌鬼は呆れたように言いながら一歩、また一歩と桃太郎に近づいてきた。
「ずいぶんと、おめでたい暮らしをしていたようだな」
「ッ、く……!」
桃太郎は〈桃源郷〉の白鞘から右手を移し〈桃月〉の白鞘に触れた。柄を掴むと、"頼む"と心で祈りながら引き抜く。
「……ッ!」
「ふん、そっちは抜けたか」
桃太郎は抜刀した〈桃月〉を右手で固く握りしめると、銀桃色をした聖なる刃の切っ先を巌鬼に向けた。
「知っているぞ。そいつで俺の親父を殺したのだろう?」
「ふぅ! ふぅ!」
憎々しげに告げる巌鬼の顔を見上げた桃太郎。立ち上がろうとするが、体が恐怖に支配されて腰に力が入らない。
「どうやって俺の同胞を殺したのかも知っている」
巌鬼は刀傷のついた左胸を桃太郎の前に曝け出した。
「ほら、刺せよ。あと一突きすれば、俺は死ぬぞ? どうしたよ──大英雄」
巌鬼が低い声で告げると、桃太郎は静かに目を閉じて呟いた。
「おはる姉ちゃん……すまない」
「誰だ、そいつは」
知らない名前を耳にした巌鬼が鬼の目を細めた。桃太郎は〈桃月〉を握った右手をだらりと下げる。
「この期に及んで女の名前を口にするか……これほどの腑抜けになっていたとはな」
戦意喪失したように目を伏せた桃太郎の顔を巌鬼が見下ろしながら言うと、背負った大太刀〈黑鵬〉の柄に両手を伸ばした。
「……残念だ、桃太郎」
〈黑鵬〉──それは、かつて宝物庫にて見つけた桃太郎が持ち帰ろうとしたが、あまりの重さに置いていったという逸話を持つ、黒光りする大鬼専用の大太刀であった。
「いさぎよく、死ね」
両手で握りしめた〈黑鵬〉を巌鬼が背中から持ち上げた次の瞬間。
「──ヤェエエエッ!」
濃桃色の瞳を見開き、裂帛の声を張り上げた桃太郎。右手に握った〈桃月〉の切っ先を立ち上がった勢いそのまま、巌鬼の左胸めがけて突き伸ばした。
しかし、それと同時に巌鬼の目が赤く光り、ドンッという鈍い爆発音があたりに鳴り響く。
「18年間、俺は貴様を殺すことだけを、考えて生きてきた」
巌鬼の怪力によって振り下ろされた〈黑鵬〉は、桃太郎の右肩を根本から、〈桃月〉ごと吹き飛ばしていた。
「ぐぅいいッ……!」
唖然とした桃太郎に、遅れてやってきた右肩の激痛。目をひん剥き、歯が砕けんばかりに噛みしめ、鮮血を噴き出す右肩の切断面を左手で握るように抑えた。
「なぁ桃太郎──痛いか? 苦しいか? でもな、地獄の責め苦ってのは、そんな生易しいもんじゃないはずだ」
巌鬼は冷たい声で言いながら、桃太郎の赤血を浴びた〈黑鵬〉を持ち上げ、背中に戻した。
「本当の地獄ってのは──"自分以外"の苦しみを見ることにあるんだ。俺は18年前に、そのことを貴様から教わった」
「ぐぅ……ぐッ!」
巌鬼に対してひざまずいた桃太郎は、気を抜けば失神してしまいそうな激痛に耐えた。
「ところで桃太郎──この村で、貴様ひとりだけが鬼に襲われていると、そう勘違いしていないか?」
「……っ!?」
巌鬼だけに注力していた桃太郎は、その指摘を受けて絶句した。そして事ここに至って、桃太郎は"自分以外"の村人に対して、注意を向けることを始めた。
「きゃああ! 助けてっ! 桃太郎様、助けッ──ギヤッ!」
「桃太郎様、どちらにおられますか! 鬼が──アガッ!」
視界に広がっていたのは、花咲村の地獄絵図──刀と槍で武装した鬼人兵の群れが村人たちを容赦なく追いかけ回し、命乞いを聞き入れず、殺害していく。
「ようやく気づいたのか? 初めから、ずっとこうだったぞ?」
「……あ、ああッ」
村人たちの阿鼻叫喚を耳目にして、嗚咽を漏らした桃太郎。狼狽するその顔を見下ろした巌鬼は、桃色の髪に手を伸ばすと、グッと鷲掴みにして、強引に立たせた。
「なにが日ノ本一の大英雄だ──貴様の正体は、ただの腰抜け。村を護れず、家族も護れず、ただ俺に殺されるだけの、情けない男だッ!」
「っ……小夜……桃姫……ッ!」
激しく燃えるやぐらの熱気を背中に浴びた桃太郎は、紅に染まった花咲村の夜空に向けて、愛する妻と娘の名を血とともに叫ぶのであった。