11.走れ、夜狐禅!
受け取った〈黄金の錫杖〉は意外なほど軽かったが、一言主、役小角、安倍晴明と連なる確かな歴史の重みをアクロの両手に伝えた。
「確かに。これは本物の〈ゴールデン・スタッフ〉……役小角が千年の時をともにした一言主の神具に相違ありません」
「おぬし、よく知っとるのう」
ぬらりひょんが白濁した眼を細めて言うと、アクロは笑みを浮かべながら口を開いた。
「ぬらりひょん、あなたのこともよく存じ上げています。そして──〈エメラルド・オーパス〉を所有していることも」
アクロは言いながら、〈黄金の錫杖〉の三つの金輪が並んだ頭をぬらりひょんに向けた。
「桃姫の霊剣──〈雉猿狗承〉は、どこです?」
「ばかもん……おぬしのような異国人に〈黄金の錫杖〉でなにができる」
ぬらりひょんがあざ笑うと、アクロは〈黄金の錫杖〉で地面を突き、金輪をチリンと鳴らした。
「試してみましょう──オン・マカラカ!」
左手で片合掌したアクロがかけ声を発すると、〈黄金の錫杖〉を妖々魔に差し向けた。
紫光する稲妻が〈黄金の錫杖〉から迸り、不意をつかれた妖々魔に激突した。
「ガァッ!?」
驚愕の声を発した妖々魔。内部から紫光を放って爆発すると、ガラガラと音を立てながらその場に崩れ落ち、物言わぬ武者鎧と化した。
「っ……おぬし、いったいどこで呪術を覚えた」
「祖父の古文書にて、学びました」
戦慄したぬらりひょんにアクロは銀縁眼鏡を左手で直しながら答えると、〈黄金の錫杖〉をカパトトノマトに差し向けた。
「……本気でわらわと一戦交えるつもりか?」
「それも一興かと」
アクロとカパトトノマトが対峙するのを目にしたぬらりひょんは、歯噛みしてから両者の間に歩み出た。
「……わかった、渡そう」
ぬらりひょんは言うと、着物の懐から翡翠の欠片を取り出した。
「これが真実じゃ……古文書なんぞには、記されておらん」
アクロはぬらりひょんから翡翠の欠片を受け取ると、鑑定するようにじっくりと見回した。
「〈雉猿狗承〉は砕け散ったのじゃ。桃姫が満百歳で臨終したその瞬間にのう……桃姫を護るという、三獣の"お役目"を終えたのじゃろう」
「……なるほど。それについては、古文書に書き足す必要がありますね」
アクロは輝きを失って鈍く光る翡翠の欠片を見つめながら頷くと、軍服の胸ポケットに入れた。
「よくわかりました……あの忌々しい霊剣は、すでに存在しないということがね」
アクロは〈デス・バード〉を操縦するアガパンサスに見えるように右手を上げ、着陸させた。
そして、タラップから機内に乗り込み、コロポックルの拘束を解いた徒花部隊もその後に続いた。
「……あの異国人、いったいなにをしでかすつもりじゃ」
旋風を巻き起こしながら離陸を開始した〈デス・バード〉を見上げたぬらりひょんが呟いた。
〈デス・バード〉は排気ノズルを傾けると、マッハ2の速度で緑光する軌跡を夜空に描きながら消え去っていった。
「情けない話よ……今のわらわには、あの異国人どもと戦えるだけの力はない」
呟いたカパトトノマトが、妖々魔の残骸に歩み寄ってしゃがみ込むと、両手を武者鎧に当てた。
「せいぜい、己の少ない妖力を分け与えることくらいしかできぬ……あの異国人はそれを見破っていたのであろう」
淡い青光を放った両手で妖力を送り込むと、バラバラになっていた武者鎧が形を整えて再び宙空に浮上して青い眼を光らせた。
「くっ……かたじない……それがしは戦うためにここにいるというのに……!」
妖々魔が申し訳無さそうに告げると、ぬらりひょんは咳き込みながら首を横に振った。
「わしらみな、妖怪としての全盛期ははるか昔に過ぎ去ったのじゃ……あとは妖力を失い、静かに消え去るのみじゃよ」
ぬらりひょんが途方に暮れながら弱々しく咳き込むと、屋敷の中から黒い着物をまとったひとりの男が姿を現した。
右目に古傷を持つ長い黒髪の男は、傷一つない完璧な状態の〈雉猿狗承〉を携えていた。
「頭目様……〈雉猿狗承〉は、いかがなさいましょう」
男が告げるとぬらりひょんは白濁した両眼を閉じた。そして、深いため息を吐きながら開くと男の紫色の瞳を見ながら口を開いた。
「天照神宮に捧げるのじゃ……そして、アマテラス様のご意思に委ねよう……わしら消えゆく妖怪には、それより他に手立てはない」
「かしこまりました……必ずや、届けて参ります──夜狐変化」
男が覚悟を決めた声で言うと、右目の潰れた大きな夜狐に変化して〈雉猿狗承〉をその口に咥えた。
「浮き木綿のやつがおればよかったのじゃがな……あやつらは妖力が尽きて、ただの木綿布と化してしもうたでのう」
ぬらりひょんが言うと、妖々魔は青い眼を屋敷の脇に並ぶ墓標に向けた。
「大猫又の兄弟も100年前に逝ってしまわれたでござる……さみしいかぎり」
盛土に立てられた二つの墓標には"猫吉""猫丸"と書かれていた。
「しかたあるまい、すべては流れていく運命なのだから」
呟いたカパトトノマトが夜狐禅の体に指先で触れると、自身の体にまとわせていた羽衣のような白い雪雲を夜狐禅に移してまとわせた。
「わらわのこの雪雲があれば、少しは身軽に走れるじゃろうて……頼んだぞ、夜狐禅」
「ガウ」
カパトトノマトの言葉に〈雉猿狗承〉を咥えた夜狐禅が吼えて返すと、妖怪たちの最後の楽園"カムイ・ミンタラ"から駆け出した。
「……走れ、夜狐禅!」
その背中に向けてぬらりひょんが呼びかけると、コロポックルたちが短い手を振った。
夜狐禅は風に乗るように雪雲の羽衣を大気中に滑らせながら日ノ本を南へと駆け抜けていった。
「ハッ、ハッ、ハッ!」
〈雉猿狗承〉を咥えた口の隙間から荒い呼吸をし、日が沈む富士山を背にして夜狐禅は走った。
そして、ついに天照神宮までたどり着くと、天照山の斜面から伸びる森の木々に飲み込まれた千歩階段を見上げた。
拝殿までは人の手によって整備されているが、千歩階段から先、本殿までの道のりは完全に自然と一体化していた。
「グルル」
夜狐禅はうなり声を上げながら天まで続いているように見える千歩階段を睨みつけると、一息に駆け登り始めた。
ここまで一休みもせず、一心不乱に走り続けてきた夜狐禅は満身創痍である。
しかし、〈雉猿狗承〉を咥えた口に力を込め、無限のようにも感じる千歩階段を四肢を使って上がっていく。
「ガゥ、ガゥ!」
かつて、雉猿狗を背負った桃姫も満身創痍になりながら千歩階段を上がっていった。
500年前のあの時代は参拝客も多く、綺麗に整備されていた階段も今はひび割れてコケむし、左右から伸びる木々の枝が侵食していた。
夜狐禅は木の枝に何度も体を引っかかれ、コケむした石段に足を取られるも、それでもなお、はるか高みにある本殿を睨みつけて登っていった。
「がぁ……がぁ……がハァ!」
そして、夜狐禅は千歩階段を登りきった。朽ち果てた鳥居をくぐった夜狐禅は倒れ込むように石畳の上に体を横たえる。
その瞬間、身にまとっていたカパトトノマトの雪雲が役目を終えたように霧散して消えた。
「はぁ……はぁ……はぁ」
それと同時に夜狐禅の変化が解かれ、黒い着物をきた長い黒髪の隻眼の男の姿となった。
冷たい石畳に倒れながら荒い呼吸を繰り返した夜狐禅は、翡翠色を放つ〈雉猿狗承〉に手を伸ばすと、最後の力を振り絞って立ち上がった。
自然と一体化した朽ちた本殿に向かって参道を歩き、両膝をついて石畳の上にしゃがみ込むと、両手で〈雉猿狗承〉を高く掲げた。
「アマテラス様……この夜狐禅、日ノ本の妖怪を代表して、祈りを届けに参りました……どうかなにとぞ、かつて桃姫様が振るいしこの雉猿狗様の霊剣に、神力をお与えくださいませ……」
目を閉じた夜狐禅は声を発しながら強く祈りを捧げた。すると、その背中に向けて白い光が差し込んだ。
真夜中にもかかわらず夜闇が切り開かれ、光の柱が天照山の山頂に降り注ぐと、本殿の古びた木戸が静かに開かれた。
御神体の丸鏡に、疲れきった夜狐禅の顔と白光の輝きに照らされる〈雉猿狗承〉が映った。
「アマテラス様……」
白光の眩しさと得も言われぬ神々しさを背中に感じた夜狐禅が歓喜の声を漏らすと、特徴的なしゃがれ声があたりに響いた。
「──かかか!」
聞き覚えのあるその笑い声を耳にした夜狐禅が瞳を見開いて鏡面をのぞき込むんだ。
〈雉猿狗承〉を掲げた自身の頭上に白光の風がうねりながら満面の笑みを浮かべた老人の顔を形成していく。
「……役小角!?」
声に漏らした夜狐禅が眉をひそめた次の瞬間、背中に突風が吹きつけた。本殿の木戸がバァンと音を立てながら閉じられると、役小角の風が夜狐禅の体を〈雉猿狗承〉ごと天高く持ち上げた。
「御苦労、御苦労──かかかッ!」
満面の笑みとともに高笑いした役小角の風は、夜狐禅から〈雉猿狗承〉だけをするりと奪い取った。
「……待て、それは!」
「飛んでいけぇっ!」
声を上げた夜狐禅の体を役小角の風は西の方角に向かって、放り投げるように吹き飛ばした。
「くかかか──」
満足げに笑った役小角の風は〈雉猿狗承〉を包み込みながら天空に消えていき、極光の輝きを失った天照山には、再び夜の闇が戻った。
「……ぐう」
一方、役小角の風に吹き飛ばされた夜狐禅は、見知らぬ森の中に落下すると、石畳に倒れ伏したままうめき声を発した。
「──あれ、夜狐禅くん?」
「……っ!?」
低い声を耳に入れた夜狐禅が顔を上げると、前方の岩座の上に桃色肌をした巨大なイボガエルが鎮座して夜狐禅を見下ろしていた。
「──河童の領域でなにしてるけろだよ?」
二代目カシャンボとなったたまこが夜狐禅に尋ねるのであった。