36.鬼のみを削り取る
関ヶ原の戦場では、〈蜻蛉切〉を構えた小松姫が鬼人忠勝と対峙していた。
「……父上ッ!」
目に涙を浮かべながら槍の切っ先を父・忠勝に差し向けた。
「グァアアッ!!」
鬼人と化した忠勝が雄叫びを上げ、〈蜻蛉切〉を拳で弾き飛ばした。
「きゃああっ!」
小松姫は弾かれた勢いで地面に倒れ込んだ。
黒い武者鎧を着込んだ偉丈夫の忠勝は、武器を持たずとも、籠手をつけた拳そのものが凶器であった。
「やめてくだされ忠勝殿! 殿の最愛の姫君でありますぞ!」
地面に倒れ伏した小松姫を追い詰めようとする鬼人忠勝に対して、本多の家臣が懇願するようにすがりつく。
「ガァアアッ!!」
咆哮を発した鬼人忠勝の無慈悲な拳を腹部に受けた家臣は、吹き飛ばされて泥をはねながら地面を転がったあと白目を向いて気を失った。
「父上、どうか正気に戻ってくだされ」
雨に濡れながら怯えた表情で迫りくる鬼人忠勝に声をかける小松姫。なんとか〈蜻蛉切〉に手を伸ばして拾い上げると、鬼人忠勝が力ずくで奪い取った。
引っ張られるようにして再び泥の中に倒れ込んだ小松姫に向けて赤い槍の切っ先を向ける鬼人忠勝。小松姫は涙を流しながら鬼と化した忠勝の顔を見上げる。
「グゥウウッ!」
「……父上」
鬼人忠勝が赤い眼で睨んでうなり、小松姫が観念したように目を閉じた。そのとき──。
「──ヤエエエエエッ!!」
裂帛の声と凄まじい風切音。翡翠色に輝く清風が小松姫の眼前を駆け抜けたと思った瞬間、雨雲に包まれた空から一筋の光の柱が降り注いだ。
「がッ、がァ……がっ」
鬼人忠勝は断続的に声を発しながらふるえ出すと、両手に構えていた〈蜻蛉切〉を手放して、鬼の角が生えた自身の顔を両手で覆った。
「──がッ、あっ……アアアアッ!!」
鬼人忠勝が絶叫しながらその場にひざまづく。そこでようやく、小松姫は父の背後に立っている光り輝く女武者の存在に気づいた。
「……あなたは……?」
「──私は、桃姫──鬼退治の専門家です」
極光天衣を身にまとった桃姫は静かな声で告げると、翠緑色の刃を光り輝かせる〈雉猿狗承〉を胸元に掲げた。
「──この翡翠の霊剣は……その体から、"鬼のみを削り取る"──」
桃姫が言うと、忠勝の額から鬼の角がぽとりと地面に落ちた。
「──ああ、小松! 俺は何ということを! 俺は何ということをしたのだ!」
瞳の色も黒に戻った忠勝が、眼前で崩折れる小松姫にふるえる声を上げると、小松姫は涙を流しながら忠勝に抱きついた。
「──父上殿っ!」
「すまない! 本当にすまない!」
「よいのです! 鬼が取れたのならば! もうよいのですっ!」
桃姫は本多父娘の抱擁を見届けると、鬼人の群れと戦う五郎八姫、"大悪路鬼王"を足止めするぬらりひょんとカパトトノマトに目を向ける。
そのとき、五郎八姫一行が戦っている鬼人の声とは、明らかに異なる声が投げかけられた。
「──さっきから鬼人ぶっ殺してる仏刀持ちはてめぇか!? こらぁっ!!」
「……ッ!?」
いかつい怒号とともに鬼人兵の群れの中に着地したのは、断魔鬼であった。
"青い呪紋"を走らせた〈人砕〉を肩に担ぎながら、〈氷炎〉と〈燭台切〉を両手に構える五郎八姫を睨みつける。
「──これ以上、殺されたら困るのよ。もう、予備の"鬼薬"はないのだからね」
「む!?」
次いで投げかけられた冷たい声。妖々魔の前方の鬼人兵の群れの中に着地したのは胸元の〈呪毒眼〉を青光させた渦魔鬼であった。
数が多いだけの雑兵である鬼人兵とは異なり、そこはかとない強さを感じさせる妖鬼姉妹を前にして、たまこを乗せた夜狐禅と猫丸はじりじりと後ずさりし、五郎八姫と妖々魔もその背中を密着させた。
「へへ、びびってんのかぁ? おら、邪魔だよ! どけっ!」
「ッ、グガ」
断魔鬼はニヤリとした笑みを浮かべると、眼前に立っていた鬼人兵の背中を蹴飛ばした。
蹴られた鬼人兵が地面に倒れ込んで、断魔鬼を睨みつける。
「なぁにあたしにガンつけてんだこらぁッ!」
「グゲェ!」
断魔鬼が振り下ろした〈人砕〉によって一刀両断にされてしまう鬼人兵。
「断魔鬼! これ以上殺すなって言ったばっかりでしょ!」
「あっ、ご、ごめん姉やん……つい」
妖鬼姉妹の姿を見ながら、しかし、圧倒的な力量の差を前にして身を寄せ合った五郎八姫一行は身動きが取れなくなっていた。
周囲を鬼人の群れが幾重にも取り囲んでおり、逃げ道はない。鬼人の群れを分け入って、一歩一歩と着実に迫ってくる妖鬼姉妹。
「……くッ」
緊迫した面持ちで歯噛みした五郎八姫の額から汗が流れ落ちると、背中を合わせていた妖々魔が群青色の武者鎧から静かに声を響かせた。
「みなの者……これよりそれがし、大立ち回りをするでござる……その隙をついて関ヶ原よりお逃げくだされ」
妖々魔の言葉を聞いた五郎八姫たちが息を呑んだ。
「それがしは十分に生き申した。こうして五郎八姫殿と共闘することも叶った……もう何も思い残すことはござらぬ」
「……妖々魔殿」
声を発するたびに起こる武者鎧の振動を背中越しに感じた五郎八姫が声を漏らすと、妖々魔は青い眼を赤い眼に転じた。
両手に構える二振りの妖刀に念を込め鬼人兵の群れに駆け出そうとしたまさにその瞬間、上空の雨雲を引き裂いて黄金の光の柱が五郎八姫一行に降り注いだ。
「──その必要はありません……妖々魔師匠──」
響きわたる凛とした声。神々しく光り輝く黄金の光の粒子の中で、青空を見上げた五郎八姫がその名を告げた
「……もも」
「──いろはちゃん、みんな……お待たせ──」
八枚の光の羽衣を泳がせながら、極光天衣を身にまとった桃姫が穏やかな笑みを浮かべながら降臨すると、妖鬼姉妹が困惑と驚愕とが入り混じった表情を浮かべた。
「……だれだ!? 姉やん、こいつ、なに!?」
「知らないわよッ!」
渦魔鬼が苛立ちを込めながら答えると、断魔鬼は泣きそうな顔になりながら叫んだ。
「うそだ! 姉やんに知らないことなんてあるはずがない!」
「断魔鬼、このバカ!」
妖鬼姉妹は、混乱状態に陥りながら口論すると、桃姫がその様子を見下ろしながら告げた。
「──私の名は、桃姫……神仏融合体、鬼退治の専門家、そして桃太郎のむすめ──」
濃桃色の瞳から神仏の威光を放つ桃姫の言葉を聞いて、愕然とする妖鬼姉妹。
桃姫は〈雉猿狗承〉を両手で構え、胸元に掲げる。
「──これより、この〈雉猿狗承〉にて……その体から、"鬼のみ"を削り取ってさしあげます──」
妖鬼姉妹に宣言した桃姫は、八枚の光の羽衣の先端を胸の前に掲げた〈雉猿狗承〉の翡翠の刃につなぎ合わせた。
光の帯とつながった〈雉猿狗承〉は、持ち前の翠光に神力の黄金と仏力の白銀を融け合わせ、翠金銀の三色の光が渦を巻く神仏融合剣としての"本領"を発揮し始めた。
「──痛くないはずですから……じっとしていてくださいね──」
唖然とする妖鬼姉妹を諭すようにやさしく告げた桃姫は、威光を放つ両眼を閉じて"心の力"を呼び覚ますのであった。