35.天の浮き橋
薄暗い冥府魔道から一転、まばゆい白光に視界を覆われた桃姫が静かに口を開いた。
「役小角……なぜ、日ノ本を助けてくれるの?」
役小角の風によって体を浮上させながら桃姫は思っていた疑問を尋ねた。
「だって、自由な風になったのなら好きなところに飛んでいけばいい……それなのにあなたは、日ノ本を救おうとしている……なぜ?」
「うむ……わしの悪行に対する、償い……無論それもあるが……だが、それ以上に大きいのはだのう」
役小角の顔が桃姫の眼前に形成されると、白光する大口を開いた。
「──"大悪路王"は、わしだけのモノだからじゃッ!!」
「……ッ!?」
役小角の心からの雄叫びを受けて、桃姫は面食らう。
「わしが千年かけて咲かせた"大悪路王"。それを他の者が乗り回すなんぞ言語道断──あまつさえ鬼が乗るなどまったく許容できぬわいの」
「……そんな理由で」
「かかか。大事な理由じゃ。いずれにせよ、日ノ本は救わねばならんのじゃて」
役小角は顔の形成を解くと、桃姫の背中の大翼に向けて体当りするように突風を噴き上げた。
「──桃のむすめよ──至高の"ふぃなぁれ"──赤鬼に見せつけてくれようぞッ!!」
役小角の風は異国の書物で覚えたお気に入りの言葉を使うと、光り輝く風で桃姫の体をさらに強く押し上げた。
「よし、地上まで上がったぞ! 風を止める! おぬしも止まるのじゃ!」
桃姫の大翼を押し上げていた風を霧散させると、役小角の風は桃姫から離れて告げた。
「止まるって、どうやって!? どうすれば止まるの!?」
「翼の使い方なんぞ、わしゃ知らんわ! おい、どこまで飛びよるつもりじゃ!」
「わかりません! 止まらなっ──うわあああっ!!」
風を失っても上昇し続ける体に桃姫が困惑したそのとき、天から黄金の光の柱が降り注いだ。
役小角の風と入れ代わるように、黄金の粒子が桃姫の体を包み込むと、さらなる高みへと持ち上げていく。
「なんじゃこの黄金の柱は……もしや、"天の浮き橋"」
黄金の光の柱に吸い上げられるようにして、はるか彼方へと消えていく桃姫の姿を役小角の風は呆然と見上げた。
「"冥府魔道"から"極楽浄土"までひとっ飛び……かかか。こりゃ、かなわん」
役小角の風は呆気にとられながら、桃姫の姿が"極楽浄土"の輝きに飲み込まれていくのを見届けた。
一方、黄金の光に包まれた桃姫は何とかして背中の大翼を制御しようとしたが、もがけばもがくほど上昇する速度は増していった。
「止まって……止まってよぉ!」
桃姫は悲鳴のような声を上げ続ける。やがて黄金の光が極光の輝きを放ち始め、桃姫は思わず目を閉じた。
桃姫の体が分厚い雲海のような光の層を突き抜けると同時に、背中から生えていた一言主の大翼が役目を終えたように散って消え去る。
「──あっ……ああッ!」
急激な減速を感じた桃姫が目を開いた瞬間、その体が放り投げられるようにして宙空を舞った。
眼下に広がるのは黄金に輝く稲穂の海原。宙空を舞いながら見覚えのある景色を垣間見ると、桃姫の体は柔らかい稲穂の中にボフッと沈み込んだ。
「う……うう」
黄金の稲穂の中に埋まり込んだ桃姫が声を漏らし、稲穂の絨毯に片手をついてゆっくりと立ち上がる。
速度の急激な変化で視界が揺れているものの、あれだけ高く放り投げられたのに、体への痛みが一切ないのは不思議だった。
頭を大きく振って気を取り直した桃姫。白銀の波紋が走る濃桃色の瞳で見渡すと、そこはかつて見た"極楽浄土"の景色であった。
「……"極楽浄土"」
背中から大翼を失った桃姫が呟くと、背後から声が投げかけられた。
「──桃姫」
それは紛うことなき桃太郎の声。桃姫は目を閉じて深く息を吸い、覚悟を決めて見開くと振り返る。
「──おかえりなさい、桃姫」
「──おかえりなさい、桃姫ちゃん」
「──おかえりなさい、桃姫様」
それは、100人を超える人々であった。
両親のみならず、おつる、おはる、おかめ、おとよ、三郎──花咲村の住人が総出で"極楽浄土"に到着した桃姫を出迎えていた。
「……花咲村の人たちが、こんなに、たくさん」
「アマテラス様が教えてくれたんだ。桃姫がやってくるとね」
桃太郎の言葉におとよが豪快に笑った。
「桃姫様に会えるなんて聞いたら、うかうか寝てなんていられないよ。桃姫様、村の復興をひとりでしてるところ、あたしら最初から最後までしっかりと見ていたからね……よく頑張った、偉いよ、本当に!」
おとよの言葉を皮切りに、村人たちは一斉に桃姫に向けて称賛の言葉を送って拍手をした。
「桃姫。山越村の人たちを花咲村に招き入れたことも、みんな大賛成なのよ。あなたは本当に立派なことをしたわ……私、とても誇らしい」
「……母上」
村人たちからの称賛に困惑していた桃姫だったが、小夜の言葉に心の底から喜びがこみ上げた。
そうして、桃姫が村人たちからの称賛の声を一身に受けている中、懐かしい少女の声が響いた。
「──桃姫ちゃん」
それは、玉子色の着物を着たおつるであった。桃姫は18歳となったが、おつるはあの日のまま、変わらぬ笑顔を浮かべている。
おつると桃姫には交わしたい言葉が無数にあった。しかし、ふたりはただ互いの瞳を深く見つめ、黙って力強く頷きあった。
たった一度の頷きが千の言葉の意味を持ち、"大親友"であるおつると桃姫にとってはそれで十分だった。
そのとき、村人たちの頭上に"天界の扉"が現れた。ゆっくりと開かれていく扉から天照大御神が黄金の光とともにその姿を現す。
「──日ノ本の危機──再び、あなたとつながるときが訪れたようですね」
「はい、アマテラス様──ともに鬼を退治しに参りましょう」
桃姫が両手を大きく広げると、天照大御神は村人たちの頭上を滑るようにして桃姫のもとへと飛び込んだ。
両肩にやさしく手を回しながらくるりと背後に回り込むと、黄金の瞳を輝かせながら神々しい声で告げる。
「──神仏融合体・極光天衣──」
天照大御神が極光の粒子に転じながら桃姫と融け合って一体化すると、濃桃色の瞳に黄金の波紋が蘇り、桃色の髪が仏炎となって燃え上がる。
光り輝く極光天衣をその身にまとった桃姫は左腰に差した神仏融合剣〈雉猿狗承〉が途轍もない"太陽の熱"を発していることに気づいた。
天照大御神由来の神力を補充した翡翠色の刃が狂おしいほどに輝き出すと、固唾を呑んでその様子を見護っていた村人たちに向けて桃姫は告げた。
「──神仏融合体・桃姫──これより、日ノ本を救済して参ります──」
八枚の光の羽衣をはためかせた桃姫の姿を見た、桃太郎、小夜、おつる、村人たちは、もはや言葉は無用と理解し、愛する桃姫を関ヶ原へ送り出すことを決めた。
その想いに応えるように、桃姫の背後の足元が割れるように裂けていくと、混沌渦巻く関ヶ原を見下ろす空間が広がった。
「──アマテラス様、参りましょう」
送り出すみんなの顔をしっかりと見据えた桃姫は、後ろ向きのまま"下界"の裂け目に飛び込んだ。
宙空で優雅に身をひるがえすと、神仏融合体としての"本領"を発揮し、長い髪を仏炎でさらに激しく発火させた。
「──みんな……今、助けるからね」
桃姫は、双眸から神仏の威光を激しく迸らせた。
極光の帯となった八枚の羽衣が美しく舞い踊ると、光り輝きながら花びらのように咲き誇り、桃姫様の"光の大空華"が花ひらくのであった。