34.役小角の風
突然の強風に対して、三人は顔を伏せた。焚き火が風に煽られて激しく燃えたあとにかき消え周囲を暗闇が包み込む。
「かかか──なにやら、困っておるようじゃのう」
暗闇の中で特徴的なしゃがれ声が響くと、白く光り輝いた老人の顔が三人の前に現れた。
一度見たなら忘れることのできない満面の笑み。桃姫はその老人の名を声に漏らした。
「……役小角」
「いかにも──だが、今はこの呼び名が相応しい──"役小角の風"──かかかッ!」
役小角は、極光の風で形作られた顔面から突風を放ちながら、笑い飛ばした。
「行者様……! なぜ、こちらに!」
帰蝶は着物の袖で顔を覆いながら尋ねると、役小角の風は目を丸くしながら帰蝶と信長の姿を見やった。
「おお──帰蝶殿、信長殿──よもやおぬしら夫婦と逢えるとは思わなんだ」
「……久しいな、行者。相変わらず自由にやっているようで、何よりだ」
信長が片手を上げて挨拶すると、飛翔した役小角の風は宙空に大きな円を描いてから、再び顔面を形成した。
「かかか! こうして風になってより、ますます元気になってしまってのう──身体というものがどれだけ邪魔くさいものだったか、失って初めてわかったわいの」
役小角の風が満面の笑みを浮かべながら周囲を明るく照らし出すと、桃姫が険しい表情で睨みつけた。
「かかか。そう怖い顔をするでない──わしはおぬしを助けにきたのだぞ」
「あなたの助けなんていらない!」
「ほう? ならばこのまま冥府にて暮らし続けるか──地上の地獄をさておいてのう」
役小角の風が頭上に向かって極光の風を吹き飛ばすと、天井に大きな空間を開いた。そこには、現在の関ヶ原の状況が映し出されていた。
五郎八姫や夜狐禅、たまこといった仲間たちが鬼人の群れと戦い、前進しようとする"大悪路鬼王"をぬらりひょんとカパトトノマトが足止めしている。
「──ぬらりよ! 本当に桃姫とやらはくるのか!? わらわの妖力にも限界があるのじゃぞ!」
「──必ずくる! 桃姫は日ノ本の大守護者じゃ!」
ぬらりひょんが雪雲に乗ったカパトトノマトに叫ぶと、極光の風で形成された空間が閉じられて天井から消え去った。
「これを見てもまだ、わしの助けはらいぬと申すか?」
「…………」
顔面を形成し直した役小角の風が尋ねると桃姫は両手を握りしめ、白銀の波紋が走った濃桃色の瞳を役小角の風に向けた。
「助けて──みんなを、助けたいから……私を、助けてッ!!」
役小角の風は桃姫の言葉を噛みしめるように眼を閉じると、穏やかにほほ笑んでから白光する眼を開いた。
「うむ──わしと日ノ本を救いに行こう」
告げた役小角の風は白く輝く風を桃姫の体にまとわせた。
「……?」
困惑した桃姫がその風を見ていると、腰帯の中から"一言主の羽根"がスッと取り上げられる。
「かかか。師匠もなかなか気が利くではないか。わしの風だけでは、おぬしを引き上げることはできん。しかし、"一言主の羽根"があれば話は別」
役小角の風はそう言うと、"一言主の羽根"を帰蝶の前まで運んだ。
「帰蝶殿。鬼ヶ島にてわしがおぬしに教えた呪術、まだ覚えておるかのう?」
「ええ。身に沁みて覚えておりますわ」
帰蝶は"一言主の羽根"を受け取ってほほ笑んだ。
「さすがだわいの。どれ、桃のむすめよ。力を貸してくれるよう帰蝶殿に頼んでみるがよい」
「……ッ」
役小角の風に促された桃姫は、帰蝶と向き合い互いの瞳を交差させた。
「あの……」
「はい、桃姫ちゃん」
桃姫は緊張の面持ちで声を発すると、帰蝶は笑みを浮かべて返した。
「お願いします……私の背中に、一言主様の翼を与えてください……お願いします!」
桃姫は帰蝶の黒い瞳を見つめながら言うと、帰蝶は頷いた。
「まかせて、桃姫ちゃん。私に背中を向けて」
「はい!」
桃姫は帰蝶に対して背中を向けた。帰蝶はその背中に"一言主の羽根"をかざすと、桃姫の耳元に顔を近づけた。
「ねぇ桃姫ちゃん、鬼だった頃の私がやったこと、赦してほしいなんて言わない」
帰蝶が桃姫にだけ聞こえる声でささやいた。
「でもね、人である私のこと、ほんの少しだけでも好きになってくれたなら……」
「……帰蝶さん。鬼じゃないあなたと話せて、本当によかったです」
桃姫の言葉を聞いた帰蝶は一筋の涙を流し、頬を伝わせて"一言主の羽根"に落とした。
「──嬉しい──」
帰蝶は両手に念を込める。羽根に込められていた神力が解放されて迸ると、桃姫の背中に漆黒の大翼が開かれた。
「上出来じゃ、帰蝶殿」
役小角の風が告げると、桃姫は右に左にと振り返りながら背中の大翼を確認した。
「翼が、生えてる!」
「似合ってるわよ、桃姫ちゃん」
「……ふっ」
帰蝶は桃姫に笑顔で言うと、信長も笑みをこぼした。
「それでは桃のむすめよ。関ヶ原に飛ぶとしようかのう」
「……あっ!?」
役小角の風が告げた瞬間、桃姫が大きな声を発した。
「どうしたの……?」
帰蝶が尋ねると、桃姫は役小角の風が放つ白い光で照らされた周囲を焦った表情で見回した。
「〈雉猿狗承〉……! あの、私の剣を見ませんでしたか!? 翡翠の色をした両刃の霊剣です!」
桃姫は帰蝶と信長に血相を変えて言うと、信長は眉根を寄せて帰蝶を見た。
「さ、さぁ……? 私は桃姫ちゃんをあの池の中からすくい上げた。ただそれだけよ」
「池……そうだ、私は水の中にいて……そしたら、雉猿狗の声が聞こえて」
帰蝶が指さした池を見た桃姫は、冥府魔道にきたときの状況を思い返していた。
「私が桃姫ちゃんに気づいたのは池が緑色に光ったからなのよ……だからなんだろうと思ってのぞいたの……そしたら桃姫ちゃんが手を伸ばしていて」
「それなら、まだ池の中にあるかもしれない!」
桃姫は池に向かって駆け出した。薄暗い冥府魔道の道、役小角の風が桃姫の後を追いかけて周囲を照らし出すと、帰蝶と信長もその後に続いた。
「──なさそうじゃのう」
水面を見回す桃姫の頭上で役小角の風が呟く。
「……沈んじゃったのかもしれないわね」
「それはまずいな。その霊剣、地獄まで流されたかもしれん」
「そんな……!」
悲痛な声を漏らした桃姫が池のほとりに膝をつくと、役小角の風が地獄の大穴の方角を見て声を上げた。
「のう、おぬしら! あのフクロウを見よ!」
三人が地獄の大穴の方角を見ると、一羽の黒いフクロウがこちらに向かって飛んでくるのが見えた。
その両足の鉤爪には、翡翠色の神仏融合剣〈雉猿狗承〉が握られている。
「あ、ああ! 〈雉猿狗承〉!」
桃姫は立ち上がって叫んだ。フクロウは羽ばたきながら桃姫の頭上を通り過ぎると、火の消えた焚き火の前に〈雉猿狗承〉を落として地面に突き刺す。
そしてその奥の木の枝に止まると、赤い眼を桃姫に向けた。桃姫は背中の大翼を広げて、跳ね飛ぶように駆け出すと、一息で〈雉猿狗承〉の前に着地した。
「ああ! よかったぁああッ!!」
地面に跪いて喜びの声を上げた桃姫はフクロウを見上げた。
桃姫はその赤い眼に見覚えがあることに気づいた。それは"冥府送り"を受けたときに垣間見た"イザナミの眼"。
「ッ、イザナミ様……」
畏敬の念を込めて呼びかけた桃姫。
「私、冥府から出ていっても……よろしいですか?」
桃姫は問いかけると、フクロウは桃姫の瞳の奥を見つめたあと"ホー"と一声鳴いた。
「……ありがとうございます!」
桃姫がフクロウに頭を下げると、両手を伸ばして地面に突き刺さった〈雉猿狗承〉を引き抜いて、立ち上がった。
「なになになに……桃姫ちゃん、あなたいつフクロウとお友達になったの?」
桃姫の後を追いかけてやってきた帰蝶が、フクロウと会話している桃姫を不思議がりながら声をかけた。
「帰蝶さん……信長さんとこのまま冥府で暮らすつもりなら、フクロウさんとは仲良くしておいたほうがいいと思います」
「……?」
桃姫は笑みを浮かべながらそう言うと、帰蝶を困惑させた。
「さぁ、桃のむすめよ。もう忘れ物はあるまいな? 一度地上に飛び立てば、もう二度と戻ってはこれぬぞ」
「大丈夫。私には〈雉猿狗承〉さえあれば、怖いものはないから」
淡い翡翠の輝きを放つ〈雉猿狗承〉を左の腰帯に差した桃姫は、信長と帰蝶を見た。
「それでは、行って参ります」
「うむ。冥府魔道より桃姫殿の活躍、しかと見ておるからな」
「行者様。あなた様に対しては色々と思うところがあるのですが……桃姫ちゃんに免じて、今日のところは伏せさせて頂きます」
「──かかか! そうしてくれるとありがたい」
帰蝶は役小角の風と言葉を交わすと、次いで桃姫の濃桃色の瞳を見た。
「さぁ、飛び立ちなさい桃姫ちゃん。こんな寒くて暗いところは、あなたがいるに相応しい場所ではないわ」
帰蝶の言葉に桃姫は力強く頷いて返した。
「行者様、桃姫ちゃんを無事に地上まで送り届けてくださいませ。冥府魔道より、私たち夫婦が見護っておりますからね」
「うむ──桃のむすめよ、風を受けるのじゃ──"役小角の風"をその翼に受けるのじゃあッ!」
役小角の風が、顔の形状を解いて渦を巻くと、桃姫の体を下から押し上げた。
桃姫の背中から広がった一言主の大翼が風を受けると、またたく間にその体が宙空に浮かび上がる。
「……帰蝶さん、信長さん、イザナミ様──さようなら!」
桃姫は遠ざかっていく冥府魔道の大地に別れを告げた。
帰蝶は手を振り、信長はあごひげを撫で、フクロウは赤い眼で、大翼を広げる桃姫の姿を見送った。
役小角の風をまとって浮上していく桃姫は、光を放つ岩盤の裂け目へと吸い込まれるように飛び込んでいくのであった。