33.冥府魔道
──桃姫様──桃姫様──。
懐かしい声に意識を取り戻した桃姫は、濃桃色の瞳を見開いた。黄金の波紋は消え、白銀の波紋だけが走っている。
「……ッ!?」
暗い水中で息を止めた桃姫は、翡翠色の輝きを頭上に見つけて泳いだ。右手を伸ばすと、白い手が差し出される。
互いの手が触れ合った瞬間──視界が真っ暗に染まった。
「……ん? 目を覚ましたようだぞ」
「あら……桃姫ちゃん、おはよう」
地面に身を横たえていた桃姫がゆっくりと目を開くと、穏やかな男女の声が耳に届いた。
「……ん、んん」
体の節々に鈍い痛みを感じながら上体を起こした桃姫は、岩盤に覆われる広大な空洞を目にして息を呑んだ。
「…………」
桃姫は視線を落とすと、パチパチと静かな音を立てる焚き火越しの倒木に腰かける男女の姿を見つめた。
焚き火がぼんやりと照らし出す紫色の着物をまとった女の顔が見えた瞬間、桃姫は驚愕した。
「鬼蝶ッ!?」
桃姫は上ずった声を喉奥から絞り出すと、地面を後ずさった。
その女の顔は忘れようにも忘れようがなかった。正真正銘の悪鬼──あの鬼蝶に他ならない。
「ふっ。まぁ……そうなるわよね」
鬼蝶に似た女は苦笑すると、隣の男が口を開いた。
「桃姫殿、よく見てみよ……こやつはもう、鬼ではないのだ」
「……え」
男の言葉を聞いた桃姫が改めて鬼蝶らしき女の顔を見ると、女は右手で自身の額にかかる黒髪を持ち上げてみせた。
「鬼の角、生えてないでしょう……それにほら、目にも"鬼"の文字が浮かんでない……ここにいる私は、帰蝶──"鬼の蝶"ではなく"帰りの蝶"」
そう告げた帰蝶の整った顔を桃姫は見回した。確かに、鬼である特徴はどこにも見当たらず──むしろ、育ちのよいお嬢様といった印象しか受けない。
「……ここは、どこなの」
だとしても、桃姫は警戒を解かずにふたりから距離を取ったまま尋ねた。
一見すると巨大な洞窟である──しかし、ところどころに小川が流れ、木々が生えており、その木の枝には赤い眼をした黒いフクロウが止まってこちらを見ていたりもする。
流れる川の先には、池のような水たまりがあり、見渡せば見渡すほどに、ここが洞窟なのか、あるいは森の中なのか、判断のつきかねる異様な空間であった。
「ここはね……冥府魔道よ」
「ッ!?」
帰蝶の言葉を受けて桃姫は愕然とした。それと同時に、関ヶ原にて自分に何が起きたのかが鮮明に蘇った。
──陰陽師から、陰陽術を受けた……"冥府送り"……確かにそう言っていた。
──そのあと背後から嫌な気配がして……振り向きたくないのに……体が勝手に振り返って。
「……ああッ!!」
漆黒の裂け目からのぞく恐ろしい"イザナミの眼"を思い出した桃姫は、叫びながら両手で顔を抑えた。
「悪徳陰陽師に何かされたのね……だってここは本来、桃姫ちゃんのような"よい子"が来るような場所じゃないもの……ね、信長様?」
帰蝶は憐れむような表情で桃姫に告げたあと、隣に腰かける黒い着物の男・織田信長に声をかけた。
「ああ。冥府魔道は、罪科を負いし魂魄の流刑地……神仏の加護を一身に受けし桃姫殿に相応しい場所ではない」
「でもね、桃姫ちゃん……これでも、地獄よりはずいぶんとマシなのよ」
信長は低い声で告げると、帰蝶が桃姫に向けて慰めるように言った。
「……地獄とは、違う?」
「ええ。地獄はね……ほら、あの"大穴"の下にあるの」
桃姫が眉をひそめると、帰蝶は背後を指さした。振り返ると、遠く彼方の盆地に、禍々しい赤光を放つ"大穴"がぽっかりと口を開いているのが見えた。
「日ノ本の悪人は、あの"大穴"を通ってそのまま地獄へと堕ちるの……けれどたまにこうして、私たちのように冥府魔道に"引っかかる者"がいる……なぜでしょうね、信長様」
帰蝶が尋ねると、信長はあごひげを撫でながらしばし思案する。
「我が思うに、往生際の悪い者が地獄へ堕ちるのではなかろうか……無論、生前の我は悪行も行った……だが、最期は光秀の裏切りに遭い、潔く腹を切った……これが我を地獄の一歩手前に引き留めたのであろう」
「なるほど……ですが私は往生際悪く暴れました……そして最期は、桃姫ちゃんの"仏炎"によって焼かれた……なのになぜここにいるのでしょう」
帰蝶は眉を曇らせながら呟くと、自身が死ぬ瞬間のことを思い返して息を呑んだ。
「もしかして……地獄行きだった私が冥府魔道に留まれたのは……桃姫ちゃんの"仏炎"のおかげ……」
「いや、案外そうかもしれぬ……悪鬼羅刹が聖なる炎によって焼かれ、魂魄が浄化されたというわけか」
信長が頷いて言うと、帰蝶は倒木から立ち上がった。焚き火の横をしなやかに歩み通って、地面に座る桃姫に向けて手を伸ばす。
「桃姫ちゃん、ありがとうね……あなたのおかげで、こうして信長様と落ち合えました」
「……っ」
ほほ笑んだ帰蝶の白い手を桃姫は睨むと、叩くようにその手を振り払った。
「知りません……!」
桃姫はそう言って帰蝶から顔を背ける。帰蝶は悲しげな表情を浮かべた。
静寂があたりを包むと、信長が手近な小枝を焚き火に放り込んだ。
「帰蝶、おぬし忘れたわけではあるまいな……鬼となったおぬしが、桃姫殿に何をしたのか……我は見ておったぞ。この冥府魔道からな」
「…………」
帰蝶は顔を伏せ、桃姫は顔を背けたまま目を閉じた。
そんな沈黙を割くように木の枝に止まっていたフクロウが"ホー"と鳴き声を上げながら飛び立った。
フクロウの羽ばたく音が遠くに消え去ると、帰蝶が顔を伏せたまま静かに口を開いた。
「……私ね……鬼だった頃の荒ぶる心を……今でも、よく覚えているわ」
呟くように告げる小さな声を耳にして、桃姫と信長がその視線を帰蝶に向けた。
「……憎悪と怨嗟の炎が渦を巻いて……こんな残酷な世界、もうどうなってもいいって……いえ、どうせ残酷ならむしろ私の手で──"鬼の手"でズタズタに引き裂いてしまえばいいって」
帰蝶は言いながら、白い手を持ち上げてその爪を見た。
白く細い指に生えた綺麗な爪に、鬼だった頃の黒い爪を重ね見ると、苦々しげに顔を歪めた。
「そんな心の状態で、私は桃姫ちゃんに出会った……人々から託された想いで光り輝いている桃姫ちゃん……私の黄色い鬼の目には、それがあまりにも眩しすぎて……だから私は、すべて引き裂いて、容赦なく燃やしてしまいたかったの……」
帰蝶は両手を固く握りしめると、ふるえる握り拳から鮮血を垂らした。
「…………」
桃姫が地面に落ちる赤い血を黙って見つめると、その上から透明なしずくが落ちる。
顔を上げて帰蝶の顔を見ると、"鬼"の文字が浮かんでいない黒い瞳から涙を流す帰蝶の泣き顔があった。
「……ごめんなさい! ごめんなさいッ……! ごめんなさいッ……!」
帰蝶は桃姫に向かって滂沱の涙をこぼしながら謝罪した。
「あなたのことが羨ましかったの! 光に満ちあふれているあなたのことが! だから私は──嗚呼ぁああ!!」
帰蝶はその場に崩れ落ちると、涙と鼻水で濡らした顔で桃姫に謝罪を繰り返した。
「……ごめんなさい! ……ごめんなさい! ……ごめんなさい!」
「……いいです……もう、いい……」
泣きじゃくりながら謝罪を繰り返す帰蝶に、桃姫は小さな声で告げた。
「……ごめんなさい……ごめんなさいぃ……」
「……もういい……もういいです……」
帰蝶が嗚咽混じりの謝罪をするたびに、桃姫は静かに答えて返した。
それからしばらく後、桃姫、帰蝶、信長の順で倒木に腰かけ、パチパチと音を立てる焚き火を三人並んで黙って見つめた。
遠くで鳴いたフクロウの声がかすかに聞こえると、桃姫はおもむろに口を開いた。
「……私は、ここには居られません。出口を探します」
揺れる火を瞳に映した桃姫がそう言って立ち上がると、信長は焚き火を見つめつつ息を吐いた。
「やめておけ……我も試したが、冥府から出ていく術はない。それに、まわりは池だらけだ……池の底は、大穴につながっておる」
桃姫は遠く開かれた大穴から放たれる不気味な赤い光を見た。
「……かつてイザナギは、冥府までイザナミを探しにきたと、書物で読んだ覚えがあります……探しにきたならどこかに地上への道があるはず」
「……桃姫殿。どうやら、その話の続きを忘れているようだな」
桃姫の言葉を受けて、信長は乾いた笑いを漏らすと、小枝を拾って焚き火の中に放り込んだ。
「イザナギはね……変わり果てた姿となったイザナミが出てこれないように……その道を、大岩で塞いだのよ」
「…………」
焚き火を見つめる帰蝶が穏やかな声で告げると、桃姫は失意に顔を伏せて黙り込んだ。
「ただ、唯一道があるとしたら、ほら見て……あの天井の裂け目……光が差し込んでいるのが見えるでしょ?」
そう言って上方に向けて指をさした帰蝶。桃姫がその指の先を見ると、遥か頭上の黒い岩盤に、細い光の筋が差し込んでいた。
「はい……あれは、地上の光ですか?」
「恐らくな……だが見ての通りたどり着ける高さではない。翼なき我らでは、どうすることもできぬ……蜘蛛の糸でも垂れてくるなら話は別だが」
信長がため息をついたそのとき、一陣の風が頭上から強く吹きつけるのであった。