32.妖怪女王カパトトノマト
「だめか!」
ぬらりひょんが歯噛みしたそのとき、青い目をしたハヤブサ・梵天丸が顔の横を通り過ぎていった。
「──待たせたのう、ぬらり」
梵天丸が飛んできた方角から届くひんやりとした声。
「──まったく、関ヶ原は蝦夷地から遠すぎるのじゃ」
桃配山の向こうからやってくるのは、大きな雪雲に乗って白コウモリの衣をまとった美しい妖女。
「カパトトノマト様!?」
奥州よりはるか北の大地、蝦夷地の妖怪女王・カパトトノマトに他ならなかった。
「──風花雪月・クルクペカムイ──」
カパトトノマトは右手をすっと上げて吐息を吹きかけると、霜を含んだ白銀の吹雪を"大々目壁兵衛"の背中に向けて飛ばした。
またたく間に"大々目壁兵衛"の背中が凍りついていき、四ツ腕の鬼の拳を突き込んでいた"大悪路鬼王"の腕ごとカチリと凍りつかせた。
「腕が──動かねッ!」
「オーッホッホッホ! わらわが運んできた北風は、さぞや冷たかろう?」
"大々目壁兵衛"に突き入れた四ツ腕が微動だにしなくなったことに刃刃鬼が驚愕すると、カパトトノマトは愉快そうに笑った。
「妖怪女王が、なぜこちらに!?」
浮き木綿を近づけたぬらりひょんがカパトトノマトに尋ねた。
「梵天丸が教えてくれたのよ。日ノ本の危機であるとな。まったく賢い子よ」
「……なぜ梵天丸が」
ぬらりひょんは困惑すると、カパトトノマトは首を傾げて青い目を細めた。
「──ん? 梵天丸はわらわの孫であるぞ」
カパトトノマトの言葉にぬらりひょんが絶句すると、梵天丸は風を切って地上で鬼人と戦っている五郎八姫の肩へと止まった。
「うお、梵天丸!? 今までどこに行ってたでござるか! 突然いなくなって──説教はあとでござる! 今はこの鬼人どもをどうにかせねばッ!」
五郎八姫は〈氷炎〉を構えながら声を上げると、梵天丸は鳴いて応えた。
呆気に取られたぬらりひょんがその様子を浮き木綿から見下ろしていると、不意に声を投げかけられる。
「──ぬらりひょん殿! お久しぶりでござる!」
カパトトノマトが乗っている雪雲の一つがちぎれてやってくると、群青色の武者鎧が右の手甲を上げた。
「妖々魔ではないか!」
「──猫丸殿もいるでござるよ!」
妖々魔が言うと、その隣からガバッと体を持ち上げた黄色い武者鎧を着込んだ大猫又が姿を現した。
「お久しぶりでございますにゃ、頭目様!」
「猫丸! おぬし生きとったのか!」
武者修行の旅に出たまま消息不明となっていた猫又の姿を目にしたぬらりひょんは声を裏返らせた。
「この通りぴんぴんしてますにゃ! 猫吉兄ちゃんは元気にしてるですかにゃ!?」
「ほほほ! いつおぬしが帰ってくるかと厨房でキセル吹かしておるよ!」
「にゃはは! 猫吉兄ちゃんの焼き魚定食! また食べたいですにゃ!」
ぬらりひょんが猫丸との会話を楽しんでいるとカパトトノマトが告げた。
「再開を喜んでいるところすまぬが──あの赤鬼、わらわの妖氷を己の熱で溶かそうとしておる」
「ぬっ!?」
ぬらりひょんが"大悪路鬼王"を見やると、確かに真紅の巨体から蒸気を発しており、凍結した四ツ腕の氷が段々と溶け出しているのが見て取れた。
「のう、ぬらりよ。わらわもおぬしも、あの赤鬼を殺す術を持ち合わせておらん。足止めして何になる? それより、仲間を引き連れて蝦夷地に逃げるべきではないか?」
カパトトノマトの問いかけに対して、ぬらりひょんは"真眼"を力強く赤光させた。
「桃姫が必ずやって来る──それまでどうか、力を貸してくだされ、カパトトノマト様」
ぬらりひょんの懸命な言葉を受けて、カパトトノマトは再び"大悪路鬼王"と向き合うのであった。
「多勢に無勢! 斬っても斬ってもきりがないでござるな!」
襲いかかってきた鬼人を〈氷炎〉にて斬り捨てた五郎八姫が声を上げた。
関ヶ原には5000人近い鬼人がごった返し、数人倒したところで趨勢に変わりはなかった。
「──助太刀つかまつる!」
そのとき、上空から声が投げかけられた。五郎八姫が見上げると、空に浮かんだ雪雲から群青色をした武者鎧が飛び降りてくる。
「それがしの名は、妖々魔! 妖刀憑かれの妖々魔!」
五郎八姫の隣に着地した妖々魔は、二振りの妖刀〈夜霧〉と〈夜露〉を黒鞘から引き抜き、両手に構えながら名乗りを上げる。
「──ッ!?」
その名前を耳にした五郎八姫は独眼を驚きに見開いた。
妖々魔──それは桃姫の師匠であり、刻命刀〈氷炎〉の原型となった妖刀〈夜桜〉の持ち主の名前であった。
「──にゃあも助太刀するにゃ! とうっ!」
続いて雪雲から猫丸が飛び出すと、夜狐禅の隣に着地する。
「にゃにゃ? 夜狐禅殿ではにゃいか! ご無沙汰してるにゃ!」
「──ガウッ!」
妖狐姿の夜狐禅は猫丸に吠えて応えると、その背中に乗っているたまこが猫丸の姿を見回しながらくちばしを開いた。
「なんか弱そうなやつがきたけろ! そんな短い手足でまともに戦えるとは思えないけろだよ!」
猫丸は猫の目を鋭く光らせると、二振りの小太刀を黄鞘から引き抜いて両手の肉球で固く握りしめた。
さらに、二又に分かれた長い尻尾にも二振りの小太刀を巻きつけて、四刀流の状態となった。
「カッパの娘さん、あなどるにゃかれ……蝦夷の大地にて鍛え上げたこの猫又剣術──とくとご覧あれにゃ!!」
猫丸は鬼人の群れに突撃していくと、地面を蹴り上げると同時に大回転して四刀を振り回した。
「──猫又奥義・四獅焚刃ッ──!!」
高速回転によって、火花を散らすまで赤く染まった四枚の刃が鬼人の群れを薙ぎ払って一掃していく。
「強かったけろ!?」
たまこが驚きの声を上げると、目を回した猫丸が息を切らしながらその場に座り込んだ。
「はぁ、はぁ……あとは任せたにゃ……しばらく、動けそうにないにゃ」
「猫丸殿! 出だしからその奥義を撃ち放ってしまっては駄目でござろう!」
妖々魔が声を上げると、猫丸は大きなため息をついた。
「ついやっちまったにゃ……にゃんだかもう、ここで2時間ほど眠りたい気分にゃ」
「……燃費わるすぎけろ」
たまこが呆れたように呟く。猫丸に倒されたはずの鬼人たちが赤眼を揺らしながら立ち上がり、一行を取り囲んだ。
「相手は鬼人……通常の刀では葬れぬでござるか! デェエエイ!」
「トドメは拙者が! デリャァアア!」
迫ってきた鬼人を妖々魔が斬り伏せると、すかさず五郎八姫が〈氷炎〉で突き刺し、鬼の心臓を破壊して葬り去った。
「おお! どなかは存ぜぬが仏刀持ちとは、これはありがたい!」
「妖々魔殿──この刀に見覚えはないでござるかな?」
「む……? ムムムッ!」
五郎八姫は妖々魔に向けて〈氷炎〉を突き出して見せた。妖々魔は青い眼を光らせる。刃の色こそ違えど、その刀には覚えがあった。
「これは──〈夜桜〉!?」
「いかにも。しかし今の名は──〈氷炎〉でござるッ! デヤァアア!」
五郎八姫は〈氷炎〉の蒼銀色の刃を力強く振り抜き、迫ってきた鬼人を一撃で葬った。
「その太刀筋……まさか、貴殿は」
「拙者は、伊達五郎八姫──あの日、蘆名の柳川格之進を討ち取った女武者でござる」
五郎八姫の言葉に、妖々魔の青い眼が明滅した。
「拙者の〈夜桜〉が、巡り巡って貴殿の愛刀になるとは──まったく、妖怪冥利に尽きるござるなッ!」
「妖々魔殿、背中は預けたでござるッ!」
「あいわかったッ!」
五郎八姫と妖々魔は互いの背中を合わせながら、迫ってくる鬼人の群れに刃を向けるのであった。