14.山ごもり修行
花咲村の裏門前には、桃太郎の出立を見送りにきた村人たちが集っていた。
「あぁ……男の子ってのはこんなにもはやく巣立ってしまうものなんだねぇ」
目に涙を浮かべたお婆さんは、感慨深げにそう口にすると、手にした巾着袋を桃太郎に差し出した。
「いいかい、桃太郎……行者様の言うことをよく聞いて、鬼に負けない立派な男になるんだよ」
「はい」
桃太郎は巾着袋を受け取ると着物の懐に入れた。老夫婦は桃太郎の隣に立つ役小角に両手を合わせ拝んだ。
「行者様……手加減などなさらず、とことん鍛え上げてくだされ」
お爺さんの言葉を聞き受けた役小角は、チリンと〈黄金の錫杖〉を鳴らした後、隣に立つ桃太郎を見やった。
「かかか。修験道のやり方で鍛えますゆえ、言われずとも厳しくいかせてもらいますわいの。では行くか、桃」
笑った役小角が告げると、着替えが入った風呂敷をたすき掛けにしている桃太郎が声を上げた。
「待ってください、御師匠様」
「む?」
漆黒の眼を細めた役小角。桃太郎は見送りにきた村人たちの中に立つ小夜の前へと駆け寄った。
「お小夜さん、ちょっと」
「……え?」
桃太郎は困惑の声を漏らす小夜の手を取ると、役小角の前に引き立てた。
「御師匠様。この娘、お小夜さんは僕の幼馴染で、幼い頃から咳の病を患っております」
「…………」
小夜を隣に立たせて告げる桃太郎の顔を役小角はじっと無言で見やった。
「御師匠様は法術をお使いになさって、僕の体を治したと聞きました。であれば御師匠様、どうかお願いします! 咳の病も、法術にて治しては頂けませんでしょうか!」
「……桃太郎さん」
懇願した桃太郎は、深く頭を下げた。小夜が不安げな顔を浮かべると、役小角の顔をうかがい見た。
「……っ」
小夜はその顔を見てぞっとした。極限まで細められた漆黒の眼で頭を下げる桃太郎を見つめる得も言われぬ威圧感。
眼力だけで人を殺めてしまえるのではないかと思うほどの迫力を前に小夜が戦慄すると、役小角は静かに口を開いた。
「──それがいったい、鬼退治となんの関係がある……答えてみせよ、桃」
低くしゃがれた声が発せられ、小夜は冷や汗を流したが、桃太郎は毅然とした態度で頭を上げて、役小角の顔を力強く見やった。
「お小夜さんの呼吸が楽になれば、僕は安心して修行に邁進できます──だから、鬼退治と関係があります」
桃太郎の言葉を受けた役小角は、意表を突かれたように細めた眼を少し開くと、満面の笑みを浮かべながら鼻で笑った。
「ほう……それらしい理由を、よくひねりだしたものじゃ。かかか」
笑った役小角は小夜に近づき、〈黄金の錫杖〉を黒い着物の胸元に向け、左手で片合掌した。
「──オン・マカラカ!」
甲高いかけ声に合わせて〈黄金の錫杖〉がチリンと音を立てながら黄光を放つと、小夜の上半身に向けて法力の波が放たれ、そして霧散した。
「これで死ぬまで咳一つせん。気が済んだか、桃」
役小角は桃太郎にそう言って背を向けると、高下駄をカンッと打ち鳴らして軽やかに大跳躍をした。
白装束を風になびかせながら北の裏門を軽々と跳び越える老人の姿──村の人々が呆気にとられた顔で見届けると、村の外に着地して横顔を向けた。
「はよう来い。もうとっくに修行は始まっておるのじゃぞ」
「は……はい! お小夜さん、それじゃ、行ってくる!」
役小角のせかす声を受けた桃太郎は、たすき掛けにしている風呂敷を背負い直すと、小夜に声をかけてから駆け出した。
「桃太郎さん、がんばって!」
小夜は長年疼いていた胸の痛みが法術によってスッと治まっているのを感じながら、裏門へと走る桃太郎の背中に向けて声を発した。
「お婆さん、お爺さん、花咲村の皆さん! 桃太郎、行ってまいります!」
桃太郎が振り返って花咲村に別れを告げると、村人たちが声援を上げた。頷いて返した桃太郎は、裏門を抜けて役小角の背中を追いかけた。
役小角は桃太郎に振り返ることなく、ウサギが跳び跳ねるように高下駄でぴょんぴょんと村道を疾走し、桃太郎はその速度に早くも呆気にとられた。
気を抜けば遠ざかっていく役小角の背中を力強く見やった桃太郎は、自身の両頬を平手で叩いて気合を入れ直すと、赤い鳥居をくぐるその背中を追いかけた。
花咲山に入山し、まだ三獣の祠が建っていない山道を駆け上がり、一気に山頂までたどり着くと、そこでようやく役小角は足を止めた。
「はぁッ! はぁッ! 御師匠様ッ! 待ってください! ちょっと!」
息を切らした桃太郎が役小角に遅れてやってくると、倒れ込むようにして腰をおろした。
「あの、もうちょっと、ゆっくりお願いします!」
「なにを寝ぼけたことを抜かしておる。古来より修行というは、厳しければ厳しいほど身につくものとされておりますわいの」
全身に汗をかいて荒い呼吸を繰り返す桃太郎に、飄々とした態度で答えた役小角は、北に広がる備前の山々を見回した。
「見よ、桃。この雄大なる備前の山々を……今日より6年、これらすべてがおぬしの修行道場となるのじゃ」
「6年!?」
驚愕した桃太郎は役小角の背中に絶叫した。
「短いか? 別にわしは、10年でもかまわないが」
「違います! 長すぎるんです! これから僕、6年も山にこもるんですか!?」
役小角の口から初めて聞いた修行期間に、目の前が真っ暗になった桃太郎。
「たりまえじゃろうが。のうおぬし、ちと修験道を舐めとりゃせんか? 6年は最低限じゃ。それでも鬼退治が果たせる練度になっているかは定かではない。なぜなら桃、すべてはおぬしの覚悟次第じゃからのう」
「……僕の覚悟」
地面に座り込んだ桃太郎の顔を見つめた役小角によって告げられる言葉。
覚悟という言葉を耳にした桃太郎の脳裏に、昨日起きたばかりの事件。「桃太郎ちゃん!」と泣き叫びながら波羅に担がれて砂浜を去っていくおはるの姿が蘇った。
「そうだ、僕は……泣き言を言ってる場合じゃなかった……」
濃桃色の瞳に覚悟の炎が宿ったのを見た役小角は満足げに頷くと、手にした〈黄金の錫杖〉を高く掲げた。
「さぁ立て、6年間みっちり行くでな! 今日は、"山跳び"一周じゃ!」
そう声を張り上げた役小角は、高下駄を打ち鳴らしながら備前の山々に向けて軽快に跳躍していった。
「……"山跳び"とは?」
立ち上がった桃太郎は、またたく間に遠ざかっていく役小角の背中を見つめ声に漏らした。
それから6時間後──山跳びを終えた役小角と桃太郎が焚き火を挟んで座り、枝に刺した川魚を焼いていた。
「焼けたぞ、食え」
「…………」
役小角が差し出した焼き魚を受け取った桃太郎は黙って見てから、勢いよく食べ始めた。
「かかか。よく走ったあとに食う魚は格別だろう。魚は骨ごと食らうが肝心じゃぞ」
役小角は笑いながら桃太郎の食べっぷりを見ると、炙られている川魚に手を伸ばしてひっくり返した。
「備前は環境がよいでな……水は綺麗で飲み放題、川から魚は取り放題……おまけにわしの好物まで実っとる」
役小角は手のひらに乗せた山柿を口に放り込むと、笑みを浮かべて咀嚼した。
「栽培された柿……ありゃわしから言わせりゃ甘すぎる。この歯ごたえ、野趣あふれる渋みこそが……柿本来の持ち味ですわいの」
役小角は、山跳びをしてる最中に拾い集めた野生の猿でも食べないような山柿を次々と食べた。
「あの……御師匠様」
「んむ?」
川魚を骨ごと食べ終えた桃太郎が顔を焚き火で照らしながら呟くと、役小角は山柿を咀嚼しながら応じた。
「御師匠様は、気づかなかったもしれませんが……今日、僕は何度も死にかけました」
「かかか。大げさな」
桃太郎が眉を曇らせながら訴えると、役小角は山柿をさらに拾い上げ、口に放り込みながら笑って返した。
「本当に死にかけたんです! こんなことを続けたら、鬼退治の前に死んでしまいます!」
「安心せい。死んだら法術にて復活させますわいの。かかか」
笑った役小角は、よく焼けた川魚を桃太郎に差し出した。
「僕は……鬼より恐ろしい人を、師匠にしてしまったのか……」
呟いた桃太郎は受け取った川魚にかぶりついた。役小角は漆黒の眼を細めて桃太郎の顔を見つめると、口を開いた。
「今ごろ気づいても遅い。おぬしには鬼より強くなってもらわないかんのだ」
「でも……僕はただの14歳なんです」
桃太郎の言葉に役小角は少しだけ笑みを崩した。
「そうか」
低い声で呟いた役小角はおもむろに口を尖らせた。
「ぷッ!」
そして強く息を吐き出し、飴色をした山柿の種を桃太郎の顔に向かって高速で飛ばした。
桃太郎は咄嗟に空になった枝を振るって飛来する種を弾き落とした。
「なにするんですか!?」
「プッ、プッ、プッ!」
声を荒げた桃太郎に対して、間髪入れず三連続で放たれた山柿の種。
「やめてください! このッ!」
桃太郎は抗議の声を発しながら枝を素早く振るうと、顔に向かって飛来する種を的確に弾き落としていった。
「御師匠様! こんな子供じみた嫌がらせするなら、僕はひとりで修行します! そのほうがマシだ!」
「桃よ。ほんに今の芸当が、そこいらの14歳にできると思うておるのか?」
「……え?」
「反射神経に動体視力、集中力に適応力──それらすべてが常人を超えておるでな。わしの吹いた種を弾ける者が、ただの14歳であってたまるかよ」
役小角は桃太郎に告げると、パチパチと音を立てながら焚き火で焼かれていく山柿の種を見やった。
「それって……どういう」
「もうよい、寝るぞ。明日は、山跳びしながらウサギでも捕まえようかの──ぷッ!」
焚き火の前に横になった役小角が、不意打ちで種を飛ばした。
「ッ! くぅ……」
油断していた桃太郎の頬にピシッと種が当たって落ちると、桃太郎は悔しそうに歯噛みした。
「かかか。おやすみや、桃」
「おやすみなさい……御師匠様」
桃太郎は苛立ちながらも答えると、焚き火を挟んで横になり、開いた風呂敷を体の上にかけた。
焚き火が小さくなり、花咲山の頂きに静寂が訪れる。黄色い満月がふたりを静かに照らす中、役小角が呟いた。
「備前の月は、きれいじゃのう」
「……そうですね」
「かかか」
師匠の言葉に冷たく返した桃太郎。鈴虫の鳴き声を耳にしながら秋月を見つめた桃太郎には、6年という月日があまりにも果てしなく感じられたのであった。