23.晴明の龍、道満の虎
「くっ……」
水面に裸体を浮かべてたゆたっていた一言主は、苦渋の面持ちで目を開くと身体を持ち上げた。
「まったく……不快な記憶を想い出してしまったではないか」
苦々しげにそう呟いた一言主は、泉の冷水を顔に浴びせかけてから歩き出した。
「絶対に許さぬぞ、小角……腐れ陰陽師ども」
一言主は怒りに声を震わせながら、水面に浮かんでいる烏天狗の黒い仮面を掴み取って顔に付けた。
そして、仮面を付けた自身の顔を水面に反射させると、睨みつけるように見つめながら口を開いた。
「小角の"社"から抜け出せたはよいものの……余の持ち得る"神力"の半分程度しか取り戻せなかった」
仮面の下から覗く紫色の瞳を震わせた一言主が、畳んでいた背中の大翼を大きく広げると、青々とした春の空を見上げて叫んだ。
「小角、余の声を聞いておるのであろう!? 人の子から神となれて、嬉しいか!? 余への詫びは一言も無しか!?」
一言主の叫び声は虚しく葛城山の頂きに響き渡り、役小角からの返答が返ってくることもなかった。
「皆殺しにしてくれる……余を罠に嵌めた腐れ陰陽師ども──必ず殺してくれようぞ」
憤怒に駆られた一言主は、背中の大翼を羽ばたかせて水気を振り払いながら泉を飛び出ると、草の上に着地して、置いていた漆黒の衣を拾い上げて素早く身にまとった。
そして、漆黒の衣の隣に置いていた〈黄金の錫杖〉に手を伸ばそうとした瞬間、〈黄金の錫杖〉目掛けて紫光する"呪力の糸"が飛来して付着した。
「──ッ!?」
一言主は慌てて〈黄金の錫杖〉を握り取ろうとするが、"呪力の糸"にからめとられた〈黄金の錫杖〉はシュルシュルと巻き取られるように森の中へと持っていかれる。
仮面の下で紫色の瞳を見開いた一言主が持っていかれた森を見やると、森の中から、鬼の角を生やした二人の陰陽師と天狗のような顔つきをした巨大な灰色の怪鳥が現れた。
「かはは。風に対して叫び散らかすとは……落ちぶれましたな、女神殿」
赤い陰陽師、芦屋道満が鼻で笑いながら言うと、その隣に立つ緑の陰陽師、安倍晴明が、手に持った〈黄金の錫杖〉を愛おしそうに撫でながら口を開いた。
「千年前より愚かな山の女神とは思っておりましたが……御大様の体から離れて、より愚かさに磨きがかかっているようで」
「クェエエッ!!」
冷たい笑みを浮かべた晴明がそう告げると、二人の間に立つ羅刹天愚が愉快そうに喜声を発しながら四枚の大翼を広げた。
「腐れ陰陽師どもッ!!」
長年の宿敵を前にした一言主が、仮面の下の双眸を激しい憤怒に燃やして紫光させながら叫ぶと、全身から黒金色の神力を迸らせた。
そんな一言主に対して、晴明は〈黄金の錫杖〉の三つの金輪が並んだ頭をスッと一言主に差し向ける。
「──愚か極まれり。〈黄金の錫杖〉を持たぬ貴女など、羽根が生えた河童となんら変わらないのですよ」
冷たい笑みを浮かべた晴明が〈黄金の錫杖〉に呪力を込める。腕を組んで隣に立つ道満もまた、不敵な笑みを浮かべながら晴明が持つ〈黄金の錫杖〉を見やって、陰陽師の勝利を確信した。
「……ッ?」
しかし、晴明は〈黄金の錫杖〉によって呪力が増幅されないことに違和感を感じ、〈黄金の錫杖〉をまじまじと見やった。
「どうした、晴明」
「……なにか、おかしい」
道満が晴明に尋ね聞くと、晴明は眉根を寄せながら〈黄金の錫杖〉を指先で触れてよくよく確認した。
「──河童が、なんと申した?」
恐ろしく低い声で告げた一言主、その手にはいつの間に握られていたのか、〈黄金に光り輝く錫杖〉が構えられていた。
それを見て、ハッと瞠目した晴明と道満が改めて自分たちの〈黄金の錫杖〉を確認すると、それは焦げ茶色をした、ただの〈樫の棒〉に過ぎなかった。
「やられた……ッ!?」
「天海殿ッ!!」
晴明が悲鳴のような甲高い声で叫ぶと同時に、道満が二人の間に立つ羅刹天愚を前へと押し出した。
「──ド腐れ陰陽師どもッ!! 跡形もなく消え去れィッ!!」
「──ギャォオオオオオオッ!!」
〈黄金の錫杖〉の頭を陰陽師たちに差し向けて、殺気立った怒号を発した一言主。その全身から壮絶な雷鳴を伴った黒金色の神雷が撃ち出される。
猛禽類の咆哮を放った羅刹天愚が四枚の大翼を広げ、背後に隠れた道満と晴明を護るように胸を張って立ちふさがった。
「──ギュオェエエッ!!」
「──天海殿、耐えろ!」
"羅"の文字が浮かんだ両眼をひん向きながら絶叫する羅刹天愚を盾にしながら道満が声をかける。
「晴明、どうする。〈黄金の錫杖〉はヤツの手の中にある……少しは知恵の回る女神だったようだ」
「そうですね……こうなれば、"変化"しかないかと」
晴明はそう言うと、手にした〈樫の棒〉を放って捨てる。
「変化だと? "羅刹変化"か?」
道満は一言主の攻撃を一身に受け続ける羅刹天愚の羽毛に覆われた灰色の背中をちらりと見ながら言った。
「違いますよ……私たちの技、"陰陽変化"です」
「……しかし、あれは法力と呪力を多大に用いる諸刃の剣ぞ……」
「はい。ですが、〈黄金の錫杖〉さえ手に入れば"大空華"を咲かせるためのすべての駒が揃うのです──やる価値はあるかと」
晴明の言葉に道満は息を呑んだ。そして、しばし思案した後、覚悟を決めたように頷いてから口を開いた。
「いいだろう……刃刃鬼が"真の鬼"と成った今、力の出し惜しみをしている場合ではないからな」
「おっしゃる通りです、道満」
晴明は道満の言葉に頷いて返すと、羅刹天愚の後頭部から伸びる灰色の鬼の角を互いに掴んだ。
「よし、飛ぶのだッ!! 天海殿ッ!!」
「キィイイッ!! ギギョエエッ!!」
道満の命令を受けて、羅刹天愚は奇妙な鳴き声を張り上げると、晴明と道満を鬼の角に掴ませたまま、四枚の大翼を羽ばたかせて上空へと飛翔した。
「──くッ、なんと頑丈な鳥だ!! 余の神力が小角に奪われてさえいなければ……消し炭にできたものを!!」
一言主は道満と晴明を連れて飛翔した羅刹天愚を歯噛みしながら見上げると、〈黄金の錫杖〉の構えを解いた。
「──だが、余の前に現れたのが運の尽き、逃がすものかッ!!」
一言主は仮面の下の瞳を怒りで発光ながらそう叫ぶと、背中の大翼をドンッと力強く羽ばたかせて空へと一気に舞い上がった。
「こいつで終いにしてくれる──葛城神術・極神雷光ッ!!」
漆黒の大翼を大きく広げながら、両手に握りしめる〈黄金の錫杖〉に持ち得る神力の全てを注ぎ込んだ一言主は、羅刹天愚に向けて〈黄金の錫杖〉を振りかざすと、黒金色の猛烈な神雷の激流を撃ち放った。
「──ギギッ──ギョェエエッ!!」
全神全霊で放たれた一言主の怒涛の神雷の直撃を胸で受けた羅刹天愚は絶叫する。しかし致命傷には至らず、羅刹天愚はふらつきながらも辛うじて飛翔を保ち続けていた。
「──有り得ぬ! これでもまだ足らぬというか! 余はどれほどの神力を失ってしまったというのだ!」
一言主は仮面の下で苦々しく顔を歪めながら叫んだが、相手にしている羅刹天愚の体を覆った灰色の羽毛には神力、呪力、法力、妖力、鬼力と仏力以外のあらゆる特殊な力に抵抗する能力を持っていた。
その代償として羅刹天愚自体の戦闘能力は低いのであるが、道満と晴明の乗り物として利用されている現時点においては、それも問題にはならなかった。
「よくぞ耐えた、天海殿! あとは、俺たちに任せろ!」
羅刹天愚の背中にしがみついた道満はそう言いながら労うように背中を叩くと、羅刹天愚の背中から跳躍した。
「天海殿。先に関ヶ原へ向かい、待機していてくだされ!」
晴明もそう言って鬼の角を手放しながら羅刹天愚の背中から跳躍すると、乗り手を失った羅刹天愚は、"グエエエ"とくぐもった鳴き声を発しながら関ヶ原がある東の方角に飛び去っていった。
「……なにをする気だ、陰陽師ども」
蒼天に浮かぶ太陽を背にして、陰陽師の道着を風にはためかせた道満と晴明の姿を睨みつけた一言主が呟くように言うと、道満と晴明は両手を叩き鳴らして"鬼"の文字が浮かぶ両目を極光させた。
「──絶・陰陽変化──法光赤虎──」
「──滅・陰陽変化──呪光緑龍──」
陰陽師が宙空でかけ声を発した瞬間──道満の全身から赤光する波動が迸り、晴明の全身から緑光する波動が迸った。
迸った波動はうねるようにふたりの体を包み込みながら巨大化していくと、ひときわ強く赤と緑の極光を放つのであった。