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21.一言主の追憶

 葛城山の頂にて、清らかなる湧き水を湛えた泉に向かって、漆黒の衣を脱ぎ捨て褐色の裸体を露わにした一言主。

 背中からはカラスのそれに似た漆黒の大翼が生えており、伸びをするように大きく開いたあと、ゆっくりと閉じて泉へと歩みを進めた。


 しなやかな素脚が透き通った水面に触れ、波紋を作り出して揺らしながら一歩、また一歩、泉の中へと足を運んでいく。

 春の穏やかな陽気と、水のひんやりとした心地良さを肌に感じながら泉の中ほどまでやってきた一言主は、黒い烏天狗の仮面を両手で掴んで顔から外すと、ぷかりと水面に浮かべた。

 素顔を露わにした一言主は、水底が見えるまで純度の高い清らかな泉の水を両手にすくい上げると、顔にかけて流した。


「……ふぅ」


 そうして、一息ついた一言主の肩の横を一匹のモンシロ蝶がパタパタと軽やかに舞った。泉のほとりには、白や黄色の野花が咲き誇り、目に見ても楽しげな景色であった。

 張り詰めていた気を緩め、穏やかな笑みをフッと浮かべた一言主は、腰のあたりまで水に浸かっていた状態から後ろへと倒れ込み、自身の裸体を水面に浮かべた。


 そして、両手を広げ、背中のカラス羽根も大きく広げ、太陽の光を艷やかな褐色の裸体に浴びながら清らかな泉の水面に全身で揺蕩った。

 耳をすませば、かすかに聞こえる鳥のさえずり、心地よい春風が草花や森の木々を揺らす音。そんな葛城山の心休まる春の一時を味わいながら、一言主はゆっくりと紫色の瞳を閉じた。


「……一言主や」


 聞き覚えのないしゃがれ声が不意に耳元に届くと、大きな水しぶきを立てながら一言主は慌てて水面から上体を起こした。

 そして一言主は露わになっていた胸元を咄嗟に背中のカラス羽根で覆い隠すと、水面に浮かんでいた烏天狗の仮面を掴み取って顔に押し当てた。


「かかか。驚かせたか? すまん、すまん」


 満面の笑みを浮かべながら謝罪する見慣れぬ白髪の老人がひとり、泉のほとりに立っていた。


「──この場所を誰の領域と思うて近づいた……この不届き者めが」


 仮面の下から憎悪の顔で睨みつけた一言主に対して、老人は満面の笑みを崩さず右手に持った〈黄金の錫杖〉の金輪をチリンと鳴らした。


「かかか。"古い友人"に対してそのような口の聞き方はないであろうに……ん? それともおぬし……わしが誰だかわかっておらぬのか……?」

「……っ?」


 一言主は仮面の下から老人の姿を凝視した。修験道の白装束に〈黄金の錫杖〉、そして高下駄を履いている。

 この白髪の老人には見覚えはない、しかし、その〈黄金の錫杖〉には確かに見覚えがあった。


「貴様……小角か?」

「くかかかッ、御明察。百年ぶりよのう、我が師匠」


 一言主は唖然とした。眼の前に立つ怪しい老人があの日に友好を交わした黒髪の若い法術師だとはとても思えなかった。

 しかし、役小角の持つ〈黄金の錫杖〉を見やれば、それはまさしく百年前に一言主が貸し与えた"神具"であることは間違いなかった。


「いったい何をしにきた! いまさら、余の前に現れて!」

「いまさら、か──確かにその通りじゃのう……蝦夷地に行くと申して葛城山を去ったのが最後……今の今まで葛城山には来なかった──さすがの女神様といえど、百年はちと長かったかのう?」


 声を荒げた一言主に対して、役小角は飄々として返す。一言主は怒りのあまり飛びかかりそうになるのを堪えながら役小角に対して背中を向けた。

 漆黒の眼を細めた役小角は、そのカラス羽根の生えた褐色の背中を見ながら静かに口を開いた。


「永劫の時を生きる山の女神であるおぬしには、ついぞわからぬであろうが……人間齢百を超えれば、体のそこかしこが常に痛み、もう先は長くないのだと実感させてくるものじゃ」

「……そもそも百まで生きられる人の子は少ない。十分、この世を味わい尽くしたであろう小角……潔く、さっさと死ぬがよい」


 穏やかな声音の役小角に対して、一言主は怒りを隠さずに低い声を発すると役小角はくすりと笑ったあとに〈黄金の錫杖〉を前に突き出した。


「うむ。だが、その前にこの〈黄金の錫杖〉のことがあるでな。これはおぬしからの"借り物"……これを返さなければ、わしは死ぬわけにはいきませぬわいの」


 一言主は顔を横に向けると、ちらりと〈黄金の錫杖〉を見やった。


「ならば、そこに置いて行け……そして、二度と余の前に姿を現すでない」

「かかか。そういうわけにはいかんだろう……百年もの間、この〈黄金の錫杖〉にわしがどれだけ助けられたことか……それに、言ったはずじゃぞ、わしはおぬしのことを師匠じゃと思うておると」


 冷たくあしらう一言主に対して役小角は親しげに告げると、一言主は仮面の下で眉根を寄せた。


「おぬしは、虚無に陥った16のわしに"大空華の法"を見出させてくれた。だからわしは、この歳まで生きて来られたのじゃよ」

「"大空華"などと……死を目前にして、まだそのような夢物語を口にしておるのか……くだらぬ──」


 一言主は不快感を隠そうともせず吐き捨てるようにそう言うと、役小角は満面の笑みを浮かべたまま言葉を続けた。


「"大空華"は、わしにとっての何よりの"希望"じゃよ。そうそう……わしがおぬしの弟子であるように、わしにも弟子が出来たのじゃよ──名を安倍晴明と芦屋道満という。どちらも優秀な"陰陽師"でありますわいの」

「──"陰陽師"? 何だそれは」


 役小角の口から聞き慣れない言葉が出てきた一言主はその言葉を問いただすと、役小角は大声で笑い返した。


「くかかかかッ! 陰陽師も知らぬか! 葛城山から出て来ぬゆえ、相も変わらず、世間知らずだのう……! かかか!」

「ッ……葛城山の女神が葛城山に居て何が悪い! 女神に向かって失礼であるぞ!」


 役小角にからかわれた一言主は、仮面の下で顔を真っ赤にさせながら役小角に向かって振り返り、激昂して叫んだ。


「すまんすまん──いや、なんてことはない。陰陽師とは、京で流行りの呪術師の呼び名じゃよ……晴明と道満、元は互いを呪い合う犬猿の仲であったが、わしを"御大様"などと呼び慕って、互いの結束を強めておるのだ」

「ふん……小角を慕うなど、随分とおめでたい奴らが居た者だな」


 一言主は再び役小角に背中を向けると吐き捨てるように言った。


「そういうでない。今や、この二人の陰陽師の発言によって朝廷の行動は左右されておる──それだけの地位と権力を日ノ本では得ておるのだ」

「心底くだらぬ……小角よ、そなたが百年かけて見出した"大空華"はそんなくだらぬ児戯がなのか……? 百年の人生が聞いて呆れるな」


 役小角の自慢気な言葉を受けて、一言主は辟易したように言葉を発すると、役小角は漆黒の眼を細めてしばし沈黙したあと口を開いた。


「……師匠よ。山を降りて、ともに京へ参ろう。わしが華やかな平安の京を案内してくれるでな」

「何を言い出すかと思えば……断る。さっさと〈黄金の錫杖〉を置いて、余の前から立ち去るのだ」


 役小角の誘いに対して、一言主は突き放すように言って返した。


「その顔も気に食わん……何のつもりだ、その顔面に貼り付けた嘘くさい笑顔は……余の知る小角はそんな顔はしておらぬ」


 一言主はそう言うと、役小角は満面の笑みを少しだけ崩して神妙な声音を発した。


「わしの今生の頼みじゃ……女神を京に連れてきたとなれば、これは日ノ本随一の伝説になり、弟子たちも喜ぶであろう」

「しつこいぞ、小角! 余は葛城山で女神として目覚めてより幾星霜、山を離れたことはないし、離れるつもりもない! なにゆえそなたの語り草のために山を降りねばならぬのだ! 余を愚弄するのもいい加減に──」

「──カサゴ」

「──ッ……!?」


 もはや力づくで山から追い出さんばかりにまで激昂した一言主が役小角に向かって振り返りながら声を荒げると、役小角は一言静かに告げた。


「そう言えば昔、随分と美味そうに食っておったよな? 知っておるかな? カサゴは今の時期が一番美味い。ここに来る前も活きの良いカサゴが京の魚屋に並んでおったのう」

「──……ぐ、ぐぐ─」


 カサゴ、それは役小角との出会いに使われた魚であり、一言主の大好物でもあった。しかし、山の女神にとって海の魚は滅多に食べられるものではなく、山のふもとに住む村人からの捧げ物として極稀に食べる機会が得られるのみであった。


「いや、すまんのう。カサゴ……師匠とは百年ぶりに会うのだから、手土産に持ってきてやればよかった──いや、すまんすまん……それで、〈黄金の錫杖〉は……ここに置けばよいのだったかのう?」

「……連れて行け」


 役小角がわざとらしく頭をかきながら〈黄金の錫杖〉を草の上に置こうとしたとき、一言主が静かでありながらも熱のこもった声を発した。

 その声を聞き受けた役小角は、顔をグッと上げると、細めた漆黒の眼で鋭く一言主を見やった。 


「余を京に連れていけ、小角」

「──喜んで、師匠殿」


 一言主の低い声を受けて役小角は満面の笑みを浮かべながら頷いて返すのであった。

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