4.江戸城の闇
「房州黒アワビ~。安房で採れた極上の黒アワビはいかがかね~」
江戸の城下町で、おたつが天秤棒を担いで威勢よく売り歩いていた。後ろには大きな籠を背負った多五郎が続く。
「姐さん、安房のアワビ買うよ!」
「──あいよぉ!」
居酒屋から飛び出してきた店主におたつが応じ、見事な黒アワビを五杯、店主が持参した桶に移して銭を受け取った。
「いやー、飛ぶように売れるっぺよ」
多五郎が感心して呟くと、おたつは遠くの江戸城を眺めながら腰に手を当てた。
「これはあんたとの"結婚祝い"も兼ねた江戸旅行だからね。商いも順調だし、ふたりできて良かったじゃないか」
そう言いながら振り返ると、多五郎が照れたように頭をかいた。
「ああ……おたつと一緒だと、何もかもうまくいくっぺ」
「当たり前さ。夫婦なんだから」
おたつの言葉に多五郎の顔がほころぶ。一度は別れたふたりだったが、今こうして江戸の町をともに歩けていることが嬉しかった。
「帰りは銭でもっと重くなってるかも知んねぇっぺな」
「ははは! さあ、日が暮れる前にもっと売ろう」
天秤棒を担ぎ直したおたつ、今度は夫婦揃って声を張り上げながら江戸の町を練り歩いた。
一方、江戸城の大天守閣では天下人・徳川家康が家臣による報告を聞き受けていた。
「──ふむ。五郎八姫殿は天守閣を設けることを諦めたのだな?」
「はい。その代わりとして、"仙台城の再建に助力をお願い申す"とのことにございます」
「なるほどのう」
あぐらをかいた家康は扇子で顔を扇ぎながらしばし思案した。
「五郎八姫殿は桃姫殿の親友……桃姫殿は、わしの命の恩人じゃ。可能なかぎりの援助をしよう」
「ハッ!」
家臣が頭を下げて退出すると、家康が遠い目をして呟いた。
「……確か桃姫殿は、故郷の備前に帰ったと聞いたが……まだ備前におるのかのう」
「鬼がいなくなった日ノ本において、桃太郎の娘が果たす役割は消えたのでございましょう」
家康の隣の椅子に腰かけた天海が言うと、家康は横目でその顔を見た。
「……"鬼退治の専門家"は、不要になったと言うことか?」
「いかにも。家康公が日ノ本に招いた天下泰平によって、それが実現したのでございます」
ほほ笑みんだ天海が穏やかな声音で言うと、家康は首を横に振った。
「いやいや天海殿、わしはおぬしの進言に従ったまでのことよ──そうしておれば、秀吉が死に、関ヶ原の合戦が起き、あれよあれよと言う間にわしは天下人となれたのじゃ……感謝しておるぞ、天海殿」
「一介のハゲ坊主ごときにもったいなきお言葉」
天海は頭を下げると、うやうやしく合掌した。
「して、家康公──実は本日、殿に徴用していただきたい逸材が江戸城を訪ねておりましてな……彼らを参謀に加えてくだされば、徳川幕府による国造り、これは盤石の体制が整うこと間違いなしかと」
「ほう! 天海殿にそこまで言わしめる者が日ノ本におるとは知らなんだ。はよう、わしに会わせてくれ!」
「では、早速──道ノ者、晴ノ者……殿がお呼びだ、入られよ」
天海が薄く目を開いて"鬼"の文字を光らせながら告げると、ふすまが開かれて芦屋道満と安倍晴明が大広間に入ってきた。
道満と晴明は大広間を音もなく歩み、家臣団の視線を浴びながら家康の前で拱手した。
「──ただいま天海殿よりご紹介賜りました。芦屋道満の血脈に通ずる陰陽師、名を"道ノ者"と申します──我が力、家康公のために存分に振るわせていただこう」
坊主頭で筋骨隆々、赤い道着の道満が低い声で挨拶し、頭を下げた。
「──同じく、天海殿よりご紹介賜りました。安倍晴明の血脈に通ずる陰陽師、名を"晴ノ者"にございます──我が術、家康公のお役に立てれば幸いにございます」
細面の長い黒髪、緑の道着の晴明が高い声で応じ、同じく頭を下げた。
「面を上げよ、道ノ者、晴ノ者──しかし、道満に清明とな……よもや、伝説の陰陽師に子孫がいたとはつゆ知らず……天海殿、それは確かなのか?」
顔を上げた道満と晴明が、天海を見やって視線を交差させる。
「……道ノ者、晴ノ者。その証明として、殿に陰陽術を披露なさい」
天海が告げると、道満と晴明は道着の胸元に手を差し入れて黒い呪札を一枚ずつ取り出した。
「しかと、御照覧あれ」
「決して、触れませぬように」
そう告げて天井に向かって呪札を放り投げると、両手で印を結びながら矜羯羅童子のマントラを同時に唱えた。
「──オン・バサラキ・タッタリ・ソワカ──」
二枚の呪札が赤光と緑光を放つと、手のひら大の赤虎と緑龍に変化した。
「お、おお!」
家康とその場に居合わせた家臣団が驚きの声を発して瞠目する。
「──ガォオオ──」
「──ギャウウ──」
小さな鳴き声を発しながら宙空を駆け回る赤虎と飛翔する緑龍、その姿を見て思わず家臣団は笑い出した。
「おお、これが陰陽術か」
「子供の遊び相手には、よさそうじゃのう」
家臣団は頭上を吼えながら飛ぶ、赤虎と緑龍の小さな姿を見ながら愉快そうに言った。
「陰陽術は、呪札の枚数に応じて効力が増しますゆえ。一枚ではこの程度なのです」
「ほう、なるほど」
晴明が告げると、家康は感心したように答えた。
「されど、侮るなかれ。たとえ一枚だとしても、我らの手にかかれば、その威力は十分にあります」
「へへ……うちの坊やにも見せてやりたかったな、こりゃ」
道満が話していると、家臣の男が頭上を舞う緑龍に向けて、うかつにも右手を伸ばした。
「──おい、触るなッ!!」
血相を変えて叫んだ晴明。男の指先が緑龍の尾に触れた瞬間、まばゆい緑光とともに小爆発が起こった。
「……あ、ああああ……!」
右腕を失った男は激痛と恐怖で顔を歪め、力なく畳に崩れ落ちた。
その光景を目にした家臣団が騒然となると、数人が駆け寄り、右腕を失った男の体を支えて大広間から足早に去っていった。
「……このように」
騒ぎを横目で見ながら道満が言葉を続けると、"ガオー"と鳴きながら頭上から駆け降りてきた赤虎を掴み取り、呪札に戻して燃やした。
道満の指の隙間からこぼれ落ちる灰を見つめた家康が息を呑むと、天海が咳払いして口を開いた。
「彼らは、長年待っておったのですよ。家康公のような真の天下人が日ノ本に現れるそのときを」
天海の言葉に、道満と晴明は拱手して頭を下げた。
「うむ。この目でしかと見届けた。おぬしらは紛うことなき本物の陰陽師……頼む、徳川幕府にその力を貸してくれ」
家康はふたりに期待の眼差しを向けた。
「では、家康公……彼らと国造りについて相談いたしますゆえ、これにて失礼つかまつる」
「うむ! 道ノ者、晴ノ者、おぬしらの活躍、期待しておるぞ!」
椅子から立ち上がった天海は、白い法衣の裾を引きずりながら道満と晴明の間を抜けるように歩いていった。
「それでは失礼いたします」
「今後とも、どうぞよろしく」
晴明と道満は家康に拱手すると、天海と連れ立って大広間を出た。
陰陽師を引き連れた天海が大天守閣を歩いている最中、剃り上げた坊主頭のうなじから伸びる鬼の角がうずいたが、長く立たせた法衣の襟で隠されており、人目につくことはなかった。
「……貴方がこれほどまで家康に信用されているとはね、正直言って驚きましたよ」
天海と陰陽師が人気のない廊下までたどり着くと、晴明が告げた。
前を行く天海がその言葉を聞いて足を止めると、灰色の"鬼"の文字が光る黄色い目を開いて道満と晴明を横目で見やった。
「すべては"千年天下"のための布石……もう誰にも"三日天下"などとは言わせぬ」
大広間にいた僧正と同一人物とは思えない強烈な鬼の波動を放った天海に、互いの顔を見合わせた陰陽師は不穏な笑みを浮かべるのであった。