3.三日天下の末路
「……こんなはずでは! こんなはずでは!」
14年前の夏──雨降る竹藪の中を明智光秀は泣きわめきながら亡者のようにさまよい続けていた。
本能寺の変を引き起こし、主君である織田信長を打ち倒したまでは順調だった。
しかし光秀に賛同する武将の数は想定よりはるかに少なく、朝廷からも"天下人"ではなく"謀反人"として扱われ、またたく間に窮地へと追いやられた。
結果として、大義を掲げた羽柴秀吉の大軍勢に無惨な敗北を喫し、家臣もすべて失った。かつて織田家随一の智将と謳われた男は今、"三日天下の末路"として薄暗い竹藪の中をひとりさまよっていた。
「……ちくしょう、みな信長が憎いと影では言っておったではないか! わしはみなの期待を背負って天誅を下しただけ……なのになぜ、わしが逆賊にならねばならん……わしは第六天魔王を退治した英雄であるというに……!」
光秀は、まげの解けた白髪交じりの髪を振り乱し、雨と泥で汚れた顔を憎悪に歪めて叫んだ。
「甚さん! 本当にここらで明智の姿を見ただか!?」
「わしゃ見とらんべ! んだが、おまつがこの竹藪にくたびれた男が入り込むのを見たって話だ!」
「こんな雨ん中、竹藪に入るような物好きはおらん! そいつぁ間違いなく明智だ! 首取って一攫千金だべ!」
「んだなっ! 手分けして探すべ!」
鍬と竹槍と鎌を手にした百姓姿の男三人が声をかけ合う中、光秀は濡れた地面に身を伏せて息を殺した。
「……なにゆえ……こんな目に合わねばいかんのだ……わしは、天下人であるぞ……」
光秀は冷たい地面に突っ伏し、泥にまみれながら嗚咽を漏らした。そのとき、ガサッという足音とともに草履を履いた汚れた足が目の前に現れた。
「──見つけたべ……明智」
「ひぃッ」
悲鳴を発した光秀が顔を上げると、歯の抜けた中年百姓が竹槍を向けながら、獲物を前にした猟師のような笑みを浮かべていた。
「逆賊の首、いただくべッ!」
「うぁっ……ああッ!!」
光秀は上ずった叫び声を発しながら、すがりつくように百姓の脚に飛びつき、そのまま地面に引き倒した。
「がぁッ! 暴れるんでねぇ! 大人しく死ぬだッ!!」
「死んでなるものかぁ! こんなところで死んでなるものかァッ!!」
倒れた百姓にのしかかった光秀は、泥にまみれながら鬼気迫る表情で叫んだ。
その騒ぎを聞きつけ、鎌と鍬を持ったふたりの若い百姓が駆けつけてくる。
「甚さん!」
「こいつが明智で間違いねぇべ! かかれっ! 殺せッ!」
「うぉおおッ!」
倒れた甚が光秀の腕を掴んで拘束する中、若い百姓ふたりが雄叫びを上げて迫った。
「ぐッ……ぎぃいいッ!!」
光秀は決死の形相で甚の身体を盾にするように抱え上げた。若い百姓が振り下ろした鍬の一撃が、甚の背中に深々と食い込む。
「んギャアあッ!!」
「ああっ! 甚さんッ!!」
甚は激痛に目をひん剥くと、断末魔の叫びを上げて絶命した。若い百姓は恐れ慄き、鍬から手を離して後ずさる。
「なにやってんだバカたれ! 甚さん殺してどうするだ!」
鎌を握った百姓が罵倒している隙に、光秀は甚の死体を蹴り飛ばして這うように立ち上がり、ふらつきながら逃げ出した。
しかし疲労困憊の光秀はすぐに追いつかれ、錆びた鎌が背中に突き刺さる。
「逃げるんでねぇッ、明智!」
「がぁッ!」
倒れ込んだ光秀は泥だまりに突っ伏した。背中に馬乗りになった百姓が鎌を抜き取ると、血飛沫を散らしながら再び振り下ろす。
「死ねッ! さっさと死ぬだべッ!」
「おぼッ、ごぼぼッ!!」
錆びた草刈り鎌で何度も背中を突かれながら、光秀は泥水に顔を押しつけられて溺れ苦しんだ。
三日間だけ天下人になった男は今、名もなき百姓に嬲り殺されようとしていた。
「…………」
慕っていた甚を誤って殺してしまった百姓が雨に打たれながら呆然とその光景を眺めていると、不意にチリンという澄んだ鈴の音が響いた。
「……っ?」
百姓が背後を振り返った瞬間、至近距離に立つ役小角と目があった。
満面の笑みを浮かべた役小角が右手に携えている〈黄金の錫杖〉の頭を百姓の左胸にスッと当てる。
「──オン」
静かにかけ声を発して〈黄金の錫杖〉を軽く押すと、若い百姓の左胸にぽっかりと大穴が穿たれた。
「……え?」
困惑の声を漏らした百姓は次の瞬間、糸が切れたように倒れ伏し、目を見開いたまま絶命した。
役小角は死体をまたぎ、雨降る竹藪をチリンチリンと〈黄金の錫杖〉を鳴らしながら歩き出す。
「死んだべか? 明智?」
「……ごぶっ……ごぼぶ」
百姓が尋ねると光秀は泥水にあぶくを立てた。光秀の後頭部を憎々しげに睨みつけた百姓は、血に染まった鎌を振り上げる。
「しぶとい奴だなぁ、おめぇッ!」
「──のう、わしの知り合いなんじゃが。そのくらいで勘弁してやってはくれんか?」
百姓の背中に投げかけられた特徴的なしゃがれ声。
「……ッ?」
振り返った百姓が役小角の顔を見た瞬間、その頭が吹き飛んで、竹藪の奥へと転がっていく。
首から上を失った百姓が光秀の背中から転がり落ちて泥水に落ちた。
「かかか。光秀殿、まだ生きとるか?」
役小角が水たまりの前にしゃがみ込み、〈黄金の錫杖〉で光秀の顔を泥水から引き上げた。
「ぐぼっ! ごばっ!」
光秀は血と泥の混じった液体を吐き出しながら、苦悶の表情を浮かべた。
「かかか。すまんのう、もちっとはようきてやればよかった。おぬしが逃げ回っていたせいでもあるのじゃぞ?」
笑った役小角は、白装束の懐から"愚羅"と赤い筆文字で記された小瓶を取り出した。灰色の液体が不気味に発光している。
「本能寺の件は見事じゃった。よもや、本当に実行するとは思わなかったでな──その覚悟、なかなか気に入りましたわいの」
漆黒の眼を細めた役小角は感心しながら呟くと、小瓶の蓋を親指でキュポッと外して飛ばした。
「じゃが、"三日天下"──のう、光秀殿。おぬしの人望が低いことは、わしの責任ではないよな?」
「……がはぁ……ばはぁ」
役小角はからかうように光秀に声をかけた。泥が詰まった光秀の耳にはほとんど聞こえておらず、背中に受けた鎌の裂傷も酷い状態で目は虚ろであった。
「つまるところ、おぬしは"天下人の器"ではなかったということだのう……とはいえ、強引にでも歴史を突き動かそうとしたその野心は称賛に値する──ゆえに、"褒美"をやろう」
役小角は〈黄金の錫杖〉を手元に引き寄せ、近づけた光秀の口を開かせる。
そして"愚羅"の小瓶を差し出すと、鈍い光を放つ灰色の液体を光秀の汚れた口の中に流し込んだ。
「──ごっ……ごクッ」
液体を流し込まれた光秀の喉が受動的に動いて、この世のものとは思えぬおぞましい味の粘液をすべて嚥下した。
「ふん」
満足げに鼻を鳴らした役小角は〈黄金の錫杖〉を光秀の頭から引き抜いた。
支えを失った頭が泥水の中に落ちると、役小角は立ち上がって〈黄金の錫杖〉で地面をつき、金輪をチリンと大きく鳴らした。
「光秀殿。これにておぬしは"愚羅の八天鬼人"となった……その鬼の力、どう使うかは自由じゃ。あとは好きにせい」
役小角は満面の笑みで泥の中に突っ伏す光秀にそう告げると、振り返って雨脚が強くなってきた竹藪を見やった。
そして、軽く息を吐きながら、白い眉毛を眉間に寄せて、小さく口を開いた。
「うーむ。これがバレたら鬼蝶殿に相当怒られるかのう──ま、別によいか。くかかか!」
役小角は深刻に呟いてから一転、開き直ったように高笑いして歩き出すと、煙雨の中に姿を消していく。
そんな役小角の笑い声をかすかに耳に入れた光秀のうなじから灰色の鬼の角がズズズと生え伸びた。
背中の裂傷は血が逆流するかのように治癒していき、新たな皮膚が再生されると、泥水の中に両手を突いて上体を起こした。
「がはッ! ぜぇッ! ぜはぁッ!」
肩を揺らしながら荒い呼吸を繰り返した光秀。黄色く染まった鬼の瞳には、灰色の"鬼"の文字が鈍く光るのであった。