2.修羅巌鬼
伸びをしたまま薄く目を開いた桃姫は、白い満月に向かって伸びる白い煙の存在にふと気づいた。
「……え?」
声を漏らした桃姫は、よく目を凝らして花咲山の向こうに次々と立ち昇っていく白い煙を見つめる。
「──山火事だっ!」
声を上げた桃姫は勢いよく縁側から立ち上がると、鞍を着けていない白桜の背中に手を掛けて口を開いた。
「白桜……! 行くよッ!」
軽快に飛び乗った桃姫に対して白桜がいなないて返すと、桃姫は村の外、赤い鳥居に向かって白桜を疾駆させた。
赤い鳥居を越えて、山道を駆け上り、三獣の祠の前を駆け抜けると、風に吹かれて流れてくる煙の臭いがどんどんと濃くなっていった。
しかし、山道を囲む木々には火の手を確認できず、桃姫はひたすら白桜を走らせて、ついには花咲山の頂上までやってきた。
そして、備前の山々の間に築かれた小さな村、山越村が燃えている光景を目の当たりにした。
夜空に立ち昇った白煙は、山越村と周辺の森の木々とが次々に延焼していることによって生じているものであった。
「……大変だッ!」
目を見張った桃姫は声を上げると、白桜を全力で走らせた。備前の小高い山々を馬体に身を低く寄せて人馬一体となりながら颯爽と駆け抜け、山越村へと素早く駆けつけた。
白桜に跨った桃姫が村の入口にやってくると、数十人の村人たちが着の身着のまま避難している光景が目に飛び込んできた。
「ああ……なんてことだべ……」
「……みんな、みんなおるか……?」
突然の事態に疲弊している村人たち、その中にはへたり込みながら燃える村をただ呆然と見つめる老婆や避難した村人の数を確認する村長らしき男の姿があった。
そんな集団に向かって、桃姫は白桜で近づきながら声をかけた。
「皆さん……! ご無事ですか……!?」
声を投げかけられた村人たちは皆一斉に驚いた表情を浮かべると、白桜とそれに乗る桃姫の姿を見上げた。
「あ、あんた……花咲村の……」
「桃姫と申します! まだ村の中に残っている方はいませんか!?」
心配そうな顔で告げる桃姫の言葉を受けた村人たちは互いに顔を見合わせると、村長が桃姫に向かって口を開いた。
「四人、四人おらん……竹三の一家が全員おらんのじゃ……」
「竹三さん……! その方のお家はどちらですか!?」
桃姫が尋ねると、老婆が震える手で村を指さしながら口を開いた。
「村の一番奥……その右側の家じゃ……」
「……一番奥の右側の家、ですね……わかりました……!」
桃姫は燃える村を見ながら確認するように言うと、白桜を村に向けさせる。それを見た村長が目を見開きながら声を上げた。
「桃姫さん、あんた……そりゃ無茶だ!」
「私の無茶が通るように……アマテラス様に祈ってください──!」
燃え盛る村を睨んだ桃姫は、濃桃色の瞳に浮かぶ神仏の波紋を光らせる。桃色の着物の裾をはためかせながら、白桜を一気に走らせた。
轟々と音を立てて赤く燃える村。森の木々を伐採して生計を立てている山越村は、そこかしこにある材木置場が火勢をさらに強める原因となっていた。
「──白桜、大丈夫? 熱いよね、ごめんね!」
桃姫は息を切らしながら走る白桜の首元を撫でた。それでも村の奥、竹三の家を目指して全力で走らせる。
村の奥に二軒並んだ家屋が視界に入り、桃姫はまだ走っている白桜から飛び降りると、着地と同時に走り出して右側の家、竹三の家に駆け寄った。
竹三の家は飛び火で茅葺屋根が燃え上がり、屋根を支える太い垂木が崩れ落ちて玄関の引き戸を完全に塞いでいた。
その様子を見た桃姫は躊躇なく、炎に包まれた垂木に両手を伸ばした。
「──ぐッ、ォおおッ……!!」
桃姫は瞳の波紋を拡大させながら、大人20人でも持ち上げるのがやっとの大きさの、それも赤々と燃えている垂木を素手で持ち上げて玄関口を開放した。
「……開いた!?」
「あんたは……!?」
垂木によって塞がれていた引き戸がガララッと開け放たれて、中から竹三夫妻とふたりの幼い子供が姿を現した。
「──外に出てくださいッ!! 早くッ!!」
雪駄を履いた両足を踏みしめ、両手で垂木を持ち上げながら鬼気迫った顔で告げる桃姫に促されて家の外に出た竹三一家。
桃姫は四人が出たことを確認してから燃える垂木を手放して地面に落とした。その瞬間、支えを失った竹三の家が猛烈な音を立てながら崩折れてまたたく間に豪火に包まれた。
「ああ……おらの家が!」
「竹三さん……! 奥さんとお子さんと……この馬に乗って、村の外に……!」
桃姫は焼けた両手にジンジンとした激痛を感じながらも白桜を横目で見ながら竹三に言った。
「おら、馬なんて乗ったことねぇ……!」
「そんなこといいからっ!!」
躊躇する言葉を断ち切るように叫んだ桃姫。その鬼気迫る顔を見やった竹三は思わず息を呑んだ。
そして、妻と幼いふたりの子を見ると小さく頷いてから慣れない手つきで白桜の背中に跨った。
妻は子供たちを持ち上げて竹三の後ろに乗せると、子供たちを挟むような形で白桜に乗り、竹三の背中にしがみついた。
「白桜……行って──私は大丈夫だから……ね?」
「──ブルルル」
「いい子だから……! 早く、行きなさいっ!」
四人を背中に乗せた白桜が桃姫の姿を見ながら走るのをためらっていると、声を張り上げた桃姫が白桜の尻を叩いた。
桃姫にけしかけられて高くいなないた白桜は、竹三一家をその背に乗せて山越村の外に向かって勢いよく走り出した。
「さて……私は……どうしようか」
桃姫は遠ざかっていく白桜と竹三一家の姿を見送りながら、轟々と燃え盛る村の奥で、呟くように言った。
両手の激痛に耐えかねて手のひらを見ると、皮膚は真っ赤に焼けただれていた。
「……無茶か……無茶だよね、ほんとに」
桃姫は手のひらから目を逸らし、だらりと腕を下げた。木製の塀越しに見える山越村の外では、森が延焼して赤々と夜空を染めている。
崩れ落ちた竹三の家のわきにある井戸に目をやった桃姫は駆け寄ると、手早く桶に水を汲んでバシャッと頭から被った。
「……私の足なら、森の中を抜けたほうが早いかも」
ずぶぬれになった桃姫は、桃色の長い髪を妖々魔の赤い飾り紐でくくると、木製の塀を蹴り飛ばして人ひとり分が通れる隙間を作り出した。
「アマテラス様──どうか私の体を、炎からお護りくださいませ」
桃姫は強い祈りを込めて声を発すると、意を決して燃える森の中に駆け出した。炎に赤く照らされる夜の森を息を切らしながら突き進んでいく桃姫。
浮き木綿の素材を用いた雉猿狗特製の桃色の着物は不思議と火に強く、水で濡らしたことも相まって桃姫の体を十分に火の手から護ってくれた。
「……道だ!」
燃える森を走り続けた桃姫は、山越村の木こりたちが日常的に使用する小道を森の中に見つけ出すと、燃える木々をかき分けて、火勢の弱いその小道に向けて思いっきり飛び出した。
「──ッ!?」
その瞬間、桃姫の足が止まった。道の先に立つ巨大な影──それは黒い炎に包まれた大鬼の背中だった。
紫色の肌を持つ大鬼の巨体を赤ではない、今まで目にしたことのない漆黒の火炎が轟々と燃やしている。
「──グゥ……グラァ──」
黒い炎をまとった大鬼が桃姫の存在に気づいてゆっくりと振り返ると、桃姫はその顔を見て愕然とした。
「巌鬼ッ──」
忘れもしない──この紫肌の大鬼は、父である桃太郎を殺し、桃姫に地獄を味わわせた、鬼ヶ島の首領・温羅巌鬼であった。
瞠目する桃姫に対して、怨嗟の黒炎に包まれた巌鬼は、鋭い牙が伸びる口を開いた。
「──我ハ修羅……修羅巌鬼ナリ──」
地獄から届いたような低く恐ろしい声を発した修羅巌鬼。桃姫をギロリと見やったあと、再び振り返り、黒炎を森の木々に点火しながらゆっくりと歩き去っていく。
「……巌鬼ッ!!」
燃える大鬼の背中に向けて桃姫は強く叫んだ。修羅巌鬼は漆黒の炎によって形成された、うねる猛火の渦の中に身を投じていく。
渦を巻く黒炎と融け合った修羅巌鬼は、収束していく渦とともに、桃姫の前から姿を消すのであった。