33.鬼退治の専門家
「いろはちゃん!」
「っぐぅ……! 尻尾を、使うな……! この……卑怯者!」
桃姫が声を上げると、五郎八姫は激痛に顔を歪めながら腹部を手で抑え、独眼に涙を浮かべながらうめいた。
「──鬼、私が相手だッ!」
「グルァアア!」
白銀色の波紋を瞳に拡大させながら桃姫が叫ぶと、両手を広げて威嚇するように吼えた羅刹刑部。
「──覚悟ッ!」
桃姫は白銀の波動を全身にまとうと、羅刹刑部に向けて駆け出す。
「……グヌウッ!」
桃銀色の刃を両手に光らせながら迫りくる桃姫に対して、明らかに怯えた様子を見せた羅刹刑部。
「──グラアァアアッ!!」
次の瞬間、羅刹刑部は両脚を屈めると、桃姫との戦いを避けるように大きく吼えながら天高く跳躍した。
「……ッ!?」
まさかの行動に驚いた桃姫は咄嗟に頭上を見やる。
「……飛んだ!?」
「……っ、大谷殿!」
苦痛に顔を歪めた五郎八姫と怯えた表情の秀秋もまた、松尾山の上空を跳躍する羅刹刑部の黒い影を見上げながら声を発した。
「グルルル……」
桃姫の姿を見下ろしながら上空で苦々しげに歯噛みした羅刹刑部は、松尾山の東の斜面に着地すると、関ヶ原東方にそびえる山の頂上を赤目でギロリと睨みつけた。
そして、斜面を蹴り上げて再び力強い大跳躍をすると、松尾山城から遠ざかっていく。
「あの方角は、まさか!?」
その羅刹刑部の行動を見届けた秀秋が声を上げると、桃姫が振り返って秀秋の顔を見た。
「……間違いない! 狙いは家康公だ! 東軍総大将の本陣、"桃配山"に向かっている!」
「"桃配山"!?」
桃姫は白銀色の瞳を見開くと、羅刹刑部が向かった先を見据えた。
「……行かなきゃ」
桃姫は白鞘に二振りの仏刀を収めると、城壁の上を歩き出した。そんな桃姫に向かって五郎八姫が声を投げかけた。
「もも……! 拙者も行くで、ござる……! ぐッ」
物見櫓の柱に身を預けた五郎八姫が立ち上がろうとすると、腹部に激痛が走り、苦悶の表情を浮かべて座り込む。
「いろはちゃんは、ここに残って」
「……でも」
「いろはちゃんッ!」
「く……! わかったでござる……!」
桃姫の必死の言葉を受けて、五郎八姫は歯噛みしながらついていくことを断念した。
「安心して、いろはちゃん──私は、鬼退治の専門家だから」
桃姫は笑顔でそう言って駆け出すと、城壁から颯爽と飛び降りて城門前で待っていた白桜にまたがって素早く駆け出した。
「……もも、信じてるでござるよ」
五郎八姫は物見櫓の柱に寄りかかりながら、灰色の雲がかった関ヶ原の空を見上げた。
「──どう! どう!」
桃姫は声を上げながら白桜を走らせて羅刹刑部の後を追った。
「グウゥウウッ!」
松尾山を下山した羅刹刑部は、この世のものとは思えないおぞましい声を喉奥から発しながら、両手両足を器用に使って獣のように関ヶ原の戦場を疾駆していく。
「な、なんだァ!? 化け物!?」
「──グラアァアアッ!!」
羅刹刑部は合戦のど真ん中に突撃し、敵味方関わらず鬼の爪と牙を振るって虐殺していく。
その姿はまるで、檻から放たれた漆黒の獣が次々と人間を捕食しているかのようであった。
「ガウッ!! ガルゥッ!!」
雑兵たちの血飛沫を宙空に撒き散らしながら、羅刹刑部は桃配山へ向けて猛進する。
「ッ、こんな戦場の中を……!」
桃姫は巧みに白桜の手綱を操りながら、混乱と混沌の渦巻く関ヶ原の合戦場を駆け抜けた。
そのとき、白桜目掛けて一本の矢がどこからともなく放たれた。
「──ドウ!」
桃姫は手綱を強く引いて白桜の胴体を持ち上げ、盛大にいななかせると、すんでの所で矢を回避させる。
興奮した白桜が前足を地面に踏み降ろすと同時に、桃姫は白桜を再び全力で走らせた。
「──怖いよね、でも、もう少し! もう少しだけ走って! 白桜、お願い!」
桃姫は前傾姿勢を取って白桜の体に自身の体を密着させると、血管の張った白い首筋を右手で撫でながら祈るように告げた。
そのとき、白桜の体に着せられた伊達家の家紋入りの馬装を見て桃姫はハッとした。
「……そうだ、私は伊達の女武者……東軍の陣地を通れるんだ!」
桃姫は合戦場のど真ん中を直進する羅刹刑部の血肉で築かれた道を外れると、東軍の陣地が展開されている関ヶ原の南東部に向けて白桜を走らせた。
「忠勝殿ッ! 西の方角から白い馬が走ってきます! いかがなされましょう!?」
「何……戦場に白馬だと? ……あの家紋は……あれは、伊達の馬だッ! 撃つな! 通せ!」
椅子から立ち上がった本多忠勝が、野太い声を発しながら名槍〈蜻蛉切〉を高く掲げた。
「──感謝しますッ……!」
「んんッ……!? ……桃色の髪の、女武者!?」
本多忠勝は、白馬が通ったあとに残された不思議な桃に似た香りを嗅ぎながら、牡鹿の大角が飾られた黒い兜の下で顔に疑問符を浮かべた。
「どうッ……! どうッ……!」
東軍陣地を駆け抜けた桃姫は、桃配山の斜面を駆け上がり始めた羅刹刑部を追いかけるようにして白桜をさらに走らせた。
そしてついに、徳川の葵紋が描かれた大きな陣幕が張られた桃配山の山頂までくると、家康を護ろうと詰め寄せた武者たちを両腕を振るって薙ぎ払いながら前進している羅刹刑部の姿を桃姫は目撃した。
「……ひ……ひぃ、鬼ぃ……!」
怯えた声を発しながら、ふるえる手で弓を構えた若い兵の姿を視界に捉えた桃姫は、白桜で走り抜きざまにその兵から弓と矢を取り上げた。
「──お借りしますッ!!」
そう告げた桃姫は、揺れる馬上で器用に弓の弦に矢をあてがうと、羅刹刑部の赤い眼に狙いを定めて限界まで引き絞った矢を撃ち放った。
放たれた矢はビュオンという凄まじい風切音を立てながら、羅刹刑部の瞳の中央に輝く"羅"の文字にドスッと突き刺さる。
「──ギャォオオッ!!」
羅刹刑部は右目に走った突如の激痛に絶叫すると、武者の亡骸を踏みにじりながら、四つ脚で駆け出す。
そして、勢いそのまま陣幕を引き裂いてその内部に突入した。
「鬼が入ってきたではないかっ! 外の兵どもはいったい何をしておるっ!」
陣内に現れた羅刹刑部の姿を目にして椅子から転げ落ちた家康が軍配を掲げながら叫んだ。
家康の左右に侍っていた鎧武者が一斉に家康の前に移動して長槍を構えるが、その長槍の切っ先は恐怖にふるえていた。
「おぬしら! はやく鬼を退治せよ!」
「う……ウォオオッ!」
家康にけしかけられたふたりの鎧武者は恐怖心を振り払うように雄叫びを発しながら羅刹刑部に向けて突撃する。
突き出された長槍の切っ先は、羅刹刑部の左肩と右胸に突き刺さったものの、羅刹刑部は動じることなく、次の瞬間、重厚な鎧ごと武者の体を鬼の爪で刺し貫いた。
「……あ、ああ……」
「──イエヤス、カクゴ」
鎧武者の亡骸を両腕から落とした羅刹刑部が低い声で告げながら、尻もちをついて後ずさる家康を見下ろして近づく。
「……殺さないでくれ……頼む……!」
「──ガゥルルルッ!!」
羅刹刑部は"悪魔"のそれに似た顔で命乞いする家康を睨みつけながら血濡れた鬼の爪を振りかざした。
そのとき、陣幕を巻き上げながら、桃色の烈風が羅刹刑部の背後に迫った。
「ガォオオッ──!!」
羅刹刑部の巨体が烈風に吹き飛ばされると、陣幕を破りながら外に弾き飛ばされる。
家康が驚愕に目を見開きながら烈風の放たれたもとを見ると、二振りの仏刀の切っ先を前方に突き出して肩で息をする桃姫の姿があった。
「……ハァ……ハァ……!!」
濃桃色の瞳に白銀の波紋を大きく咲かせた桃姫は激しく脈打つ心臓の鼓動を抑えて息を整えると、家康の前に移動した。
「──家康公……私の後ろに……」
放心状態の家康は頷くと、尻を引きずって桃姫の背後に移動する。
「グウラァアアッ!!」
激昂した羅刹刑部が猛獣の吼えを発しながら起き上がると、下半身を回転させ、硬い尻尾を桃姫の顔面に向けて振り払った。
「──ふッ!」
桃姫は瞬時に身を伏せて尻尾の一撃をかわすと、〈桃源郷〉と〈桃月〉の柄を両手で握りしめ、稲妻のような速さで斜め上に向けて斬り上げた。
「──妖々剣術奥義・妖心斬ッ!!」
桃姫の掛け声とともに✕字に斬り裂かれて宙空を舞う羅刹刑部の黒い尻尾。
「ギャギッ──!? ギィイイッ!!」
切断面から黒い血を噴出させた羅刹刑部は、激痛に絶叫しながら地面に倒れ込んだ。
「──悪鬼、死すべしッ!!」
二振りの仏刀を構え直した桃姫は全神経を集中させてそう告げると、地面に崩折れながら怯えた表情を見せて振り返った羅刹刑部と眼を合わせた。
「……グラッ!?」
羅刹刑部から見た桃姫の顔は、己よりも遥かに鬼気迫る顔──恐ろしい"鬼の顔"に見えていた。
「──雉猿狗奥義・双桃獣心閃ッ!!」
双眸を白銀色に染め上げた桃姫は、両手に構えた仏刀を横に倒し、全力で薙ぎ払うように振り払った。
恐怖に怯えた羅刹刑部は、鬼の心臓を二重に切断されると、口から黒血を吐き出して絶命した。
眼前で繰り広げられた壮絶な鬼退治の一幕に、家康は体をふるわせながら何とか声を発した。
「……お、おぬし……何者じゃ……」
白銀の波紋を縮小させ、濃桃色の瞳に戻った桃姫が仏刀についた鬼の返り血を振って払うと、家康を見ながら告げた。
「私の名は桃姫、伊達の女武者──そして、鬼退治の専門家です」
「……もも、ひめ」
家康は畏敬の念とともにその名を呼ぶと、桃姫は静かに頷いた。
「……ッ」
不意に関ヶ原から嫌な気配を感じ取った桃姫が陣幕から抜け出すと、桃配山の山頂から関ヶ原の戦場を見た。
「……鬼虫!?」
そこで桃姫が目にしたのは関ヶ原の空を覆うように飛び交った鬼虫の群れ、そして、笹尾山のふもとに描かれた巨大な五芒星の陣であった。
「白桜、行くよ!」
桃姫は両眼を見開いて叫ぶように言うと、白桜を呼び寄せて颯爽と騎乗し、即座に駆け出して桃配山を降っていった。
「……はぁああ……」
家康は地面に尻もちをついたまま声を漏らすと、隣で息絶えている羅刹刑部の屍をちらりと目にして、顔を引きつらせるのであった。