25.羅刹変化──羅刹大蛇
日が沈みかけた猪苗代湖の湖畔にて、顔を血に染めた鬼波姫はざぶざぶと水の中に歩みを進めていく。
湖面は夕焼けによって赤く染まり、それはまるで地獄の底に広がる血の池のように見えた。
「大おば様!」
鬼波姫が横目で背後を見ると、浮き木綿から飛び降りた五郎八姫と桃姫が駆け寄ってきた
「いったい何を考えているでござる!? 拙者は、伊達女として強く生きるあなたのことを尊敬していたでござる! 父上殿もそうでござった! それなのに、なにゆえそこまで伊達の血を忌み嫌うのでござるか!?」
「いろは……私の味わった苦しみ。あなたには到底理解などできないわ……私とあなた、根底から価値観が異なっているのですよ」
懸命に訴える五郎八姫に対して、虚ろな目を浮かべた鬼波姫は、紅に染まる磐梯山の山肌と揺れる猪苗代湖の水面を見ながら告げた。
「あなたが生まれた日、私は仙台城まで祝いに行きました……そのとき、政宗が言ったわ……"ごろはちには、男児として生まれて欲しかった"と……ふっ、なるほど。それを思えば、あなたも政宗の被害者かもしれないですね」
鬼波姫は苦笑すると、赤い水面を背にしながら振り返り、五郎八姫と視線を合わせた。
「ですが、あなたは蘆名を攻め滅ぼした憎き政宗の娘……あなたの"存在"もまた、私は許容するつもりはありません」
「……ッ!」
ゾッとするような怨嗟の眼差しに息を呑むふたり。鬼波姫はゆっくりと両手を広げて掲げると、猪苗代湖と磐梯山を掲げ持つようにして目を閉じた。
「──八天鬼人・鬼波姫──」
そして、青い"鬼"の文字が光り輝く黄色い瞳をカッと見開くと、宣言するように告げた。
「──羅刹変化・羅刹大蛇──」
鬼波姫が告げた瞬間、その瞳に浮かぶ"鬼"の文字が"羅"の文字に転じると、西の地平に太陽が完全に沈んであたり一面が夜の帳に包まれた。
そして一瞬の静けさの後、湖面から怒涛の勢いで巨大な水柱が噴き上がり、鬼波姫の体を容赦なく飲み込んでいく。
「うぁアア!!」
「いろはちゃん、下がってっ!」
たじろいだ五郎八姫の肩を引っ張って桃姫が引き下げると、巨大な水柱の内側に黒い影が現れた。
噴き上がった水柱が崩れていくと同時に、その内部から長大な黒蛇──羅刹大蛇がその異様を現した。
妖しく光る六つの青い目を次々に見開いた羅刹大蛇は、鋭い牙と長い舌を見せつけながらふたりに向けて威嚇の声を張り上げた。
羅刹大蛇はグッと頭を引き下げると、その頭頂部から上半身を生やした鬼波姫が姿を現した。
「──いろは。これから奥州で起きる"死滅"を止めてみなさいな……愚かなあなたに出来るものならね! あははははッ!」
青光する〈七支刀〉を左手に握りしめ、瞳に浮かぶ"羅"の文字を爛々と青く光り輝かせた鬼波姫が、高笑いしながら羅刹大蛇の長大な体をくねらせて湖面を強烈に叩きつけた。
その衝撃で猪苗代湖の水面が大波を打って暴れ狂うと、五郎八姫と桃姫に向かって巨大な津波と化して襲いかかった。
「うわアア!!」
「きゃああ!!」
そのとき、大浮き木綿が颯爽と飛来してふたりを回収すると、上空へ連れ去った。
「──ほっほっほ。こいつはずいぶんと見事な"変化"をしたもんじゃのう……あれが"超常なる鬼の力"というものか」
「……あ、ああ」
「ぬらりひょんさんっ」
"大浮き木綿"の上で尻もちをついたふたりが、感心したように告げるぬらりひょんの背中を見た。
「おぬしら、無事か?」
ぬらりひょんは笑みを浮かべながら振り返ると、大浮き木綿に座る夜狐禅を白濁した眼で見た。
「のう、夜狐禅よ。おぬしも本気を出せばあれくらいデカく"変化"できんものか?」
「……無茶言わないでください、頭目様」
ぬらりひょんの発言に言って返した夜狐禅。五郎八姫と桃姫はようやく立ち上がると、猪苗代湖を跋扈する羅刹大蛇を見下ろしながら五郎八姫は眉根を寄せた。
「さっきの津波を見て、大おば様がやろうとしていることが何となくわかったでござる……"国流し"──おそらくは、磐梯山に猪苗代湖の津波を当てて……山の向こう側──奥州に向けて、"山津波"を引き起こすつもりでござろう」
「"山津波"とな。なるほどのう、山と水……自然の力を用いて奥州を一網打尽にしようというわけか」
五郎八姫の言葉に白濁した眼を細めながらぬらりひょんが唸ると、桃姫が口を開いた。
「私、止め方なら知ってるよ……"本体"を倒すんだよ」
羅刹大蛇を見やった桃姫が濃桃色の瞳に力を込めながら告げると、五郎八姫は息を呑んで桃姫の顔を見た。
「それはつまり……あの巨大な大蛇ではなく、頭部にいる大おば様の方を倒す──そういうことでござるか?」
「うん……いろはちゃんの刻命刀なら、できるよ」
桃姫は五郎八姫が左腰に携える〈氷炎〉の黒鞘を見ながら言った。五郎八姫は〈氷炎〉を黒鞘から引き抜くと、蒼銀色の刃を月光に反射させる。
「……いろはちゃん、その刀の前の持ち主はね──」
「桃姫、余計なことは言わんでよい」
桃姫の言葉を遮ったぬらりひょん、しかし桃姫は首を横に振ると言葉を続けた。
「私の師匠だったんだ。妖々魔師匠は生前、いろはちゃんに斬られて妖怪になったの」
「なッ!?」
「言わんでもよいことを……」
桃姫の言葉を聞いた五郎八姫は愕然と目を見開き、ぬらりひょんは呆れたようにため息をついた。
「覚えてるかな。私が仙台城に着いたその日、いろはちゃんと初めて剣の手合わせをしたでしょ? そのとき、わかったんだ……ああ、この娘が師匠を妖怪にしたんだって」
「それは、何と言うか……申し訳ござらん!」
笑みを浮かべながら語る桃姫に対して、五郎八姫は叫ぶように謝罪すると頭を下げた。
「違うよ、いろはちゃん。私は謝ってほしくないし、師匠もいろはちゃんを恨んだりなんてしなかった……師匠からいろはちゃんの手にわたったその刀は、まさしくいろはちゃんのための刀なんだよ」
「あいわかった。拙者、妖々魔殿が託したこの"破邪の剣"にて、大おば様に引導を渡す覚悟にござる」
「うん」
決心を固めた五郎八姫の言葉を聞いて桃姫は頷いた。ぬらりひょんはその光景を見ながら目を細めると、猪苗代湖で暴れる黒蛇の巨体を見やった。
「さて……この浮き木綿でどれだけ近づけるか。試してみるかの」
ぬらりひょんは大浮き木綿に意識を向けると、羅刹大蛇に向けてビュンと加速させた。
上空から接近する大浮き木綿を睨みつけた鬼波姫が〈七支刀〉を大きく振るうと"水流の刃"が刀身から放たれた。
「ぬッ!? おぬしら、掴まれ!!」
「わぁアア!!」
迫りくる"水流の刃"を目にして声を上げたぬらりひょんは"大浮き木綿"をひるがえすと、間一髪でかわして羅刹大蛇から距離を取った。
桃姫と五郎八姫、夜狐禅が必死でしがみついて振り落とされるのを何とかこらえると、ぬらりひょんは羅刹大蛇と鬼波姫の姿を見下ろす。
「浮き木綿で近づくのは無謀じゃな……もっと速く近づかねば、撃ち落とされてしまうか……うーむ、そうだのう」
ぬらりひょんは唸ると、夜狐禅を見やった。
「……え?」
視線を受けた夜狐禅が声を上げると、ぬらりひょんはにんまりとした笑みを浮かべながら口を開いた。
「おぬしの"夜狐変化"は、"羅刹変化"ほどデカくないし強くもないが──べらぼうに速い。そうじゃな?」
「……えっと……そう言われた僕は、喜ぶべきなのでしょうか?」
夜狐禅が困惑していると、ぬらりひょんは桃姫と五郎八姫を見た。
「おぬしら、夜狐禅の背に乗れい」
「えっ!?」
「はっ!?」
「──真眼妖術・真眼ぬらり──」
ぬらりひょんは両眼を閉じると、ハゲ頭に紫光する四つの"真眼"をカッと見開いた。
「はよせい。もたもたしておると、奥州が流されるぞい」
「……っ」
羅刹大蛇は猪苗代湖を満たす莫大な量の水を"波羅の八天鬼術"で宙空に巻き上げると、巨大な大津波を引き連れながら、磐梯山に向かって這い進んでいた。
その光景を目にした夜狐禅は覚悟を決めると、桃姫と五郎八姫に向けて告げた。
「お役に立てるなら、どうぞ僕の体をお使いください──夜狐変化──!」
両手を合わせて唱えた夜狐禅の体が黒狐の妖狐へと変化する。漆黒の毛並みは月光を反射して銀色にも見えた。
「わ、久しぶりに見た。夜狐禅くんのその姿」
感嘆の声を上げる桃姫の前に夜狐禅はその身を下げて座ると、背中への騎乗をうながした。
「この姿になると人語を話せなくなるでござるか?」
五郎八姫が尋ねると、夜狐禅は"グルルル"と喉を鳴らして返した。
「いろはちゃん、"乗ってください"って言ってるよ……乗ろうよ!」
「わかるでござるか、もも!?」
「なんとなくね!」
桃姫は笑顔で言うと、夜狐禅の背中に軽やかに飛び乗った。緊張の面持ちを浮かべた五郎八姫も怖ず怖ずとその後ろに騎乗するのであった。