19.曇天雷鳴
白銀色の巨大な火の玉と化した羅刹般若から距離を取った桃姫は、鬼蝶の最期を黙って見届けた。
その濃桃色の瞳の中央には、わずかに白銀の波紋が浮かぶのみで、全身にうねるようにまとっていた"闘気"もまた消え失せていた。
"仏炎"は鬼蝶と羅刹般若を浄化するように燃やし尽くし、白い灰だけを残して夜空へと霧散した。
政宗に寄り添う五郎八姫が潰された右目から血を流しながらその光景を見届ける中、桃姫は灰の中にただ一つ、翡翠色に光る物体を見つけた。
「……雉猿狗」
桃姫は呟くと灰の前にひざまずいた。両手でかきわけ、雉猿狗の魂──〈三つ巴の摩訶魂〉を丁寧にすくい上げた。
手にした〈三つ巴の摩訶魂〉は、雉猿狗の胸奥に浮かぶそれに触れたときとは打って変わって"太陽の熱"を失っており、くすんだ鈍い色をしていた。
「……う、ううっ!」
「…………」
桃姫は顔を伏せると、嗚咽を漏らしながら白い軽鎧を着けた胸元に〈三つ巴の摩訶魂〉を抱き入れた。
その様子を五郎八姫が呆然と眺めていると、政宗が腕を掴んで呼びかけた。
「……いろは……」
五郎八姫が見やった政宗は、自身の右目に巻かれた眼帯を外しており、その眼帯を五郎八姫に差し出す。
「……父上殿」
羅刹般若に潰された右目から血を流す五郎八姫は、政宗の眼帯を受け取りながら声を漏らした。
「いろは──今この時より、お前が伊達の当主だ……これからはお前が、伊達家を率いるのだ……よいな?」
政宗の口から発せられる掠れた声音は、彼の"命の灯火"が間もなく消えることを五郎八姫に否応なく感じ取らせた。
「父上殿……っ」
五郎八姫は受け取った眼帯を右手で固く握りしめると、左手で政宗の手を握りしめた。そして、右目から赤い血を左目からは涙を流した。
「いいか、心して聞け──桃姫は、日ノ本の希望だ……これから先、どのような苦難が待ち受けていようとも……お前は常に"桃姫の刀"となるのだ……」
「はい……! はいっ……!」
政宗は力なくかすかに開いた独眼で五郎八姫の顔を見ながら告げると、五郎八姫もまた独眼で政宗の顔を見つめながら頷いて声を返した。
「……いろは、お前はもっと強くなれる……この俺がそう信じている……そのことを、決して忘れるなよ……」
「──ッ!!」
政宗は握り返していた手から力を失って目を閉じ、息を引き取る。五郎八姫は政宗の手を強く握りしめ、慟哭した。
「──嗚呼ぁああッ!!」
〈三つ巴の摩訶魂〉を抱きしめて泣く桃姫と、政宗の亡骸に縋る五郎八姫。
燃える仙台城を背景に、ふたりの少女が背中合わせで慟哭した。
そのとき、大気をふるわす雷鳴が天に轟くと、堰を切ったような大雨が地上に向けて降り注いだ。
大切な人の死を前にして泣き続けるふたりの少女の声は、雷鳴と雨音に無情にもかき消されていくのであった。
それから三日後──あの日から続く曇天雷鳴の鈍色の空の下、藍色の和傘を差した桃姫と五郎八姫は瑞鳳殿の前に立っていた。
政宗が生前に建てた霊廟・瑞鳳殿。黒と金で彩られた豪奢な造りの大扉の奥で、伊達政宗は荼毘に付されていた。
「…………」
周囲に雨音だけが響く中、桃姫と五郎八姫は互いに黙って瑞鳳殿を見つめていた。最愛の人を失ったあの日から言葉数が少なくなっていた。
藍色の和傘を左手から右手に持ち替えた五郎八姫が、ふと左目の独眼で、左隣に立つ桃姫の首に赤紐を通して掛けられた〈三つ巴の摩訶魂〉に視線を向けた。
五郎八姫の視線に気づいた桃姫は、かつてぬらりひょんの館にて雉猿狗が浮き木綿を素材にして繕った桃色の着物の胸元に吊るされた〈三つ巴の摩訶魂〉に手で触れながら口を開いた。
「……雉猿狗の熱を、感じたんだ」
桃姫の静かな言葉を受けて、政宗の眼帯を右目に巻いた五郎八姫が桃姫の横顔を見やった。
「……鬼蝶を燃やしている時ね……太陽の熱……雉猿狗の熱を、確かに手のひらに感じたんだ──雉猿狗はまだ、この〈摩訶魂〉の中にいる……死んでなんかいないって……私はそう、信じてるんだ」
白銀色の波紋を濃桃色の瞳に浮かばせた桃姫はそう告げながら〈三つ巴の摩訶魂〉を固く握りしめた。しかし、円を描くように三つ並んだ翡翠の宝玉はひんやりと冷たく、雉猿狗がその体内から放っていた太陽の熱、"命の熱"は感じ取れなかった。
「……拙者も……拙者も、父上が本当に死んだとは、思ってないでござる……だって、あの天下無双の伊達政宗が死んだなんて──そんなのは、質の悪い冗談でござろう……?」
「……そうだね……」
五郎八姫は、伊達家の金色の家紋が装飾された瑞鳳殿の閉じられた黒い大扉を見ながら言うと、少しだけ笑みをこぼしながら桃姫に問いかけた。
桃姫もまた、政宗の豪快に笑う顔を思い出しながらほんの少しばかり笑みをこぼして頷いて返すと、五郎八姫は力強く頷いて、そして瑞鳳殿を見上げた。
「だから、父上不在の間だけ……拙者は伊達家の当主を務めるでござる。それで、いつの日か……笑いながら現れた父上殿に、当主の座を返すのでござるよ」
「……うん」
降りしきる雨の中、和傘を差した桃姫と五郎八姫が静かに言葉を交わしていると、"キィー"という甲高い鳴き声と共に一羽のハヤブサが灰色の空から舞い降りてくる。
「あっ──梵天丸……!」
五郎八姫が空を見上げて言うと、伊達政宗の愛鳥である青い目をしたハヤブサの梵天丸が五郎八姫が差し出した腕に止まって"キィキィ"と鳴いた。
「おぬし、今までどこに行ってたでござるか……?」
「……っ」
五郎八姫が梵天丸の頭を指先で撫でながら声を掛けていると、梵天丸が飛んで来た方角に向けて伸びる参道から、一本の番傘を差した二人の影がこちらに向かって歩いて来ていることに桃姫が気づいた。
煙雨の中に霞んで見える同じ背格好の二人の影だが、片方は番傘の代わりに杖をついており、そのハゲた頭部は異様にふくれあがっていた。
「……っ、ぬらりひょんさん、夜狐禅くん……っ」
目を凝らした桃姫が声を上げると、梵天丸とたわむれていた五郎八姫も近づいてくる二人の妖怪の姿に気づいた。
こげ茶色をした番傘を差した夜狐禅が、ぬらりひょんの頭がはみ出て濡れないように気をつけながら瑞鳳殿の前まで歩いてくると、桃姫が一歩前に出てから話しかけた。
「……ぬらりひょんさん。鬼ヶ島では助けて頂いて、ありがとうございました……私を逃がしたあとは、大丈夫でしたか……?」
あの日の出来事を思い出しながら、桃姫が心配そうに尋ねると、ぬらりひょんは軽く鼻で笑いながら口を開いた。
「わしを誰だと思うておる──奥州妖怪頭目ぞ……あのような妖に片足突っ込んだ"怪僧"など屁でもないわい」
ぬらりひょんは桃姫の心配に対して飄々とした態度で答えて返した。桃姫は"怪僧"──役小角の顔を鬼ノ城で見てはいないが、ぬらりひょんが何かと部屋の中で戦っていることだけは廊下で聞き取れたのであった。
ぬらりひょんの言葉を聞き受けた桃姫は安堵しながら静かに頷くと、ぬらりひょんの隣で眉根を寄せた夜狐禅が大きなハゲ頭を見ながら口を開いた。
「本当にそうでしたか……? 体を鎖で固められて危うく壺の中に封じられそうになっていたところを、夜狐になった僕が間一髪で救出して、窮地を脱していたような」
「こら!! 余計なことは言わんでよい……! ……とにかく、わしらは問題ない……しかし──」
ぬらりひょんはぴしゃりと夜狐禅を叱りつけたあと、杖を握る手に力を込めながら瑞鳳殿を見上げて静かに告げた。そして深くため息をつくと、ザァッと雨脚が強まって重い沈黙が四人を包みこんだ。
ぬらりひょんと夜狐禅、桃姫と五郎八姫がそれぞれ目を伏せながら雉猿狗と政宗に対して黙祷を捧げていると、不意にぬらりひょんが白濁した眼を見開いて背後に伸びる人影のない参道を睨みつけながら振り返った。
「……何奴ッ!!」
鬼気迫る顔つきで声を張り上げたぬらりひょんが、杖頭を引き抜いて中に仕込まれた白刃を曝しながら素早く構えると、煙雨の中から黒装束に身を包んだ三人組が音もなく姿を顕して、石畳の上に片ひざをついた。
「──失敬。驚かせるつもりはござりませぬ」
片膝を突いた三人のうち真ん中の男が顔を上げてそう告げると、五郎八姫が独眼を見開いた。
「ぬらりひょん、心配ござらぬ! 彼らは、父上に仕える忍び衆でござる!」
「如何にも。政宗公の懐刀、黒脛巾組にございます。首飾り、腕飾り、耳飾り──それぞれ暗殺、破壊、情報を司っております」
真ん中の男・首飾りがそう告げると、左右の男女、腕飾りと耳飾りも深く頭を下げた。
三人とも忍び特有の黒装束で身を包みながらも、冠した名前を体現するかのように、それぞれ伊達の家紋が彫られた"金の首飾り"、"金の腕飾り"、"金の耳飾り"を身につけていた。
「鬼による襲撃の折、300を超える鬼との戦いにその人員を割かれ、肝心の政宗公を護るという職務を果たせず……我ら、無念の極み」
「……かたじけない」
「……申し訳ございませぬ」
首飾りの沈痛な言葉を受けて、腕飾りと耳飾りも頭を下げて五郎八姫に陳謝した。
「本来なれば、己が命を捨てて贖罪と成すべきところ……しかし、伊達家当主は五郎八姫様へと代わり、今や我らの命はあなた様の手中にございまする……ゆえに今一度、我らにご命令くだされ──ここで腹を切れと」
「……そういうことでござるか」
首飾りの真摯な言葉を受けた五郎八姫は深く息を吐きながら答えて返すと、片膝をついて参道に並ぶ黒脛巾組の前に立った。
藍色の和傘を差した五郎八姫は、ずぶ濡れになって跪く三人の姿を見回すと、おもむろに腕に乗った梵天丸を空中に放った。
「……ッ」
三人は思わず梵天丸が飛んでいく様子を見上げて目で追うと、不思議なことに梵天丸が飛んでいった先の雲が割れ、黄金に光り輝く陽光が瑞鳳殿に降り注いだ。
「──今、梵天丸は雲を割るという仕事を果たしたでござる……しかしておぬしらは、いつまでそこで暇を潰しているつもりでござるか?」
「……っ、ハッ!」
三人は陽光に輝いた五郎八姫の顔を見上げて息を呑むと、頭を下げ、一声発してから即座に立ち上がった。
「今すぐ任に当たらせて頂きまする……御当主様!」
首飾り、腕飾り、耳飾り共々、五郎八姫に向かって拱手をした。
そのとき、ひとりの女忍びが走り込んできて、耳飾りに向けて耳打ちすると、耳飾りは血相を変えた。
「御当主様……! 行方をくらましていた阿南姫様が、須賀川城に現れ、城を占拠したとのことでございます……!」
「……ッ!? 阿南の大おば様が……!?」
耳飾りの報告を受けた五郎八姫は驚愕すると、首飾りと腕飾りが互いの顔を見合わせて頷き合い、すぐさま瑞鳳殿の参道から駆け出す。
桃姫とぬらりひょん、夜狐禅は五郎八姫のふるえる背中を見ながら、ただならぬ事態が起きたのだと察したのであった。