9.桃太郎
自宅に戻った桃太郎が手早く着替えを済ませて家を出ると、村長の老婆と鉢合わせした。
「こんにちわ。いい天気ですね」
桃太郎が挨拶すると、村長は浮かない顔で答えた。
「……ああ、桃太郎さん。こんにちわ」
その様子を見た桃太郎は村長の前に立ちはだかった。
「──なにかお困りですか?」
「うあっ」
前方を桃太郎に塞がれた村長は驚きの声を漏らすと、眉を曇らせながら桃太郎の顔を見た。
「……いや、お小夜の具合がね。今朝からだいぶ、悪いんだよ」
「お小夜さんが!?」
桃太郎は同い年の少女の顔を思い浮かべながら声を上げた。
「医者を呼んできてくれと村のもんに頼んだけど、いつになるやら……うちに見舞いにくるかい?」
「はい!」
答えた桃太郎は村長の家へ向かった。そして、奥座敷で布団に横たわり、苦しそうに呼吸をしている小夜の姿を見た。
村長は奥座敷に通じるふすまを静かに閉めると、ちゃぶ台の上に冷えたお茶が入った湯呑みを用意しながら桃太郎に告げた。
「今は落ち着いてるけどね、今朝は本当にひどかったんだよ。喉から血が出るんじゃないかってほど、強い咳を続けてね」
「…………」
心配そうな顔を浮かべた桃太郎は村長に座るように促されると、座布団に座った。
「桃太郎さんも知っての通りね……お小夜は、血のつながった娘じゃないんだよ」
「……はい」
対面する座布団に座った村長の言葉に頷いた桃太郎は、冷たいお茶で乾いた喉を湿らせた。
「まったく、ひどい親がいるもんだ……どしゃぶりの山に赤子を捨てるなんて。そのせいで、お小夜は肺が弱ってしまったんだ。医者が言うには、完治しないってさ……」
「…………」
悔しげに告げる村長の言葉を、目を伏せた桃太郎が黙って聞いていたそのとき、静かにふすまが開かれ、桃太郎と村長はハッとしながらそちらを見やった。
「……桃太郎さん……いらっしゃられていたのですか」
やつれて青白い顔をした小夜が寝間着姿でふすまにもたれかかり、掠れた声で告げた。
「お小夜さん、寝ていてください」
慌てて立ち上がった桃太郎が小夜の前に立つと、咳き込んだ小夜は咄嗟に手で口を覆った。
「こほっ、けほっ……ごめんなさい、うつってしまうかもしれないのに」
「お小夜! 医者が何度も言ってるだろう、それはうつるもんじゃないんだよ」
小夜の言葉を村長がたしなめた。桃太郎は小夜の細い肩にそっと手を置くと、その顔を見つめながら静かに口を開いた。
「村長さんの言う通りそれはうつる病ではないし……それに僕は人一倍体が強いから、お小夜さんの助けになりたいんです」
「……桃太郎さん、どうして……そんなに私にやさしくしてくださるのですか……私なんて、どこからやってきたのかもわからない、村のみんなに迷惑ばかりかけるような」
「お小夜さん!」
瞳に涙を浮かべ、ふるえる声で告げる小夜の言葉をさえぎった桃太郎。両肩に置いた手に熱を込めると、小夜の顔を力強く見つめた。
「僕は、お小夜さんがほほ笑んでいる顔が昔から好きなんです。だからもっと、お小夜さんの笑顔が見たい……それが理由じゃだめでしょうか」
「……っ」
小夜は青白い頬を赤らめると、見つめ合うふたりの様子を見ていた村長が「ふん」と鼻を鳴らしてから口を開いた。
「お小夜や。桃太郎さんの言葉、しっかり受け取ったかい? だったら今は休んで、また桃太郎さんに笑顔を見せてやんな……ね?」
「……はい、母上」
村長の言葉に小さく頷いた小夜は両肩から手を離した桃太郎の濃桃色の瞳をじっと見つめたあと、奥座敷に戻って桃太郎にお辞儀をした。
「桃太郎さん……また」
「うん……また」
互いの目を見つめながらそう告げ合うと、小夜はふすまを静かに閉じた。
小夜の見舞いを終え、村長に別れを告げた桃太郎は、桶をもらいに大通りに建つおはるの桶屋へと向かった。
「お、坊主。どうや、貝掘りの調子は?」
「はい、たくさん取れてます。これ以上入らないくらい」
椅子に腰かけながら店先で桶を作っていた三郎に、桃太郎は両手を大きく広げながら答えて返した。
「ええね。貝の酒蒸し、楽しみや」
「はい、なので次の桶をお願いします」
「よっしゃ。ほんなら……こいつを持っていきな」
三郎はひざを叩いて椅子から立ち上がり、店内に立てかけていた巨大な風呂桶を持ち上げ、桃太郎の前に運んできた。
「こいつが一杯になるまで、貝という貝を掘り尽くすんや」
「……ちょっと、大きすぎません?」
「なに言うとんねん、大きいことはいいことや。ほれ、おはるが待ってるんやろ、はよ持っていったれ」
三郎から差し出された風呂桶を桃太郎が両手で抱きかかえると、背後から呑気な声が投げかけられた。
「あ~、桃太郎兄ちゃん。なんか、大変なことになっとる~」
「……おかめちゃん」
その声の主は、短い眉毛におかっぱ頭の、桃太郎より2歳年下のおはるの妹・おかめだった。
「貝掘りが順調でね……そうだ、おかめちゃんもくる?」
「ん~ん、うちは桶作りの手伝いせんといけんから。でも夕方になったら、おとんと海まで迎えにいくよ~」
「わかった……じゃあ、いってくるね」
「転ばんように、気ぃつけてな~」
おかめの気の抜けた声を背中に聞きながら、風呂桶を抱えた桃太郎は表門を抜け、海岸へと向かった。
砂浜につながる砂丘が近づいてきたそのとき、今まで聞いたことのないおはるの悲鳴が桃太郎の耳に届いた。
「いややッ! 離してッ! イヤァッ!」
「……ッ!?」
桃太郎は慌てて風呂桶を放り投げると、小高い砂丘を両手両足を使って駆け登った。
「……あ!?」
砂丘の上から見た光景に桃太郎は絶句した。紺碧色の肌をした大鬼とその右肩に担がれてもがきながら絶叫するおはるの姿。
「勝ち気で健康な女……悪くない。温羅様もお喜びになろう」
「助けて! いやァッ!」
「わめくな、女」
大鬼は暴れるおはるの体を筋肉の張った右腕で強く締めつけると、砂浜を鬼の大足で踏みつけながら歩き出す。
「──おはる姉ちゃんッ!」
桃太郎は砂丘を駆け下りると、おはるのもとへ一目散に駆け寄った。
おはるは近づいてくる桃太郎の姿を視界に捉えると、涙を湛えた黒い瞳を見開いた。
「桃太郎ちゃんっ!? あかんッ! きたらあかんッ!」
「なんだ、このガキは」
「離せッ! おはる姉ちゃんを離せぇッ!!」
桃太郎は砂浜に置いていた草刈り鎌を走りながら拾い上げると、大鬼のふくらはぎめがけて叩きつけた。
「ぐあっ!」
しかし、14歳の少年が振るう鎌の刃が大鬼の強靭な肌を通るわけもなく、桃太郎は弾かれた勢いで砂浜に激しく尻もちをついた。
「この八天鬼・波羅様に楯突くとは……よほど死に急いでいるようだ」
紺碧肌の大鬼──鬼ヶ島が誇る八天鬼の一体である波羅が低い声を発しながら振り返り、黄色い眼光で桃太郎を睨みつけた。
「……あ、ああ」
恐ろしい鬼の睨みを受けた桃太郎の全身に戦慄が走り、恐怖で激しくふるえ出す。
「桃太郎ちゃん! もうええ、逃げ! 逃げや!」
波羅の右肩に担がれたおはるが泣き叫び、桃太郎に向けた両足をバタバタと暴れさせた。
「……姉ちゃん……おはる姉ちゃん……」
ふるえる声を発した桃太郎は、黄色い鬼の目を光らせた波羅と視線を合わせた。
「愚かなガキほど早死にする──八天鬼術・水掌汀波」
桃太郎に左手のひらを向けた波羅が静かに鬼術を詠唱した。
分厚い鬼の手の前面に"水壁"を作り出すと、桃太郎に向けて張り手のようにダンッと突き出した。
「……っ」
桃太郎は高速で迫りくる"水壁"に顔を引きつらせると、全身に"水壁"を浴びた。
激しい水音を立てて"水壁"が破裂すると、桃太郎は強烈な衝撃を受けて背中から倒れ込んだ。
「桃太郎ちゃん!?」
破裂音を耳にしたおはるが叫ぶも、桃太郎の反応はなく、水に濡れて黒く染まった砂浜に倒れ込んだまま沈黙していた。
「ほう……俺の鬼術を受けて即死しないとはな」
かすかに呼吸している桃太郎の様子を興味深げに見た波羅が呟いた。
「だが、内蔵が破裂する音は聞こえた……時間をかけて、死ぬるがよい」
波羅は吐き捨てるように言うと、桃太郎に背を向けて歩き出した。
「桃太郎ちゃん! いや……いやァアアッ!」
目を閉じて動かなくなった桃太郎の姿を見たおはるが戦慄の表情で叫んだ。
「おい、女……貴様は賢い子鬼を産めよ。ハッハッハッハッ!」
「──いやぁああッ!」
波羅の笑い声とおはるの叫び声が海岸に響き渡ると、湿った砂浜に顔を突っ伏した桃太郎が苦悶の眼差しで遠ざかっていくおはるの顔を見た。
──おはる……姉ちゃん。
桃太郎は絶望と苦痛の中で意識を失った。それからしばらくして、夕焼け空になった海岸に悲鳴が響いた。
「キャァアアっ!」
「坊主ッ!」
おかめが絶叫し、血相を変えた三郎が砂丘を駆け下りてくる。夕日で赤く染まった砂浜に倒れ伏した桃太郎の体に、冷たい潮風が吹きつけるのであった。