葬送の二胡姫
人間は、左の掌に石を持って生まれてくる。その石を終生大事に持ち、死んで七日目に近しい人に川に落としてもらう。落ちた石は水のなかで少しずつ茎を伸ばし、死んでから初めの八月の満月の夜に、光を浴びながら花を咲かせる。花は一晩しか咲かず、東の空から生まれた陽の光を受けて、花弁は川底に落ちていく。同じ石から再び花が咲くことはない。
花が咲くのは生への未練で、川底が死んだ人間の第二の里だとあらわしたのは、一体誰だったのか。
生まれ持つ石は人それぞれ違う。混じり気のない黒曜石の子供もいれば、透き通る藍玉の子供もいる。養母が死んだ時、私は蛍石を静かに川に入れた。蛍石は引き出しの奥に、皮袋で厳重に守られていた。慈悲深い養母に似合の優しい色合いは、川に落とすとやわらかく溶けていった。
「あなたは橋の下で拾ってきたのよ」
幼少期の記憶は靄が掛かっている。養母曰く、拾った時の私は、橋のしたで川底をただただ眺め続けていたのだという。あそこに本当の私の国があるというように。私に石はありましたかと聞いたら、養母は答えなかった。誰かが盗んだのだろうと私は結論付けた。生まれた石を盗むのは大罪だが、その誰かは大罪を犯してまでも私の石が欲しかったのかもしれない。私にとっては大事な石でも、他人にとってはただの美しい石だ。売ればいくばくかの金になるだろう。
石がないからか、覚えてもいない幼少期のせいか。
私には生きているという意識があまりない。地に足をつけていても、鏡を見ても、そこに私という形を見つけられない。死体のような人間が今生で迷い込んでいるのだと思えた。
橋のした。澱んだ川の色を眺めながら、深く沈んだ石を思い浮かべ、二胡を弾く。
雨だれが落ちる日も。水がのたうち回る嵐の夜も。
*
養母が死んでから初めての夏が来た。朝からうだるほど暑く、寝汗が布団を吸ってべたついた。
夜明けと共に、寺に新聞屋が訃報を持ってくる。その訃報欄に毎日目を通す。今日の訃報は四件だった。それは七日後に落とされる石の数をあらわしている。そして七日前の訃報欄を引っ張り出す。三件だった。五歳の子供と、二十二歳の女性が疫病で。八十七歳の老人は大往生だったようで、その深い年輪が誇らしげに見える。川の底に落ちても矍鑠として生きるのかもしれない。
ここ数年、疫病で人がばたばたと死んでいく。投げられた石の数で、川が飽和状態になると思われるぐらい。遙か昔は、石と共に死体を投げていたようだ。しけった時と雨が降った時は、どことなく澱んだ匂いが立ち上ってくる。
二本の弦に弓を引く。二胡において、運指と弓はどちらが大事なのか。運指に気を取られて弓をおろそかにするなと師に口うるさく言われていた。師は母の友人で、今はどうしているかわからない。疫病で亡くなったのかもしれない。そんな考えが脳内に滑っていく。
石がないなら、石の代わりの大事なものを身につけなさい。そして、投げられた石の数だけ、弓を引けばいい。そう言って渡されたのは養母が不得手とした二胡だった。わざわざ自分が教えられもしない楽器を渡したのはなぜか聞いたことがある。
その音で私を送ってほしいから、と答えた。
二胡の音は不思議だ。弦から真珠が溢れたと思う時もあれば、悠久まで届きそうな果てしなさを感じる時もある。一つ音をならせば、川の底まで響くのかもしれない。
訃報欄に目を通した後、指慣らしで弓を引く。今の私の寝ぐらは、尼寺の一角に設置された簡素な宿坊である。二胡と、幾つかの着替えと少しばかりの金子。母の遺骨。それが私の全てである。
「苑円」
寺の尼僧が私を呼びかける。私は音を鳴らすのをやめて振り返ると、背の高い女が立っていた。私に話をかけてくれる唯一の尼僧。夫を亡くしてこの寺に出家した、美荘という名の僧侶である。出家するか妓楼に行くか、二択の選択のうち前者を選んだと出会い頭に言っていた。
「そろそろ飯なんだけど。食わないつもりかい?」
腹が減る、減らない、はあまり考えない。その時刻になったらなんとなく食べる。ひたすら咀嚼し、椀の中のものが無くなったら終了する。いただきます、と答えて美荘さんの隣を歩く。
「苑円、今日も一件あるんだけど、お願いできる?」
美荘さんが遠慮がちに聞いてくる。いいですよ、と私は答えた。訃報欄を見て、今日も葬式はあるだろうと踏んでいた。
出家するわけではない私がこの寺にいられるのは、人が亡くなった時に葬送の二胡を弾くからだ。少々だが金子も頂いている。行くあても出る様子もない私をここに置いて仕事をくれるのだから、感謝しても仕切れない。
「ねえ、苑円。腕がいいから今まで何も言わなかったけど、あんた、ずっとここに居座るつもりかい。私は止めないけどさ、出家するわけでも、芸人になるわけでもないから。ちょっと心配なんだよ。あんたの器量だと欲しがる旦那も店もあるだろうけど、そういうつもりは全くないんだろう?」
「うん」
最後の言葉にだけ頷いた。職業に貴賎はないが、妓楼に入るつもりはなかった。生きている実感の薄い私だが、そんな私なだけに、生々しい男女のやり取りの場所にはいられなかった。
返せるものがないのだ。私には。
「ねえ、美荘さん」
なに? と私を見つめかえす。
「美荘さんの石って、なんだったの?」
「ああ。私の石はね、翡翠だよ。あの人の石も翡翠だった。あの人は北方の生まれだったから。北方生まれの人の翡翠は色合いが私と違うんだ。そのうち行ってみたいね」
そんなこと言いながら出家しちゃったもんだけどさ、と尼らしからぬ高い声で笑う。
旅をしながら琵琶を弾いていた養母に拾われた。だから私は旅をしていた。二胡が弾けない養母に師を紹介され、弾くことを覚えた。そのうち私も、養母と共にあちこちの芸人一座を転々としながら旅をした。旅をして数年、養母が病になったので、この寺に休ませていただいた。それが半年前。
母が亡くなったのは三ヶ月前だった。
生前の言葉通り、母の遺品は売ってしまった。商売道具の琵琶は母の知人に譲り、蛍石を静かに落とした。母を埋葬し、二胡を弾いて送った後、自分の足の向かう先が全くわからなくなった。もう一度、旅をすればいいのか。ここに止まればいいのか。
そもそも私はどこに行けばいいのか。
流れが止まっている。止まらないのは弦を押さえる指と、弓を操る腕だけだ。私自身は川底にいる。屍の帝国だ。
だから私は、川底に落ちても今生と同じように過ごすのだろう。
*
ひぐらしが鳴き始めた頃から、私は街外れの川べりに腰を下ろした。母の石を落とした場所である。
大慶で二番目に大きい杭州は水の都である。いくつもの橋がかかり、北は籐江、西からは桜河が流れ、杭州で交差して無数の水路を造り上げている。皇宮のある慶安が華やかなる碁盤目の都市ならば、杭州は水運業が盛んな東の要都だ。
八月の満月の翌日は蝋燭流しの日になる。一年に一度、昨年の蝋燭流しの日から今日に至るまでに亡くなった人を思って改めて蝋燭を流す。石の花を咲かせた後も、川底の国で安寧に過ごせるように。生への未練も全てなくなるように。蝋燭の形はさまざまだ。一番ありきたりな白い棒のものもあれば、蓮の花をかたどったものもある。
流されゆく暖かな光を見つめながら、二胡を弾き始める。思い出されるのは、養母の花だった。昨日の夜に咲いた養母の花。蛍石から生まれた母の花は淡い紫だった。透けそうなほど薄い花弁に、桔梗を絞ったような色が落とされていた。手のひらに載せると、その薄さがよくわかる。石が川底に落ちた瞬間から、若緑が川面に向かって伸び始める。頭を出した芽から、一つ、二つ、三つと蕾が生まれ、月の光を浴びて花が開くーー
「姐さん」
声がして、はっと横を振り向いた。
右横にいたのは、私より年若い少女だった。歳の頃は十三、十四程度。杏仁型の瞳が綺麗な女の子は、安っぽい花びらを髪に刺し、色合いの激しい原色の着物を着ている。裾から見える彼女の足は小さかった。小さく歪で、その足でよく歩けるものだと思った。沓を脱がせれば、きつく縛った足が現れるのかもしれない。土踏まずは小指で埋まっている。
体が半分透けている。
……最近気がついたが、どうも私はそういう人が見えてしまうらしい。
「私はあなたの姐さんじゃないけど、災難だったね」
私が少女だったら災難だと思うだろうかと疑問を浮かべながら飛び出た言葉は、川に浮いた嘘の満月と同じぐらい意味のないものだった。私は私が死んでも災難だとは思わないだろう。
別に、と少女は口を尖らせたからだ。
「熱くて、熱くて、苦しいなと思ったら体が軽くなって。気がつけば目の前にあなたがいた。でも、ここまで疫病が流行ってるんだったら、さっさと川の下にいくのもいいかなってね。これから嫌なこともあっただろうし。私は蓬春。あなたは?」
蓬の春と書いて蓬春、と名乗った彼女は、さっき死んだとは思えない明るさで自分の行き先を語る。身にまとう生地は花と同じく安っぽい。苑円、と私は私の名前を名乗る。
妓楼に行くわけじゃないんだろ、という美荘さんの声が蘇る。私がいくかもしれなかった場所で、彼女は命を落としたのだと悟る。そうして彼女も、自分が死んでも災難だとは思えなかったのだろう。
「姐さん、異様に二胡がうまいけど、生まれはどちら?」
「知らない。拾われたから」
母は私をどこで拾ったのか教えてくれなかった。知っていても愛着を持たなかっただろう。
「じゃあ、私と同じね。私はこの街の陋巷で、今の店の主人に拾われたから。それにしても本当に綺麗な音。ねえ、なんて曲?」
「『驪妃映月』」
蓬春は目を丸くさせる。どういう曲なのか知らないらしく、簡単に説明する。曲を弾くにも、曲の由来や作曲者の思いを理解しなくてはならない。
「昔いた驪妃という皇帝の寵妃が、夜に泉に移った月を皇帝に見立てて歌った曲。でも皇帝を月と見立てるのは縁起が良くない。皇帝は天子様で、月ではなく陽でなくてはならないから」
欠け始めの月が、水面に揺れている。
「驪妃様はどうなったの?」
「不敬罪で首を刎ねられたよ。でも曲は美しいから、こうして残っている。死を悼んだ彼女の侍女が、彼女の石を池に落とした。そうしたら美しい花が咲いた。この国で死んだ人間の石を落とすようになったのは、それから」
へえ、と気の無い返事を耳に入れる。聞いただけで、別に興味はなかったようだ。
曲を次々と変える私の横で、蓬春は茶々を入れてくる。この曲は悲しくなる、この曲は花みたいところころ笑う。
驪妃の石はなんだったのだろうか。高貴な生まれだったと史書には載っているらしい。ならば、翠玉か、鋼玉か、紅玉か。月を謳ったならば月長石かもしれない。彼女は自分を殺した皇帝を恨んだだろうか。驪妃の石の花は蓮だったらしいから。自らの罪から奇妙な習わしができたと知ったら、どう思うだろう。今すぐ死ねば川底にいる驪妃に聞けるだろう。死にたくないわけではないけれど、そこまでするほど私は彼女に興味があるわけではない。
向かい側の岸に人影があった。四十ほどの女性は白い喪服を纏い、片手で顔を覆っている。隣に立つ同世代の男性に支えられ、なんとかしゃがみ込む。右手からこぼれ落ちた石はあまりにも小さい。彼らの子供が亡くなったのだろうか。
弾いている曲を中断し、別の曲を思い浮かべる。誰もが知っている、優しい旋律の子守唄である。
「……あの花が咲くのは、来年かな」
曲が終わった頃、明るさを潜めた声で蓬春が呟く。そうだね、と私は彼女に返す。杏仁型のきれいな瞳を細めて見る先は、女性が石を落とした川底である。
「かわいそう?」
「わからない。でも、石を落としてくれる誰かがいるのは、ちょっと羨ましい」
「羨ましい?」
鸚鵡返しに尋ねる私を、少女が見つめ返してくる。
「身寄りがいないの。私の石は、私の住んでいた部屋の一階に静かに光っている。あんまり店の同胞とはそりが合わなくて。店の主人からも母さんからも姐さんからも疎まれてたんだ。使えない役立たずだって。だから、私の石を落としてくれる人はいない。そんなに悪いことしていないと思うんだけどね」
目の前の少女が疎まれる理由がわからなかった。少ししか話していないが、明るげな人となりが伝わってくる。
私の石は私の手元にはない。誰かが盗んだからだ。母が死に、私が亡くなっても、誰も悲しむ人がいなければ、石を落としてくれる人はいない。私はそれでもいい、と思っている。
しかし隣に立つ彼女はそれではいけない気がした。だけど誰もいなかったと寂しげに語る彼女は、誰かに大事にされたかったのだろう。
「あなたの石は何だった?」
実は石じゃない、と蓬春が答える。
「私は口の中に真珠が入っていたらしいの。私を取り上げた産婆さんは、お前の母親は口の中に真珠を不吉に思って捨てていったって言っていたから」
べっと蓬春が舌を出す。さらりとした桃色の舌の上に、もちろん真珠はなかった。
不吉なこどもと、死体のような私が見つめ合う。
私は二胡を抱えて立ち上がる。
若々しい匂い。そうか、草も生きているのかと思い至る。
あなたの部屋はどこ? と私は尋ねる。
聞き慣れた自分の声が、はるか遠くから聞こえた気がした。
蓬春の店は、杭州の右端にあった。仁和店という、そこそこに大きい妓楼である。
色を売る店に入るのは初めてではない。芸人仲間と何度か仕事で入った。自分の演奏を披露したり、仕込み中の少女に二胡を教えたこともある。
店の主人を訪ねると、割とすんなりと奥に連れて行ってくれた。私の顔と体を舐め回すような視線を向ける。何故だか不愉快さを覚え、そんな事実に少し驚いた。今までの私なら、不愉快だとは感じなかっただろう。またかと思うだけだった。店内を歩き進みながら、周りを見る。薄暗い照明。隣に座る妓女は綺麗に白粉を塗りたくり、婀娜っぽい声をあげて恰幅のいい旦那にしなれかかる。
「後少しで使えるところだったのに。仕込み中に死にやがって、こっちは大損なんだ。遺品があっても邪魔なだけだから、全部持ち帰ってくれ」
案内された彼女の部屋は四階にあった。粗末な衣装箱と、簡素な寝台と机以外何もなかった。狭く、日中でも陽が当たらないほどの薄暗さを思わせた。衣装箱の中には、着ていたものと同じような衣類が数点残っている。その少ない全てを箪笥から出す。
「あった」
箪笥の奥から現れた布袋。その中には、つるりとした光沢の真珠が厳かに守られていた。
*
夜が更けても杭州は眠らなかった。あらゆる水路に蝋燭が流れていくのを横目に、走って蓬春のいる川縁に戻る。
「やっと戻ってきた」
私の顔を見るなり、蓬春は目尻を下げた。彼女の横には、私の二胡がある。楽器があっては邪魔だと思い、彼女に任せたのだ。任せたところで、蓬春には何もできないのだが。
「これで間違いない?」
荒れる息をなだめた後、私は箪笥から探し当てた真珠を蓬春に見せた。これ、と彼女は顔を崩した。
「取ってきてくれてありがとう。大変だった?」
「大丈夫。途中、厄介ごとはあったけどね」
蓬春の真珠を見つけた直後、店の主人が部屋に入ってきた。手に持った真珠を売り捌くから、よこせと言ってきたのだ。店の主人は蓬春の石を探したらしいが、見つけられなかったらしい。まさか真珠だとは思わなかったのだろう。私は躊躇わずに、窓から身を乗り出した。高さはあったが、着地できない程のものではない。母と旅をしていた頃、芸人仲間から無理やり教わった技が生きた。こんな厄介ごとで使うとは思わなかったが。
飛び上がった時に見えた杭州の街は美しかった。蝋燭のあかりと、街のあかり。死者も生者も、等しくそこにいるのだと思った。地面に着地をし、衝撃が身を襲う。皮膚が振動し、その時にようやく生きているみずからを実感する。そして、私を追う騒ぎ声を気にせずに走り出した。手にした真珠を落とさないよう、懐を抑えながら。
……思えば、誰かのために走ったのは本当に初めてだった。想像していたよりも疲労を感じ、それ以上に爽快だった。
聴き終わった後、蓬春はけらけらと笑い声を出した。
「あの人だったらやりかねないね。今までもそういうことあったみたいだから。でも、本当に、守ってくれてありがとう」
「あなたを、私と同じにしたくなかったしね」
私の呟きは彼女には聞こえなかった。聞こえなくてもいい言葉だったので、伝わっていない事実に安堵する。
私は手のひらで踊る真珠を、静かに川に落とした。ゆっくりと落ちていく真珠は、月光を受けて一層美しく煌めいた。音もなく水面を通り過ぎ、水中で速度を落とす。やがて水草に紛れて川底に辿り着いた。向こう側が透けている彼女は、満足げな笑みを浮かべる。
「思い残すことはある?」
「ないと思っていたけど、一つだけ」
何? と、目で尋ねると、蓬春が私の頬に手を添えた。当たり前だが、私に触れられている実感はまるでなく、彼女も私の感触を得られていはいない。
「あなたの音に送られるなら、それでも悪くない。だけど、生きているうちにあなたと会って仲良くなりたかったな」
「……私にそう言ってくれるのは、あなたが初めてだ」
蓬春はひそやかに笑った。
「来年ここにくるよ。蓬春の花を見に。あなたの花は何色だろうね」
「あなたが川底に来たら、それを教えて。だけど、すぐに私のところにこないでね。あなたは弾き続けて。私みたいな人のためにも、幸せな人のためにも」
「……なら、聴きたい曲はある?」
桜河水、と答えがくる。先ほど弾いた子守唄同様、誰もが知っている親しい曲。
西から流れる桜河は、春になるとたっぷりとした花の匂いを含む。桜河沿いには桜の木が植えられている町も多い。
春の夜。桜の香を吸い込んだ水辺で、舞踊る花びらを眺め見る。そんな幸せな曲だ。
音がよく伸びていく。指がよく動く。平常よりも。
あなたと仲良くなりたかったと言った誰かがいたからだろうか。川底の真珠が、蓬のような青みがかかった茎を伸ばし、桃色の花を咲かせるさまを想像しながら弓を引く。
弾きおわると彼女の姿はなかった。彼女のために弾いた余韻だけが、あたりに漂っていた。
*
「行くの?」
「はい。長い間、お世話になりました」
養母が死んでから数ヶ月、なにも言わずに置いてくれた善尼寺に深く頭を下げる。これからどうするの? と聞かれたので、二胡奏者としての芸人になります、と答えた。
蓬春と出会った翌日、私は寺を出ると決めた。行き先は決めていない。流れて二胡を弾いて飯を食べ、落とす人のいない石を川に入れて、そこでまた二胡を弾く。
そういう生き方も悪くはないだろう。
「しかし本当に大丈夫かい。あんた、みょうにぼさっとしたところがあるからさ」
止めはしないけど、と美荘さんは首をかく。この数ヶ月、彼女にだいぶ心配をかけたようだ。感謝しても仕切れない。
善良な彼女を心配させないよう、私はしっかりと頷いた。
「これさえあれば、私は大丈夫」
私は背中に背負った私自身を見せる。なら大丈夫か、と、美荘さんは笑った。
「餞別だよ、ほら。中にある半紙を開いてごらん」
美荘さんは手に持ったものを私に出した。小さい布袋の中には、新しい松脂と、弦と、言った通りの半紙がある。言われるままに丁寧に織り込まれた半紙を開く。
月華娘。
書かれた名前に瞠目する。
「あんたの芸名だよ。苑円だと、同じ名前の傾国の美女がいるらしいじゃないか。あんたも美人だけど、男を狂わせる美女の名前より、こっちの方が似合の名前だよ」
昨日、見ていたんだよ、そこにいない誰かのために弾いていただろう? と、尼僧は照れ臭そうに頬を掻いた。
「存分に弾いておいで。あんたの音は、死んだ人間のためだけじゃなくて、今生きている人のためにもあるんだよ。あんたの音を聞くと、川底にも京はあるって信じられる」
力強い言葉で送り出され、私は寺を後にする。
これからどこに行こうか。誰に会おうか。この先、何が待っているのか。何が、私の音を望んでいるのだろうか。誰の石を川に入れるのだろうか。全て背に持った相棒が教えてくれるだろう。陽の光を浴びながら、音が向かう先に私は歩き出した。