第八話 予想外の出来事に、予想外の人物が
月曜日、高級ホテルの一室に踏み込んだのは、ダナエと私、それに十人以上の優秀な警察官たちです。
「はいはい、動くなよ、二人とも。そのまま両手を挙げて、ストップだ」
ダナエがそう指示を出した先には——ドレスとコルセットを脱いで、ブラジャーを外し両腕で胸を隠した姿となった金髪の女性、プレツキ公爵令嬢と、シャツの襟元を緩めた礼服の黒髪の男性がいました。寝室のベッドに腰掛けていたプレツキ公爵令嬢はシーツを掴んで立ち上がり、棘のある声を上げます。
「これは、どういうことですの?」
「宰相閣下のご命令です、アマンダ嬢。それと、テネブラエ。下手に動けば、何をしてもいいとのお達しです」
どういうことだ、とプレツキ公爵令嬢の顔には大変な困惑の色が見えます。しかし、もう一人、テネブラエと思しき男性は、何一つ動揺していません。立ち上がったプレツキ公爵令嬢のそばにやってきます。
プレツキ公爵令嬢のダナエへの弁解は、もう金切り声になっていました。
「私はただ、宝石商と話していただけですわ!」
「ベッドのある部屋で? 下着で?」
「し、将来の王妃に向かってなんと無礼な!」
「それに関してはのちほどお叱りを受けましょう、違っていたらですが」
何を言っても無駄だ、とプレツキ公爵令嬢はまだ気付かず、さらになにかを言おうとしていましたが、男性が肩を掴んで後ろに下げました。
テネブラエと思しき男性は、ダナエに対し愛想笑いを浮かべています。
「やあ、リュクレース王国はここまで外国人に対して排斥的な行動を取るのですね」
「善良な外国人には取らないさ。お前はニュクサブルク人だな?」
「ええ、証明書もあります。ですが、ニュクサブルクとリュクレース王国の間には商取引に関する自由協定があるではありませんか。このことは本国に伝えておきますよ」
「ご勝手に。さて、お嬢様、出番です!」
ダナエに促され、私は緊張を無視して一歩進み出ます。私はこのときのためにやってきたのです。
すう、と息をした私へ、テネブラエと思しき男性は少し意外な顔を見せました。
「あなたは?」
「あ、どうも。名乗るほどの者ではありませんので、お気になさらず」
なんだか、もうちょっとしっかりした言い方ができたような気がしますが、緊張のせいにしておきましょう。そうしましょう。
私はダナエと練習したとおり、テネブラエと思しき男性へこう頼みます。
「両手、素手を出していただいてもよろしいですか? 切ったり叩いたり捕まえたりはしませんので」
「分かりました、どうぞ」
「ありがとうございます」
テネブラエと思しき男性は、これから起こることを想像もしていないでしょう。白い長手袋を脱ぎ、両手の素肌を見せます。
私はそこに、あの光魔法を投射するだけです。
「えい」
かけ声とともに、ほの暗い光が両手へかかり——黄緑色と紫色の光を、その素肌に光らせます。指先を中心に、手のひらにも斑模様ができていました。言い逃れができないほど、しっかりと光ったその両手を、意味の分かる人々だけが驚きを持って、納得します。
「よし、蛍光反応が出た。こいつがテネブラエ」
ダナエが言い終わる前に、『テネブラエ』は目にも止まらぬ速さで動いていました。
私を抱き抱えて、私の首へ腕を回し、締めつけたのです。
「動くな。お嬢様の首をへし折るぞ」
テネブラエの脅しに、皆が動きを止めます。
力強く首を押さえられ、私はどうすることもできません。息ができることが幸いです。ダナエたちが心配しないよう、私はなんとか声をかけます。
「わ、私はとりあえず大丈夫ですので、落ち着いて」
「しかし」
「悪いが、少し付き合ってもらいますよ、お嬢様」
こうなるとは思ってもみませんでした。
テネブラエは私を抱いたまま、部屋の窓をぶち破り、バルコニーから飛び降りたのです。
目なんか開けていられません。テネブラエを信用して、というか人質としての価値があるなら放り出したりしないはず、と自分の心を落ち着けるよう必死で、そのあとしばらくどうなったかなど分かりませんでした。
いつの間にか、私はテネブラエの肩に担がれていました。抱っこは疲れるのでしょうか。いや、走りやすいようにこの担ぎ方ですね、多分。
どこかへ走って逃げるテネブラエへ、私は要求します。
「あのー、せめてお姫様抱っこをしてもらえませんか? こんな、小麦袋みたいな抱えられ方は、ちょっと傷つきます」
テネブラエは速度を緩めず、答えてくれました。
「これはご無礼を。もう少しの辛抱ですよ」
「はーい」
抵抗は無意味なので、私はもう諦めています。誰か助けてくれればいいのですが。
しょうがないので、暇な私はテネブラエと話をすることにしました。
「あなたも光魔法を使えるのですか?」
「さて、どうでしょうね」
「そうですか……えっと、この先は」
「馬車を用意しています。しばし旅となりますので、ご容赦を」
あっ、これは私、人質として国外に連れていかれる流れですね。見えないインクを見えるようにした光魔法も、多分秘密を守るために確保しておくとか、そういうことでしょう。
でも、私はそこに関しては大丈夫、という確信を持つに至っていました。
「えーと、それは無理です」
だって——テネブラエが走る先を見たから。
そこには、私と同じブラウンの髪をした、なんだか見覚えのある青年が一人。細い剣を構えて、叫びます。その構え方、見たことがあるので私はしっかり目を閉じます。
「エスタあああああああ!」
目を閉じていても真昼のように明るい、強力な光魔法。
剣を媒介にして、前方にだけその光を照射する、とんでもない目眩し。
私を抱えていたテネブラエが体勢を崩しました。テネブラエが壁にぶつかり、しゃがみこんだおかげで、私はころんと地面に転がされて解放されました。
まだチカチカする目を開けて、私は文句を言います。
「お兄ちゃん、うるさいし眩しい!」
「くっ……!」
それでも、テネブラエは立ち上がり、警戒態勢を取りました。すごいです、密偵。
剣術馬鹿はまた叫びます。
「闇あるところに光あり! 将来的にはこの国一の剣士になる予定の俺、レナトゥス・ド・モラクス、参上!」
はい、そうですね。そんなことをする人間はこの国がいくら広くても一人しかいません。
現れたのは私の双子の兄、レナトゥスです。出会い頭に強力な光魔法を照射するという一歩間違えれば失明する真似をする、まったく気遣いの欠片もない使い方をする馬鹿です。名乗り文句も馬鹿っぽいです。
だからテネブラエもこう言ってしまったのでしょう。
「馬鹿ですかあなた」
「あれでも兄なのです、一応」
私は擁護しておきましたが、多分無駄です。テネブラエのため息が聞こえました。
レナトゥスはやっぱり叫びます。
「妹を置いていくなら、今はとりあえず見逃してやる。そいつはそれでも公爵令嬢なんだ、そして俺のたった一人の妹だ。連れていかせるわけにはいかん!」
助けに来たのなら、もっと穏やかに助けられないものでしょうかね。私は不満たらたらです。
一方で、テネブラエは私の背中を押しました。
「なるほど。では、どうぞ」
行ってください、と私をレナトゥスのほうへ進ませます。いいのかな、と思いながらも、私は早歩きで兄の後ろに隠れました。
「素直すぎて怪しいんだが、まあいい。ウォールドネーズ宰相はこう言っていたぞ、証拠は押さえた、だとさ」
テネブラエはふっと笑って、踵を返します。
「それでは、ごきげんよう。二度と会うことがないよう、祈っていますよ」
実に紳士的に、テネブラエはどこかへ去っていきました。私がいるせいでしょうか、レナトゥスはテネブラエを捕まえる気がないのか、それを見送りました。
レナトゥスはテネブラエがいなくなってから、私の両肩を掴んで前後に振ります。
「エスター! 大丈夫か?」
「平気、小麦袋みたいに担がれただけ」
「なんだ、そのくらいか」
「それより、お兄ちゃん、いつの間に王都に来てたの?」
家族の前ではお兄ちゃん、と幼いころの呼び方がもう直しようのない癖になっており、私は勢いでそう言ってしまいましたが、まあいいでしょう。
私の問いに、レナトゥスは思いっきり目を逸らしました。
「お兄ちゃん?」
「いや、その、お前が心配で、こっそりついてきてた」
「お兄ちゃん! なんでそういうことするの!」
「し、仕方ないだろう! 結局、ウォールドネーズ宰相に見つかるし!」
レナトゥス、私を追いかけてド・モラクス公爵領からはるばる来た上に、結局ウォールドネーズ宰相閣下と会ってテネブラエ捕獲作戦に参加していました。
私、それは聞いていなかったのですが、そうなっていたのかとまたしてもウォールドネーズ宰相閣下に謀られたような気がしてなりません。
レナトゥスは思い出したように、私の気を逸らすための言い訳を並べます。
「あ、そうだ! 時計職人の取り調べが終わって、馬車の場所が分かって先回りしててな、ちょうど出くわしてよかった」
「話逸らさないで。いい? 王城の騎士たちに決闘挑まないでよ。試合もだめ、私と一緒にすぐ領地に帰ること。いい?」
「はーい……」
こんなのが将来のド・モラクス公爵なのか、と思うとため息しか出ません。
私はレナトゥスを連れて、ダナエと合流するためにホテルへ戻ることにしました。途中の道で会うでしょう、きっと。
テネブラエを捕獲することは叶いませんでしたが——ニュクサブルクの手先であるテネブラエの目的を阻止することはできました。今はそれでよしとしてください、本当に。