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第七話 籠絡と妙案と

 貴族のご令嬢のお忍びなど、どこででもありふれていて、商人たちはそのためにさまざまな配慮をし、顧客のご機嫌を取る。


 迎える商用の馬車は目立ちすぎず、さりとて内装は豪華に。商人とはいえ礼を失さない程度の身だしなみや服装を整え、顧客の気分を決して台無しにはさせない。辿り着いた特別な部屋、見回せば特別な調度品、目の前には特別な商品の数々。顧客には夢を見ていてもらうのだ。夢のためなら、人は金を払う。その金をいかに引き出すか、それが商人の腕の見せどころだ。


 とはいえ、この男は商人ではない。烏の濡れ羽色の髪に、黒曜石のような瞳。きれいな顔、というのは特徴がなく、整っていただろうという印象は残しても、それ以外に想起させる情報は残さない。黒の細身のコートに礼服、手首までしっかり隠す真っ白な手袋。たった一つ、ダイヤモンドのネクタイピンだけが贅沢品と言えるだろう。


 洗練された一流の若い商人。肥え太った中年の男でもなく、気遣いも言葉遣いもなっていない青二才でもなく、彼は顧客を満足させる手練手管を熟知している。


 ただ、彼は商人ではないというだけだ。彼は——ニュクサブルクの密偵、『テネブラエ』。彼に経歴はなく、彼は何も残さない。愛用の偽名『テネブラエ』だけが広まり、何者なのか、何をしているのか、そんな情報の一切が人の目に触れず闇へと消える。彼はその繰り返しをしているだけだ。そのためなら商人だろうと、兵士だろうと、運搬馬車の御者だろうと、なんだってできる。彼にとってはなりきる程度、児戯にも等しく、完璧にその役をこなす。


 そういえば十数年前には舞台に立っていた、主役ではなく当て馬の端役。それさえも完璧にこなして、こなしすぎて、彼は俳優に向いていない、と宣告された。彼だけが役を現実に存在するものとして表現してしまうから、他の俳優がお遊戯をしているようにしか見えないのだ。


 彼の脳には、今までこなしてきた役のすべてが、その経験が詰め込まれている。今回は誰を演じる? へえ、公爵令嬢を口説き落とし、愛人の座に就いて思うままに操る。なるほど、ではやってみよう。彼はそんな気軽さで、用意された商人としての地位、コネクション、商品、店舗を使って、容易く目標のプレツキ公爵令嬢アマンダとの直接の商談の機会を得た。


 とある高級ホテルの最上級の一室で、王城の応接間と見紛うほどの豪奢なソファに座り、大理石のテーブルにはいくつもの宝飾品がビロードの上に並んでいた。


 彼はそのうちの一つを取り、愛想笑いを浮かべて顧客と相対する。


「こちらの宝石など、いかがでしょう。ニュクサブルクの北、大海岸線で採れる最高級の翡翠を加工したものです。あなたの緑の瞳によく合うかと」


 顧客——プレツキ公爵令嬢アマンダは、満更でもない、とばかりに拳ほどの大きさの翡翠が薄く加工され、海の女神のレリーフを作り出している芸術品に見惚れていた。ここから注文次第でアクセサリーとして造り出すのだが、これ単体でも家一軒を買えるほどの価格が付く。金銀を散りばめれば、言わずもがなだ。


 貴重で特別な品を、貴族の特別な自分に勧める商人。アマンダはすっかり彼を気に入っていた。


「ふふっ、私の好みがよく分かっていますわね、あなた。髪飾りはありませんこと?」

「ございますとも。髪留めでもティアラでも、お気に召すようすぐに加工しましょう。腕利きの職人を連れてきておりますので、特急でご対応させていただきます」

「まあ、親切なこと。この大きな翡翠、同じ大きさのエメラルドとどちらがいいかしら?」

「エメラルドの輝きは夜会では目立ちすぎます。それに、金と合わせるならドレスとのコーディネートも必須です。あなたなら、そのような手間をわざわざかけずとも、すでにお美しいではありませんか」


 彼の言葉は、しっかりとアマンダの心を捕らえた。エメラルドは確かに派手だ、加工次第ではあるが光を反射しすぎる。合わせる金も多すぎては成金のようで、あまり上品とは言えない。それに、どこの貴族もエメラルドの宝飾品くらい持っているから、目新しさがなかった。それに比べて翡翠はまだリュクレース王国にあまり出回っていない。多少きらびやかさは落ちるが、大きさとレリーフの精密さの価値は、見る者が見れば一目瞭然だ。


 特別な自分を演出したいアマンダにとって、彼が勧めてくれた翡翠は確かに、特別にしてくれる品だった。


「この翡翠、買いますわ。髪留めとネックレスをセットで作って。私ももう二十歳だから、輝かしいドレスより落ち着いたものがいいと思っていましたのよ」

「将来の王妃ともあろうお方が、年齢などお気になされませんよう。舞踏会ではしゃぐのは、男も世間も知らぬ小娘だけです」


 ぴしゃり、と彼は言い切る。彼は知っている、アマンダがもう舞踏会では未婚の若い男に相手にされず、言い寄ってくる男は『国内二番手の大貴族』プレツキ公爵令嬢に顔繋ぎがしたいだけだ。取り巻きの令嬢たちさえ、本来公爵令嬢と付き合うには格が落ちる程度の家柄しかなく、その原因は——『国内随一の大貴族』ド・モラクス公爵家にある。今のド・モラクス公爵は結婚してから晩餐会や夜会を開くようになった。彼の幻想的な美貌に加え、彼の妻がセッティングする儚くも美しい光は来訪客を虜にし、その評判はたちまち全土に広まった。そのせいで出席希望者が増えたが、ド・モラクス公爵家主催の晩餐会に出られる貴族はごく限られた者だけで、一度でも招待されればそれはそのまま誇るべき貴族のステータスとなるほどだ。


 彼の言うとおり、この国において舞踏会ではしゃぐ貴族令嬢は、あまりにも世間を知らなさすぎる。貴族としての価値は、そこにはもうなく、ただの見合い会場だ。それも、格の落ちる者たちしかいない。古株の貴族たちはまだ談話と踊りを楽しむ、という目的で来訪するが、それも時代の流れとともに淘汰されるだろう。


 アマンダはそれが分かっているが、どうしようもない。プレツキ公爵家が主催する舞踏会ばかりだったかつての時代の栄光を取り戻すべく積極的に舞踏会に出ようとしても、もう婚約者のいる身で浮ついたことばかりするな、とたしなめられる。その風潮に、アマンダは嫌気が差していた。


 だから、つい愚痴がアマンダの口を衝いて出てしまった。


「そうなのです、まったく。度しがたいですわ。己の身分もわきまえず、名目上貴族だから手に入れた招待状で私たちと同等になった気がしているのでしょうね」


 滑らかになった口は、止まらない。


「それに……お高く止まって、自領から出てこず、リュクレース王国のために義務を果たそうとしない大貴族。あんなものがいるから、下の者たちがつけ上がるのです」


 そのせいで、私は王子の婚約者にさせられてしまったのに。


 その思いは透けて見えて、彼は内心ほくそ笑む。事前に得た情報は確かだった、アマンダはリュクレース王国第一王子イヴリースとの婚約を快く思っていない。


 そこにつけ込む隙があることを、『テネブラエ』は見逃さない。


 アマンダはようやく自分が何を言っているのか気付き、慌てて言い繕う。


「あら、いやだ。ごめんあそばせ、なにも聞かなかったことに」

「いいのですよ。アマンダ様、私も商人です、貴族の令嬢に宝飾品を仕立てる仕事は長くやっておりますが……昨今の令嬢たちは、なぜ自分たちが舞踏会に出られるのか、分かっていない。貴族としてふさわしい振る舞いをし、貴族社会の一員となるために舞踏会へ参加を許されているというのに、自分自身の晴れ舞台だと勘違いしている」


 彼は次々と、アマンダの心を汲み取った言葉を口にする。商人という立場から見た貴族の批判、しかし、プレツキ公爵令嬢アマンダは違う。


 あなたは特別なのだ。特別であるのだ、と言われて心揺れ動かない人間は、そういない。


「あなたのような方にこそ、貴族の頂点、代表としての責務の自覚と誇りを備える方にこそ、舞踏会の主役は与えられるべきだというのに」


 まるで懇願するような口振りで、彼はアマンダへ訴える。心にもない言葉を飾り、本心であると偽って聞かせることにかけては、彼の右に出る者はいない。


 当然、アマンダはもう彼に心を許し、すっかりご機嫌だ。


「もう、そうやって褒めて、私が喜ぶとお思い? 私は将来の王妃なのですよ」

「存じております。しかし、今はプレツキ公爵令嬢アマンダ様です。今だけは違うのですよ」


 彼は愛想笑いではなく、微笑みを見せる。そして商人としての仕事に切り替え、アマンダに拳大の翡翠のレリーフをどう似合うか考えている、という素振りを見せた。誠実な商人である、と見せるためにだ。


 アマンダは、彼の名前を知らないことに気付く。彼に興味が出てきた。商人として自分を立て、貴族を批判し、プレツキ公爵令嬢アマンダを好意的に捉える人間。


 何よりも、将来の王妃ではなく、今はアマンダはただの公爵令嬢なのだ、と見てくれる人間。そんな人間とは、アマンダはしばらく会っていなかった。将来の王妃としてふさわしい行動を、教養を、婚約からずっとそう言われつづけてきた。


 アマンダは、彼の名前を尋ねる。


「そういえば、あなたの名前は?」


 彼はにっこりと笑って、名乗る。


「テネブラエ、と申します。さあアマンダ様、こちらの指輪などいかがでしょう? お手を拝借いたしますよ」


 彼、テネブラエはアマンダの左手を優しく取った。指に蔦が巻きつく意匠の金の指輪。それをはめるためには、時間がかかる。


 テネブラエと触れ合ったアマンダは、もうすっかり心が傾いていた。






 数日前のことだ。


 エスターはこんなことを思いついて、ウォールドネーズへ進言していた。


「ひょっとして、なのですが……テネブラエは、その手に見えないインクをつけているのではないでしょうか?」


 ウォールドネーズは興味深そうに、片眉を上げる。


「落とさずに、か?」

「ええ。見えないので」

「まあ、それは、確かに。見えないだけに、丁寧に拭き取らないかもしれぬな」

「こうして見えないインクでやり取りをしている、ということは、テネブラエ側も書いて送っている、と思うのです。なら、見えないインクを手につけた人間こそ、テネブラエなのではないか、と」


 エスターの発言は、周囲にいた密偵たちをも驚かせた。


 その可能性があるなら、試すべきだ。密偵たちの顔は、そう語っていた。


 ウォールドネーズは一つ頷き、エスターへこう告げる。


「すまぬが、前言撤回だ。エスター、君もアマンダとテネブラエの接触現場に行ってほしい」

「承知いたしました。動かぬ証拠を突きつけるためですね」

「ああ、できれば君をテネブラエの前に出したくはなかったが、致し方ない」


 エスターは、やる気をみなぎらせた目で、ウォールドネーズの意を汲んだ。


 テネブラエを捕まえるのだ。この部屋にいる人間の心が、一つになった瞬間だった。

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