第五話 思い描き、望むゴールはどこにあるのだろう
王都で売っているパンは、大丈夫なのでしょうか。
轍を避けて、緩やかな坂道を下りながら私がそういうふうに尋ねたとき、イヴは目を丸くしていました。一体何を言っているのか、と顔にそのまま現れていました。
ひょっとして、私の心配の内容は伝わっていないのでは、と気付いた私は、すぐに小麦粉への混ぜものの噂を聞いたのだ、と言葉を付け足します。ド・モラクス公爵領のパンは安心安全だと知っているものの、それ以外の土地はどうなのだろうか、と。
すると、イヴは苦笑と呆れを半分ずつ合わせたような表情で、私をなだめます。
「なんだ、混ぜものの心配をしていたのか。確かに、下流階級向けの食品には混ぜものの噂は絶えないが……このあたりの市街ならそういう心配はない。第一、あのミセス・グリズルが認める店だぞ。そこまでの道のりも、パンの品質も、店主の人柄だって品定めされている」
なるほど、私は考えを改めます。ミセス・グリズルの保証、そしてイヴがそこまで言うのなら、信用できるでしょう。
「それほどでしたか。よかった、美味しいパンが食べられるのですね」
まるで私が食いしん坊のようですが、偶然にも過去に一度だけ、ド・モラクス公爵領で摘発された安価な小麦粉袋の中身を見たことがある身としましては——白い小麦粉が半分もなく、明らかに食べ物ではない謎の粉やゴミや虫まみれで悲鳴を上げるほどの——あれではない、という証明が欲しかったのです。あれは嫌です。父が摘発してくれて本当によかったと思いましたもの。
そのことも、一応、弁解としてイヴに伝えておきます。
イヴは、表情を固くして、私への呆れが一切失せたようでした。おそらくですが、そういう現実があると知っているだけで、イヴ自身がそのものを見たことはないでしょう。もしかすると、今日食べるものすべてを疑うようになってしまったかもしれません。私もあれを見た日は、パンが食べられませんでしたから。
ううん、話題を間違えた気がします。幸いにして、イヴは少し話の方向を変えてくれました。
「ド・モラクス公爵領は上質な小麦が取れるらしいな」
「はい、領の自慢です。毎日の食事が美味しい、それが領民のために第一に考えなければならないことだと、お父様はいつも言っています」
「ふぅん、王都よりも?」
「ええ、断言できます」
「なら、死ぬまでに一度は行ってみたいな」
「父がそれを聞けば、ぜひにと喜ぶことでしょう。私も楽しみにしています」
ようやく和やかに、和気藹々と話が弾んできたところで、パンの焼ける香りが鼻に届きはじめました。風に乗って、というほど微かなものではなく、辺り一面がパンに包まれているかのような重厚さです。これは近くにベーカリーがある証拠ですね、イヴの足取りがほんの少し早くなっているのもそのせいでしょう。
ちょうど、私たちがベーカリーの前に辿り着いたとき、午後三時の鐘が鳴り響いていました。ちょっとした人だかりもあって、イヴとともに最後尾に並んで、パンを買う順番が来るのを待ちます。
私たちの順番が来ると、イヴが小銭入れから銅貨を出して、すぐに店員が持ってきた二つの大きめの紙の箱と交換しました。触ると温かく、パンの香りのもとはここにあった、とばかりに中にパンがあるのだと主張してきます。思わず笑みがこぼれるほどの、美味しそうな匂いです。
さて、あとはブレナンテ伯爵邸に戻るだけ、なのですが、今度は上り坂。ゆっくり歩こう、というイヴの提案で、一箱ずつ持って、街並みを楽しみながら、建物の隙間から遠くを眺めながら、進んでいきます。道ゆく人々がどんどん私たちを追い越しますが、かまいません。時々立ち止まって、ここからなら王城が見えるとか、広場には必ず一つは鐘楼があってそれぞれ地区の当番が決まっているのだとか、王都を知らない私へ、イヴは観光案内をしてくれました。
思ったよりは小さかったものの、存外、王都も面白い場所なのかもしれません。生憎今回の滞在で全部を楽しむことはできないでしょうが、私は少しばかり、見聞が広がった気がします。
そう、私は少しばかり、頭が働くようになったのでしょう。
こんなことを、イヴに尋ねてしまうほどに。
私は空を見上げて、足を止めました。イヴも立ち止まり、待ってくれています。
「イヴ様」
「街中で様はいらない。何だ?」
「私、どうにも、こう思うのです。えっと、イヴだけでなく、プレツキ公爵令嬢、でしたっけ、婚約者の女性も結婚を嫌がっているのなら、いっそやめられれば、と思えるのですが」
その答えは、きっとイヴでなくとも王侯貴族であればとっくの昔から、同じ文言を使って答えなければならないと決まっているのですが、どうしても私は疑問だったのです。
イヴは、その定型文句を口にします。
「結婚は、王侯貴族にとっては義務だ」
義務を果たし、権力を正しく使い、世に君臨する。それこそが王侯貴族のあり方であり、そうしなければならないのです。
でも、それは今までの話で、昔からの話ではあっても未来永劫同じだとは、私は思えないのです。貴賤結婚の概念に囚われることなく公爵である父が男爵令嬢でしかなかった母と結婚したように、ド・モラクス公爵領では外国との活発な取引が始まってからは身分の別なく結婚することが当たり前になったように、世の中は変わるのです。まさに今、その変化の只中にあると、私は思うのですが——それに。
「でも、望まぬというのなら、無理強いはよくありません。それに、今の状況を見ていれば……その義務が、テネブラエを暗躍させる原因だと思うのです」
なぜテネブラエが将来の王妃を籠絡しようとしているのか。公的に認められたイヴの婚約者が王妃になると決まっているからで、結婚を義務とまで頑なに信じる貴族にとっては、それは変えられないのだという常識があるから、不貞をさせてでもと酷いことを考えて狙うのです。そしてプレツキ公爵令嬢もまた、婚約が嫌でも義務だからと受け入れ、その不満を晴らすために、不貞を考えついてしまう。
こうまで来ると、もうこの婚約はなかったことにしたほうがいいのではないか、と思うではありませんか。せめて、イヴや婚約する女性が納得いく形のほうがずっとマシです。
しかしながら、あのウォールドネーズ宰相閣下はそれを今のところ変えようとしていません。イヴもまた、変えようという意思はなさそうです。
ただ、イヴはその理由を、話そうとは思うようでした。
「お前は、アマンダを知らないからそう言えるんだ」
そう言われてしまうと、そのアマンダという女性自身を知らない私には、反論できません。ゴミや虫だらけの小麦粉袋を見たことのないイヴが、噂を信じなくても私の言葉を信じてしまったように、相手が体験して自分が体験していないことには、楯突くべきではありません。
「そう、なのですか?」
「ああ。典型的な貴族の令嬢、それも国内二番手と揶揄されてきた公爵家の娘。何としてでも王家の血を欲しがる、怪物のような醜い考えをしていることに気付いていない女だ。俺を見る目だって、愛する婚約者ではなく、自尊心を守り権力を手にするためのただの道具扱いだ。そのくらい、あの冷たい目を見ていて分からないわけがない」
いつの間にか、イヴは目を伏せ、握り拳を作っていました。それだけ苦しく、屈辱的なのだ、と言わんばかりです。
「ひどい言われようですね。でも、貴族の令嬢というのは、どうしてもそういう一面もあるのでしょうか」
「お前は違う、両親がよほど真っ当な人間だったんだろう。それに比べて貴族連中というのは本当に、救いようのないやつらばかりだ」
たとえアマンダと婚約破棄をしても、別の貴族令嬢だって同じだ。
イヴは吐き捨てるように、そう言いました。
抵抗するだけ無駄なのだ、どうしようもないのだ、と十三歳の少年は知っているようです。
それでも、私は——まだ、何か手はないかと、一生懸命考えます。
そこで、はたと思い付いたのです。
別の貴族令嬢だって同じ。
では、テネブラエに狙われているイヴとの婚約に不満を持ったプレツキ公爵令嬢、彼女はテネブラエの捕獲が成功したあと、どうなるのでしょう。不貞の廉で婚約を破棄されるのでしょうか、それとも未遂だった、抗えなかったのだと情状酌量をしてもらえるのでしょうか。
もしプレツキ公爵令嬢から婚約者を変えられるとしても、別の貴族令嬢だって同じことがあるかもしれません。テネブラエだけでなく、他国の密偵に籠絡されてしまう危険性は同じです。
となれば、この件に関わっている中で、もっとも状況を把握し、未来図を描いているであろうウォールドネーズ宰相閣下は、どのような結末を望んでいるのでしょうか。
どうして辿り着くべきゴールの先を、私はともかく当事者のイヴにさえ伝えてくれないのでしょうか。
「どうして、宰相閣下は」
私のそんなつぶやきは、イヴの強い言葉にかき消されます。
「いいか、エスター。お前は、貴族のことなんて知らなくていいんだ。これが終わったら領地に帰って、幸せになれ」
急に強く言われたものですから、私もそちらに気が取られて、今まで何を考えていたのかすっぽり頭から抜け落ちそうでした。
いえ、ちゃんと憶えていますよ。ただ、そちらよりも、私を気遣って、なんだか生意気なことを言っているイヴのほうが、優先順位が高くなったのです。
それに、イヴは紙の箱を開けて、バターロールパンをひとつ取り出し、割って片方を私の口へ押しつけました。
私はふかふかのパンに口づけをし、鼻にはバターの香りが襲ってきます。そのまま口を開いてかぶりつき、イヴの手からちゃんと受け取って、食べ切ります。
私の心配などよそに、美味しいパンは美味しく、心に幸せをもたらします。
イヴが私に幸せになれと言ってくれたから、そのようにしようと焼きたてのパンを分けてくれたから、私は今、心が躍るほどに上機嫌なのです。
パンの片割れを、イヴもぱくりと口にします。美味しかったのでしょう、顔が綻んでいます。
私は噛んだパンを飲み込んで、この気持ちをくれたイヴへ感謝を伝えます。
「お気遣い、ありがとうございます。えへへ、幸せになりました」
「そう、それでいい。焼きたてのパンを頬張って幸せになれる人間がいいんだ」
そうまで言われると、お返しをしなければなりません。
私は自分の持っている紙の箱から、シナモンロールパンを取り出して、半分にちぎり、イヴへ片方を渡します。
「はい、どうぞ」
面食らったのか、イヴは私の顔と半分のシナモンロールパンを何度か見比べて、それからやっと手に取ります。温かく、溶けたシナモンシュガーがパン生地に層を作っています。こういうのは、温かいうちに食べたほうが美味しいのです。
イヴは何口かに分けて、シナモンロールパンを食べます。噛み締めるように、溢れんばかりの甘みが生む幸福を感じるように、その顔はだんだんと、少年らしい自然な笑顔が浮かんでいました。
先ほどまでの嫌な気持ちは、吹き飛んでしまったようです。
「帰ったらこのあいだ作ったベリージャムがあるから、それも食べよう」
「はい。楽しみですね」
私たちは、パンの入っている紙の箱を開けたことがバレないように蓋をして、坂道を上りはじめました。
その幸せが、誰かを救えるのなら、どれほどいいでしょう。
そういう未来が私は欲しい、と思いました。
今日は18:00に第六話を投稿します。