第二話 イヴ王子とお話をしましょう
王都で滞在する場所は、ウォールドネーズ宰相閣下のおっしゃったとおり、ブレナンテ伯爵邸です。
伯爵邸とは言いますが、王都の住宅地の一角にあるただの一軒家です。我が家とは比べるべくもない、普通の家です。少しばかり他の家よりは大きいものの、貴族の邸宅と教えられると拍子抜けするような、ありふれた家です。
昨日の夜、このブレナンテ伯爵邸にやってきた私は、疲れていてそのまま寝室に案内され、眠りにつきました。私を案内してくれたミセス・グリズル、現ブレナンテ伯爵夫人グリズル・アルブレヒト・ブレナンテは、暖かく迎え入れ、ベッドと毛布と布団の間に私を放り込んで、おやすみなさいと優しく声をかけてくれました。ウェーブのかかった黒髪をまとめ、伯爵夫人というよりも働き者の商家の女主人のような、テキパキとさっぱりした雰囲気の女性です。私にとっては貴族よりも馴染みのあるタイプの方で、安心できます。
朝、起き出した私は、食卓にあるティーポットから注がれる薄い緑色の液体——お茶でしょうか、その正体を尋ねます。
「ミセス・グリズル、これは何ですか?」
すると、ミセス・グリズルは楽しそうにおしゃべりします。
「ああ、これはね、イヴ様のお好きなハーブティーよ。実はね、イヴ様はよくうちにも来られるのよ」
「え? 王子様なのに?」
「私の夫の父、義父の先代ブレナンテ伯爵がイヴ様の傅役の一人だったのよ。誠実な方でね、王家の信頼が厚かったの。イヴ様は義父を頼って、というか遊びに王城を抜け出して、ここでよくお茶会をしているというわけ」
なるほど、ウォールドネーズ宰相閣下が私へここを紹介したのは、ミセス・グリズル以外にも先代ブレナンテ伯爵、そしてその繋がりでイヴリース王子殿下と知り合えるように、ということだったのです。
一人得心がいって、私はハーブティーをご馳走になります。ミセス・グリズルは慌ててオーブンの前に戻り、グラタンの焼き加減を見ていました。
「今、先代ブレナンテ伯爵はどこに?」
「引退してからは郊外に畑を買って、そこで毎日野菜を作っているわ。日も昇らないくらい朝早くからね」
「へぇ、素敵ですね。うちの庭にも、子供用の小さい畑があって、兄とどっちが大きなキャベツを作れるか、って競争していました」
「ド・モラクス公爵家は自由でいいわね。あ、嫌味じゃないわよ。やっぱり、イヴ様もそういうことを経験したほうがいい、って義父も言っていたし、子供はのびのび育つべきよ。それに比べて、うちの子ったらちょっと頭がいいからって夫に連れられてシャルトナー王国へ留学させられちゃって……可愛い盛りなのに、一緒にいられないのはつらいわ」
はあ、とミセス・グリズルはため息を吐きます。昨日ウォールドネーズ宰相閣下から聞いた話では、現ブレナンテ伯爵は外交官だとか。その任地へ、留学名目で子供を連れていった、でもミセス・グリズルはウォールドネーズ宰相閣下からいつ召集があるか分からないし、先代ブレナンテ伯爵など家族を放っておくわけにもいかず、ついていけなかったそうです。
うーん、子供が母親と離されるというのは、一概にも言えませんが、母親にとってはつらいことでしょう。片や子供は親の目の届かないところで遊び呆ける例もなきにしもあらずなので、なんともですが。
熱々のグラタンを柔らかな朝日の差し込むダイニングでいただく、という優雅な朝食が済んで、食卓でくつろぎながら、ミセス・グリズルと他愛のない話をしていたときでした。玄関のほうからがさがさと騒がしい音がして、おーい、と家の中へ呼びかける男性の声がしました。
ミセス・グリズルはすぐに立ち上がります。
「あ、帰ってきた。はーい、今行きます」
「私も」
ブレナンテ伯爵家の誰かが帰ってきたようです。私もミセス・グリズルの後ろにくっついて、玄関へ向かいます。
ミセス・グリズルによって素早く玄関の扉が開かれると、両手いっぱいに青菜やハーブを抱えたハンチング帽の初老の男性が現れ、おや、と目を見開いていました。ズボンの裾や靴には土がついていて、一見して庭師か、と思ってしまいました。
「おお、その子が……オーレリアの娘さんかい?」
母の名を出されて、私は反応します。
「はい、オーレリアの娘、エスターと申します。母のことをご存じなのですか?」
「もちろんだとも。一緒に王城で働いていた仲だ、とはいっても彼女は辞めさせられてしまって、私は上司なのにオーレリアを守れなかったが」
王城で働いていた、母の上司。ああ、この方が先代ブレナンテ伯爵でしょう。後悔の念をあらわに、その様子に私はなんだか、胸が締め付けられます。ご老人が悔やむ姿というのは、とても悲しくなってしまいます。
その雰囲気を破ってくれたのは、先代ブレナンテ伯爵の後ろにいた少年でした。
「先生、そんな話は後にしてください。後ろ、つかえてます」
先代ブレナンテ伯爵を先生、と呼んだ私と背が同じくらいの、十二、三歳程度の少年——灰色がかった毛先に、焦茶色の髪をした、利発そうな男の子です——は、生意気にもそう言いました。
先代ブレナンテ伯爵はすぐに顔を上げ、後ろの少年に謝ります。
「おお、すまないね、イヴ。かぼちゃは台所に運んでくれ」
「分かりました」
イヴ、と呼ばれた少年はその手にオレンジ色の小さなカボチャをかごいっぱいに持っていました。お祭りで使うような大型のカボチャと違って、甘味があって美味しいカボチャです。
私たちの横を通り、イヴ少年はさっさと中へ入っていってしまいました。それを見ていた私は、はっと気付きます。
「イヴ? もしかして、あの子がイヴリース王子殿下ですか?」
「そうだよ。どうやら、恥ずかしがっているようだ」
「はあ、そうなのですね」
少々生意気でぶっきらぼうなのは、恥ずかしいから、なるほど、そうなのかもしれません。多分ですが、先生と呼ぶほど親しい先代ブレナンテ伯爵が落ち込まれていたから、イヴリース王子殿下ことイヴは状況を打開しようと、気を遣ったのでしょう。遣い方がいまいち不器用だったのは、まだお年が若いからでしょうね。
なんだか、悪い方ではなさそうで、私は安心しました。が、よく考えればウォールドネーズ宰相閣下と初めて会った昨日も同じことを思った気がするので、やはり用心しなければ。
などと思いつつ、ミセス・グリズルが先代ブレナンテ伯爵とハーブ類を仕分けしている間に、手持ち無沙汰な私は台所で小さいカボチャを布巾で拭いているイヴへ話しかけます。
「こんにちは、イヴ様」
「ん。お前がエスターか?」
「はい。短い間ですが、よろしくお願いいたします」
「分かった。パンプキンパイを作るんだが、お前も手伝ってくれ」
「はい、承知いたしました」
滑らかに話の流れで、私はパンプキンパイ作りのお手伝いをすることになりました。こう見えて私、料理はできるのです。太めの包丁を受け取り、分厚いまな板の上でカボチャを両断していきます。
それを見てか、イヴは感じ入ったようにこう言いました。
「公爵令嬢なのに、包丁が使えるのか……」
「そうですね、父のために私と兄は色々やりましたから。ああえっと、私の父は光に弱く外に出られない体質で、私と兄は外で面白かったものなどを父に伝えるために、父の前で作った野菜を見せたり、一緒に料理を作ったり、あとは光魔法を使ったゲームをしたり」
思えば、私は何一つ公爵令嬢らしくないですね。鉄製のスプーンでカボチャのわたを取りながら、子供のころの思い出の中を探しますが、公爵令嬢らしい記憶というのはまるで存在しませんでした。その原因は、ド・モラクス公爵家特有の事情にあるので、ただ悪いわけではないのですが。
「とはいってもですね、あまり年の近い他の貴族令嬢と会ったことはなくて、友達もいないのですよね……母が言うには、他の方に比べて、私は貴族令嬢らしくないそうですが、よく、分かりま、せん!」
どがん、と音を立てて包丁はまな板に振り下ろされ、カボチャは次々下準備を終えていきます。隣にいるイヴが勝手知ったるとばかりに蒸し器の用意をしていました。こちらも王子らしからぬ方ですね。仕方ありません、私は他人のことは言えないのです。
「種は天日干しして炒めるから残しておいてくれ」
「イヴ様も召し上がるのですか?」
「先生がよく作ってくれるんだ」
私とイヴは、下ごしらえしたカボチャを蒸し器に並べ、蒸し上がるまでカボチャのわたから種を取り出す作業に取り掛かりました。干してから炒って種を割って中身を出して、オリーブオイルと塩胡椒で炒めるのです。世話になっていた庭師たちがおやつに食べていたのを、私もつまみ食いしていたので、その味は知っています。香ばしくてカリカリとして、ひまわりの種と並ぶくらい美味しいのです。
それをまさか、リュクレース王国の王子様まで食べていたとは、世界は思ったよりも狭いなぁ、などと私はしみじみします。ただそれは、イヴも同じだったかもしれません。公爵令嬢がカボチャの種を食べるのか、と思ったに違いありません。
しかし、イヴはそんな変な公爵令嬢に、親近感が湧いたらしく、料理をしながら話しかけてくれるようになりました。
「なあ、エスター」
「はい、何でしょう?」
「テネブラエ、ってなんか……かっこいいよな」
しばしの沈黙、私は完全に理解しました。そうですよね、テネブラエ捕獲の一件、イヴも知っているのでした。
密偵、まるで冒険小説に出てくる女スパイ、推理小説に出てくる怪盗、そういうものは大衆にとってミステリアスで、まるで異世界の人間のようで、子供からすれば憧れさえも抱く存在です。それは——実は、イヴと同じく、私もちょっとそう思っていました。なので、正直に告白します。
「密偵って響きが、なんというか、私、王城で初めて耳にしましたが、ちょっとそう思いました。宰相閣下の手前、絶対言えませんが」
「そ、そうだよな! 密偵、か。ミセス・グリズルもそうだったらしいんだが、あまり話を聞けていなくて」
「聞きましょうよ、面白いですよ、きっと!」
「うん、今度、聞こう。でも、見えない特殊なインクで書かれた紙か。そんなものがあるなんて」
年相応に、イヴは興奮気味に語ります。それを見ていて、私はそれならば、と悪戯を思いつきました。とはいっても、昔やった二番煎じです。
台所の棚から、スパイス瓶を探します。シナモンスティックを一本、近くにあったレシピ用のメモ用紙を一枚、それぞれ拝借して、台所のテーブルに置きます。コップに水を汲んで、シナモンスティックの端を濡らしました。
それを、イヴは何も言わず、明らかに興味津々に見ています。私はマジシャンのように、格好つけてシナモンスティックを持ちました。
「水に濡らしたシナモンで、紙に文字を書きます」
さらさら、と水で『YVE』と大きく書いてから、私は右手をちょっとだけ濡れた紙にかざします。
ほの暗い光が、文字を照らし出します。白っぽく、『YVE』の文字がやっと読み取れるくらいにぼやけて光っていました。
「はい、できました。即席なので不鮮明ですが」
イヴは目を見開いて、マナー講師にお行儀が悪いと叱られそうなほど喜んで、あたふたしていました。
「光った! ど、どういうことだ? シナモンを光らせたのか?」
「いえ、ずっと昔に兄と遊んでいて見つけたのですが、シナモンや桜の葉には、見えるか見えないかくらいの暗い光を当てると光る成分があるらしくて、私程度の光魔法でもこういう遊びはできるのです。えへん」
私は鼻高々です。子供騙しの悪戯とはいえ、ウォールドネーズ宰相閣下にも褒められましたし、特技にしてもいいかな、とさえ思います。今までは十分に光魔法を使いこなせる母と兄のせいで、私は自分の光魔法の非力さに不満たらたらでしたが、ほんの少しの工夫だけでこうも喜んでもらえると、すっかり価値観が変わってしまうほど嬉しいのだと、私は考え至りました。
そんな改心した私はさておき、イヴはやっと落ち着いて、本題に戻りました。
「なるほど、このためにお前を呼んだのか」
「らしいですよ。どうせなら兄を呼んでくれればよかったのに」
「なぜ呼ばれなかったんだ?」
「多分ですが、兄は剣術馬鹿なので、頼みごとそっちのけで王城中の騎士に戦いを挑むからじゃないでしょうかね。光魔法で目眩しをするものだから剣術の先生にしこたま怒られていましたよ」
ド・モラクス公爵の嫡子である私の兄、レナトゥスは類い稀なる剣術馬鹿です。私の双子の兄なのですが、昔から時々家出して騎士に戦いを挑んだり剣術を習ったりしては家に連れ戻される、という放蕩っぷりを発揮していました。しょうがないので父が剣術の盛んなクエンドーニ王国から剣術の達人を師匠として招いて、今は大人しく訓練に明け暮れていますが、その師匠に勝つためにと剣を盛大に光らせて勝とうとしたため、本気になった師匠に無様に負けた挙句に思いっきり叱られていました。
そのことを話すと、イヴは笑いを堪えきれない様子でした。
「ぷっ……お前の兄、面白すぎないか」
「不肖の兄ながら、はい」
よほど、イヴの笑いのツボに入ったのでしょう。イヴは上機嫌で、蒸したカボチャをくり抜いて潰しながら、ずっとしゃべっていました。今日初めて会ったとは思えないほど距離が縮まっていて、私も愉快です。
よかったねお兄ちゃん、公爵令息らしからぬしょうもない兄だと常々思っていましたが、こんなことには役に立つようで何よりです。