さよならは迅速に
綾乃はあれからできる限り婚約者にほんの少しだけ興味を持っているように接した。
成績を褒め、有馬の功績を称え、ついでに最近のお気に入りの女性の事も褒めておいた。
にも関わらず、あれ以来婚約者は月に一度の訪問時の最後に決まり事のようにキスをしてきた。
キスは不愉快だがこの際どうでもいい。
それよりも大きな問題があるのだ。
最近、週に2、3度、端末にメッセージが入るようになった。
大抵が“今なにしてる”と“今から来い”だ。
この二つが最近の綾乃のストレスなのである。
「メッセージが入る度に、鈍器で殴りたくなるの。今なにしてる、ってなに? どうでもいいじゃない。息してるわよ。今から来い? そんなに暇じゃないのよ」
怒りに身を震わせる綾乃に公香はなんとも言えない表情になる。
「浮気をすると好感度が上がって、連絡をすると好感度が下がるってなんなのかしら…」
「だって私に興味が無いから光一様が理想的な婚約者だと思っていたのよ? 最近の光一様にはガッカリよ」
綾乃は憤慨して今にも泣きそうに俯いた。
その姿は恋に悩む乙女のようでもある。
公香は相談内容との落差になんとも言えない表情を浮かべた。
「うーん。じゃあお祖父様も死んでるんだし婚約解消しちゃえば?」
「え?」
一族で絶対権力を持っていた祖父は、一年前に病気で亡くなった。
それから両親が綾乃に何度か婚約解消をしてもよいと言ってくれていたが、あの時はまだ婚約者が綾乃を絶賛放置中だったし、改めて相手を探すのが面倒で断ったのだ。
それにやはり有馬家と縁が繋がれば、実家にとって大きな利益になる。
しかしここに来ての公香の言葉に、目からウロコが落ちたように綾乃はパチパチと瞬く。
「婚約、解消……」
“今なにしてる”
“今から来い”
メッセージが届く度に、苛立ちは募った。
知らんがな、そんな言葉が何度もよぎった。
「解消したら、もう何してるって、聞かれない?」
「聞かれない聞かれない」
「今から来いって言われて、一時間かけて断る内容考えなくてもいいの?」
「いい…断ってたんかい」
「あとあのしつこいキスされなくてすむの?」
「いい、いい。されそうになったら潰してもいいくらい」
うんうんと頷く公香に、綾乃は瞳を潤ませて「ああ!」と叫ぶ。
「私、婚約解消するわ!」
「良かった良かった。じゃあこれ、あげる」
パチパチと手を叩いた公香が鞄から分厚い封筒を取り出してテーブルにそっと置いた。
「なあに、これ」
「あのクソの濃密な女性遍歴の証拠よ」
公香はにんまりと悪どい顔で笑った。
「綾乃は解消する気ないって言ったけど、人生何があるかわからないじゃない。いざという時のために調べさせてたのよ。これ持って史彦おじ様のところに行けば、恙無く解消できるわよ。その中身を見せたら有馬も頷かざる得ないわ」
パチンと片目を瞑って笑った公香に、綾乃は思わず立ち上がって抱きついた。
「ありがとう公香…! 本当にありがとう…」
そんなつもりじゃなかったのに、綾乃は涙を流していた。
それほどまでにここ最近の光一の行動が綾乃にとってストレスだったのだ。
満足行くまで公香に抱擁をした後、綾乃は父の元に婚約解消を願い出た。
咎められるどころか今まですまなかったと謝罪され、一週間もかからないうちに有馬の元に話がいったようだ。
公香の用意した封筒の中身が相当に濃かったのか、有馬も今回の件に関して謝罪でもって解消となった。期間にすると2週間。婚約期間を考えるとかなりのスピード解消となった。
両家の婚約解消はすぐに学園にも社交界に広がったが、光一の女好きは既に有名だったので、さもありなんと大抵の人間は納得していたようだ。
「うふふ。これで迷惑極まりないメッセージからおさらばね。ブロックしてやったわ!」
「良かったわね」
満足げに微笑む綾乃を公香が嬉しそうに見つめた。
「ぜんぶ公香のお陰よ。本当にありがとう」
公香の用意した分厚い書類が大活躍したのは言うまでもない。
「いいええ。私もあの横暴変態クソ野郎を見て殴りたい衝動に駆られるのを我慢しなくてよくなるからね。ほんと、何百回我慢したことか」
「最近まで私は平気だったけれど」
「それはそれ、これはこれよ。綾乃が平気なことと、私が腹を立てるのは別の問題。男としてっていうか、人間としてあのクソ野郎が嫌いなのよ私はね」
フンッと鼻を鳴らして紅茶を一口飲むと、公香は意地の悪い笑みを浮かべた。公香は大人びた美人だから迫力がある。
「アイツ、有馬の御当主様から相当なお叱りを受けたみたいよ。ま、今の今まで散々息子を好きにさせといて今更って感じもするけど」
「そうなの?」
綾乃はコテンと首を傾げた。有馬の両親は綾乃の事をいたく気に入っていたが、それは従順な綾乃が都合良かったからだろう。最初こそ光一の所業を咎めていたが、綾乃が口答えしない事に慣れてここ数年はすっかり放置していたのだ。
「ええ。2週間の自宅謹慎を命じたのですって。だからこの1週間、学園にいなかったでしょ、アイツ」
「興味なさすぎて気が付かなかったわ」
公香に言われて「そういえば」ともならないくらい気が付かなかった己に綾乃は呆れた。
自分は最初から最後まで元婚約者にミジンコほども興味が持てなかったようだ。
「そうかなと思ってたけど、こうして聞くと呆れるわね。でももう少ししたら戻ってくるから気をつけた方がいいわよ」
「? どうして?」
公香は呆れを滲ませながらも真面目な顔で綾乃を見つめた。
「あのクソ野郎があんたに執着してるから」
「執着って…嫌われてただけよ」
「いいえ。気持ち悪いくらい執着してるわよ。ここ最近の話を聞いてたら余計にそう思う。とにかく学園では信用できる人と常に一緒にいた方がいいわ」
「そこまでしなくても大丈夫じゃないかしら?」
元々面倒が嫌いな綾乃は納得できずに唇を尖らせる。公香なら四六時中いても煩わしくないが、基本的に綾乃は一人静かに過ごすのが好きなのだ。
「万が一襲われたらどうするのよ。責任取ってまた婚約するって言われたらまたメッセージ地獄が始まるのよ」
「それは嫌。それだけは嫌」
即座にキッパリと首を振る綾乃に公香は呆れた視線を投げた。襲われる事よりメッセージ地獄に反応したのが伝わったからだろう。
「ね、嫌でしょう? それで私、良い方法を考えたの」
「良い方法?」
「うん。綾乃、偽装婚約からの偽装結婚に興味ない?」
にやり、と公香は笑みを浮かべて綾乃を見つめた。