迷惑きわまりない婚約者
「お前は気味が悪い」
月に一度の有馬家訪問時、婚約者が吐き捨てるように綾乃を見下ろした。
綾乃はいつもと変わらず「至らぬ振る舞いをして申し訳ありません」と頭を下げた。
「いつもそれだ。まるで人形のようにお前は俺に反論しない。他の女と何をしようと諌めもしない。何が目的だ」
「反論が無ければ反論する必要はありませんし、咎める意思が無ければ諌めもしません。それだけの事です」
綾乃がそれだけ言うと、婚約者は綾乃の髪を掴んで顔を上げさせた。
「気にくわない、お前は俺の下なのに、なんでそんなに偉そうなんだ」
婚約者の問いに綾乃は首を傾げた。
「私は光一様に歯向った事はございません」
「ーーその、目だ。目が気にくわない」
目、と言われても。
綾乃は面倒だったので瞳をつい、と閉じた。
「それでは光一様とお話しする際は目を閉じることに致します」
やはりどこまでも綾乃は婚約者に興味を持てなかった。
それならば言うことを聞いていれば良い。
そう考えての行動だったが、婚約者は綾乃の予想外の行動に出た。
「ーー……」
唇に何かが当たった。
“何か”がなんなのかは検討がついたが、何故婚約者がそうしたのか理解ができなかった。
不愉快さに唇を固く閉じれば強引に顎をひかれ、柔らかなものが口内に侵入してくる。
抵抗しようとした腕は簡単に抑えられ、執拗に唇を重ねられた。
「ーーっはあ…」
ようやく相手の攻撃が止んで、綾乃は息を乱して俯いた。
なんのつもりだろうか、戸惑いよりも疑問が沸き上がる。
「ふん、つまらない。こんなものか」
不機嫌な婚約者の呟きに綾乃はホッと息をつく。
「それは至らず、大変申し訳ありません」
「……」
俯いているから婚約者の表情は分からない。
それでも空気が冷えているのは確かだ。
「ちっ」
婚約者は何が気に入らなかったのか、舌打ちを一つして部屋から出て行った。
「……なんなの」
綾乃は震える手を握りしめながら呟いた。
突き飛ばすくらいなら今まで何度もあった。
しかしこうして、まるで恋人同士のようなスキンシップをしてくるのは初めてだ。
まさか自分に興味が湧いたのでは、そう考えるだけで背筋が凍る。
どの道結婚をすれば子供を作らなければいけない。その覚悟もできている。
だが万が一、どういう感情にしても執着心を持たれてはかなわない。
それを考えただけでゾッとしてしまい、暫く震えは治らなかった。
ーーーー
「そんなわけでキスされたのだけど、どう思う?」
「えー…」
綾乃が相談したのはもちろん従姉妹の公香だ。
公香はサッパリとした美人で綾乃と違ってよくモテる。
自由恋愛主義の彼女は既に何度か良い人を見つけているはずだから参考になるだろう。
「ていうか、なにあいつ綾乃に手え出してんの。クソのくせに…」
物騒な呟きをしてから公香はまじまじと綾乃を見つめた。
「あのバカ男、綾乃が一ミリも自分に興味を持たなくて腹を立ててるんじゃない? プライドエベレストだから」
「…なるほど」
公香の言葉に綾乃は納得した。
「最近以前にも増してどうでもよくなっていたの。それが漏れていた、という事ね」
「綾乃の無関心に上限が無かった事には驚いだけど、そういうこと。全部とは言わないけど大抵の男って下半身で生きてるから、自分の言うことを聞かない女にはそうやって力の差を見せつけるのよ。死ねばいいのに」
「あら、公香。私は目の前に現れさえしなければ、別に死んでなくてもいいのよ?」
「なんとなく綾乃の方がひどい気がするんだけど」
「そんなわけないじゃない」
綾乃はころころと笑って身を乗り出した。
「ところで公香、5ミリくらいは興味あるフリって、どうすればいいのかしら?」
「とりあえず、言いなりをやめたら」
「……そうね」
「すごいテンションの下がりようね」
「面倒なんだもの…」
綾乃はとにかく、人間関係にまつわる面倒事ーー特に恋愛という不明確なものに振り回されるのが嫌いだ。
恋の駆け引きなどどうでもよい。一緒にいたいならいればいいし、嫌なら離れればいい。
それを自分がしなければならないと考えるだけで面倒臭さで憂鬱になる。
「…でもそうも言ってられないわね。こらからも放置してもらうためには努力が必要だもの」
「放置してもらうための努力ってなんなの…」
公香の問いかけは聞こえないフリをして、綾乃は拳を握りしめて己を鼓舞した。