旅人と商船
上も下も、無限に続く雲と空。周囲を見回すと、彼方に胡麻粒のような大きさで、島が浮かんでいるのが見えた。
雲間を征く、暗い赤色をした影。ジェインという名のドラゴンである。
ジェインの背に乗っているのは、リィルアという名の青年。彼はジェインと共に旅を続けてきた。
リィルアは、ジェインの背につけられた鞍に跨り、手綱を掴んでいる。しかしジェインを繰る素振りは全くなかった。
俯いて目を瞑り、ドラゴンに乗っている筈なのに船を漕ぐような動きをしている。
「おい……おい、リィルア?」
背の上を一瞥したジェインが、その低く、ともすれば威圧感すら感じさせるような声で、リィルアに声をかける。
声に反応して、リィルアが目をあけた。
「なんだい、ジェイン? 次の島まではまだ時間があると思うけれど」
リィルアはジェインの頭部をのぞき込むように身体を前に倒し、その硬い首筋を撫でる。
居眠りを隠そうとしているのは、明かだった。平静を装うとしているものの、声色に眠気が混じっている。
「今、寝ていただろう。何度も言っているが、騎乗中の居眠りは危険だぞ。突然風でも吹いて落ちてしまったらどうする」
居眠りを取り繕えず、リィルアは思わず苦笑した。
「バレてたかあ」
「当然だ。これで何度目だと思っている」
「気を付けてはいるんだけどね。僕にとってこの鞍はどうにも居心地がいいみたいだ」
ポンポンと自分が乗っている鞍を叩くリィルア。
「フン……。くれぐれも、油断はしないでくれよ」
「任せてよ」
リィルアの言葉は、ジェインにとってあまり信用できるものではなかった。
それを裏付けるかのように、数分の無言の後ジェインが再びリィルアを一瞥すると、リィルアは船を漕いでいる。
まったく、という言葉を飲み込んで、ジェインは飛ぶ速度を少し落とした。風の音が弱まる。
少し傾いた太陽が、丁度よく二人を温めていた。天気も良く、長閑な午後である。
次にジェインがリィルアを呼び起こしたのは、それから数刻程経った時だった。まだ日は十分高い位置にあるものの、もう少ししたら空が赤くなり始めるような時間だ。
前方に、飛行艇が飛んでいた。それも、下部にジェインが留まれるようなデッキがついている、かなり大型のものである。
「商船だね」
「そうだろうな」
「どうする? 休憩できるか、交渉してみる?」
「そうだな。次の島まで、思ったよりも遠そうだ。夜も飛ぶことになりそうだし、そうしてくれると有難い」
「わかった」
ジェインは飛行艇と並行して飛んだ。
飛行艇の窓から、こちらに手を振る人影が見える。
リィルアがそれに手を振り返すと、下部のデッキに人が降りてきた。
デッキに降りた人影が、リィルア達の方に手を振る。
それを確認したジェインが、デッキへと着陸した。
「ようこそ、旅の方」
デッキにて二人を迎えたのは、若い男。両手を広げ、歓迎の意を表していた。
リィルアは彼と軽く挨拶を交わす。そして、暫くの間休ませてほしいという旨を、男に伝えた。
「そういうことであれば、ぜひゆっくりなさってください。実はこのデッキ、立派なのはいいものの、今は使う人がいないのです。そちらのドラゴンさんは、楽に過ごしていただいて結構ですよ」
男の好意に、リィルアが礼を言った。
「今はということは、昔は使う人がいたんですか?」
「ええ。実は昔、私達はドラゴンや小型の飛空艇を複数従えた、商船団だったのです。それが最近はあまり景気が良くなく、一番大きいこの船以外は、飛空艇も、ドラゴンも売り払ってしまいました」
「なるほど。大変な状況だったんですね」
「そうですね……。ただ、商船が気合を入れるのはこういう時だと思っています。いずれは、昔のような大船団を従えてみせますよ。……ああ、そうだ」
会話の途中で、男は何かを思いついたらしい。軽く握った右手の拳で、左手を打つ。
「もしよければ、暇つぶしに私達が持っている商品を見ていかれませんか? あんなことを話した上でとなると、買わなければという気を使わせてしまうかもしれませんが……」
リィルアは、返答を少し考えた。
二人の会話を眺めるジェインは、特に何も言うことなく、身体を丸めるような姿勢でくつろいでいる。
「ぜひ見てみたいです。商人とのおしゃべりなら、それが一番楽しいでしょうし」
リィルアの返答を聞いた後、男は少し待っていて欲しいと言い、船室に上がっていった。
待っていると、船室の床、デッキの天井となっている部分の一か所が、デッキに向かって降りてきた。重量物運搬用の昇降機だ。
昇降機には、先ほどの男と、小型の飛行艇らしい機械が乗っていた。
「お待たせしました」
リィルアは、昇降機の傍に歩み寄った。
「これは、飛行艇ですか?」
機械をじっくりと観察する。少し古びている感じがするものの、表面はピカピカに磨き上げられていた。
全体のフォルムは、四角形だ。四隅の部分が丸くつきでていて、その内部にプロペラがついている。四角形の中央に、操作盤や椅子が乗っかっていた。一人で乗ることを想定したものらしい。
「その通りです。私達がこれまでに仕入れた一人用飛行艇の中でも、最も軽量で、最も小さなものになります」
男が説明をしている時、徐にジェインが首を持ち上げた。
「なあ」
「ん、どうした、ジェイン?」
「どうしてこいつに飛行艇を紹介しているんだ? こいつの足なら、ずっと俺が務めるつもりだぞ」
ジェインの言葉を聞いて、リィルアは微笑んだ。ジェインの許に数歩近づき、彼の前脚の付け根辺りを撫でる。
「安心してよ。僕も君以外に足を任せるつもりはないって。彼らが一番自慢したい商品が、たまたま飛行艇だったってだけだよ」
それを聞き、ジェィンはフン、と一言漏らして、元の体勢に戻った。
「な、なんというか、申し訳ありません」
ばつが悪そうな男。
「気にしないでください。……それにしても、随分変わった形の飛行艇なんですね。プロペラと操作盤が無かったら、飛行艇だとは思いませんでしたよ」
リィルアの言葉を聞いて、男は一気に明るい表情になる。
「そうなんです。とある国で開発された、全く新しい飛行艇なんですよ。軽さや小ささはとても魅力的で、きっと流行ると思い仕入れたんですが……」
「売れなかった?」
「そうなんです」
男は、苦笑しながら頬を掻いた。
「値段はどれくらいなんですか?」
「ええと……」
提示されたのは、リィルアのような食い扶持の少ない旅人でも買えるような、非常に安い値段だった。
その値段を聞き、リィルアは黙り込んだ。飛行艇をじっと見つめ、何かを思案している様子。
ジェインが、またイライラした様子で首を持ち上げた。そして今度は、少し移動してリィルアに顔を近づける。
「何を悩んでいるんだ? こんな飛行艇、俺の代わりにはなれないだろう……」
ジェインが言い終えるよりも前に、リィルアはジェインの頬にそっと手を添えた。
「ごめん」
微笑んでいるような、少し困ったような、何とも言えない表情で、リィルアは言う。
その顔を見て、ジェインは口を噤んだ。
リィルアは、男に向きなおる。
「この飛行艇、一隻僕に売ってくれませんか?」
暫くして、リィルアとジェインは二人旅を再開していた。
商船が離れるまで、二人とも口を閉ざしたまま。
リィルアが購入した飛行艇は、リィルアの後ろ、鞍のすぐ尻尾側に括りつけられていた。
「ごめん」
商船が小さくなった頃、リィルアは先ほどと同様の言葉を、ジェインに投げかけた。しかし今回は、本当に申し訳なさそうな表情をしている。
「まったくだ」
ジェインの不機嫌そうな声。
「実は、これを買ったのには考えが……」
「そんなこと、あの顔ですぐにわかった」
「……え?」
リィルアはジェインの顔を覗き込もうとした。しかしジェインはリィルアに一瞥もすることがなかったので、ジェインの表情を窺うことはできない。
「俺があの顔で分からない筈ないだろう。あれは何かを企んでいる顔だ。それよりも、あんな顔をしながら俺に謝ったのが腹立たしい。お前はまだ、俺をその程度だと思っていたのか」
暫く、風の音だけが流れる。
リィルアは、きょとんとした、とても間抜けな顔をしていた。そして、軽く笑みを浮かべる。
「それはごめんよ、もっと信用してあげるべきだったね」
そういって、ジェインの首を撫でた。
「それで、何を企んでいたんだ?」
「ああ、そうそう。それに関連して一つお願いなんだけれど」
「なんだ?」
「前の国に戻ってくれない?」
「わかった。が、戻って何をするつもりだ?」
「それはね……」
リィルアは振り向き、飛行艇に手を触れる。
「これを解体して、部品を売るんだ。あの国、飛行艇を作る金属が足りないって言ってたから、高く売れる筈だよ。これを買ったお金を取り戻せて、龍具一式新丁できるくらいはもらえるかもしれない」
フン、というジェインの声。しかしこれまでと違い、感心したようなものだ。
「やはり計算が早いな。丁度龍具が古くなってきて、不便になってきた頃だ。新丁は助かる。いい金儲けだな。大満足だろう」
「うん。でも僕としては、お金よりも……」
続く言葉は、ジェインの耳にだけ届き、風の中に消えていった。