ランナーズ・ハイ フラッシュバック
記録会当日。空は晴れ渡り競技場の観客席は
生徒とPTAの皆様で埋まっていた。
静香は友人と芝の敷きつめられた観客席にシートを敷き
いつものようにゆっくりと時をすごしていた。
記録会はすでに始まっており競技も始まっていて
何度もスタートを告げるピストルの音が響いていた。
さっきから国立が何度も全速力で通り過ぎる。
他の男子が適当に流してるなか一人だけ全力だ。
…へぇ、100mも、400mでも全く同じフォームなんだ。
ちゃんとペース配分練習してんだ。
…あれー1000mにしてはペースが速すぎる。
少しペース配分、失敗してんじゃないのかなー。
…ゴールした後、倒れちゃって。やっぱ無理しすぎなんじゃ?
…って、あれ国立の事ばかり見てる!?
…でも、なんだろ嫌な気分じゃない。不思議な気分。
見てるだけなのに ランナーズ・ハイって…
自分が走っているわけじゃないのに
誰かが頑張っている姿に入れ込むなんて
いつぶりだろう。
高校に入ってからは離れていた陸上
”カラ回りを招くだけな暑苦しい無駄な感情”
とすら思えるようになっていた
”情熱”とかいう最早、死語に近い単語で表現される情感
それが何故か心に蘇ったような感じすらする。
突然、客席から大きなどよめきのよう声が聞こえ
反射的に反応して皆の視線の先を追うと
人の隙間から国立がトラック上で倒れているのが見えた。
彼はゆっくりと起き上がると再び走り出した。
ゴールするまで見守っていたが走り方は不自然だった。
静香は国立の所に向かった。 その姿はすぐに見つかった。
ゴール地点から少し離れた人気のない客席と
トラックを挟む壁にもたれかかるように座っていた。
彼の姿を見つけたものの、何も言いだせず見ていた。
さっき転んだ時に足首を痛めたのだろう
何度もその箇所をマッサージしている。
彼は顔を少しゆがめながらゆっくりと立ち上がった。
でもすぐにバランスを崩し壁にもたれかかる。
…派手に転んだんでしょ。
だったらもう少し大人しくしてりゃいいのに。
…あれだけ連続して走り続けたんだから回復には時間がかかるのに。
…それより、まず冷やさないと。
えっとたしか臨時の保健室ってたしかこの辺にあったよね?
…ってなんで私がそんなこと。
だったら なんで そもそも こんなところに…あっ!!
彼はまた性懲りもなく無理に立ち上がろうとしたため
バランスをくずして壁にもたれかかる。
それでもまだ彼は立ち上がろうとする。
「あ!! じっとしてなってば!!」
駆け寄ると静香はふらつく彼の二の腕をつかんで彼を支えた。
いきなり現れて自分を支えてくれた静香に
ひどく驚いた様子で目を全開にあけて見ている。
「あの…? どうしたの?」
この男ときたら助けてあげてるのに何をそんなに怯えているのだろう。
「いいから早く座って。足痛いんでしょ。ホラッ早く」
「うん ありがとう」
彼は言う事に素直に従うとその場に座り込んだ。
「いい? 今から保健の先生に言って氷袋貰ってくるから 大人しくしてて」
静香は それだけ言うと早歩きで保健室のほうへ向かった。
「冷たい…」
「当たり前でしょ?氷なんだから。
それよりこのぶんなら少し休んで冷やせばすぐによくなるわよ」
国立の足の具合はそれほど悪くはなかった。
ただ転んだ拍子に軽く足をひねっただけで
冷やしておけばすぐにでも走れる程度のものだった。
「随分こういうの手馴れているんだね。すごいね」
感心した様子で私の応急処置を見ていた。
「お世辞ならいいわよ。
そのスパイクだって人気モデルのやつでしょ」
静香は言った瞬間「しまった」と思った。
今まで誰にも陸上をやっていたことを悟られないようにしていた。
理由は言いたくない。ただ誰にも知られたくない。
御嬢様、お坊ちゃまだらけの、お上品なこの私立高校で
真っ黒に日焼けしていて女なのに男らしかった中学時代のことは…
「へぇーすごいね!! そんなことまでわかるんだ」
「…」
国立は無邪気に笑いながら言葉を続ける。
「あっ!もしかして中学の時、陸上部だった?
でも残念だったね。うちの高校男子陸上部しかなくて」
静香の心に中学の時に味わった嫌なイメージが蘇った。
国立の言い方が、たまたま男尊女卑な差別意識が丸出しだった
中学時代の陸上部顧問と同じような言い方に聴こえたからなのだが
そんな悪意を元にした言葉なのは理解していても
その嫌気が顔に丸出しになるのを自覚するほどの拒絶反応は抑えられない
立ち上がり彼に背をむけ、嫌なイメージと同時に心に浮かんだ言葉の暴力を
口にしてしまわないように急いで、この場から去ろうとした。
国立は急に変わった顔色と、突然の凍りついたような空気感に
”え? 俺? 何か? 悪い事を言った?”
と言いたいかのような顔で、急な不機嫌の原因がわからずオロオロとしている。
「え? ちょ、ちょっと待って! うぁぁ!!」
後ろから彼の奇声に近い叫び声につい静香は驚いてしまい後ろをむいた。
振り向くと彼は「べちゃ」っという感じで地面に無様に倒れていた。
今度は彼に手を差し伸べる事はなく ただ黙って彼を見下ろしていた。
「変なこと言った?」
静香は何も喋る気にならず押し黙っていた。
「ゴメン 嫌な思いさせるような言葉を言ったのなら謝るよ?…」
眼の前が真っ白になって、喉元まで出てきた言葉の暴力が
脳裏に浮かんでは消えてゆくのが収まらない
そういう言葉で心が冷え切ったせいか暗い考えが思考を支配する。
…私の何が アンタなんかに わかるってぇの? 何を見てるの?
女に見える記号的な所? わかった事を言うだけ言って
女だからで相手の言う事を聞く気が無い奴らと同じなんだろ コイツも
瞬間的に蘇った昔、感じた怒りのようなものが治まらない
そんな感情に囚われているのを打ち消すかのように国立が言う
「絶対かんばるから! 最後のリレー絶対がんばるから!
走れるようにしてくれたから!!」
その言葉で湧き上がった怒りが消えてきた
もとより、中学時代のトラウマが原因の理不尽な怒りなのだ
それと同時に別の感情が湧いてくる。
…まだ痛いだろうにリレーって。ホントに陸上馬鹿なんだな
なんだろう この良い意味での初心を失っていない感覚
自分が、そんな初心を失ったから うらやましいのかな?
そんなような言葉に代わり
「…あと一時間は足を冷やしておきなよ」
表情を変えずにその場に座り込む彼にいう。
「リレー頑張ってくれるんでしょ?だったら足ちゃんと冷やして!!」
競技場内に優しい風が吹き込む。 心の中の暗いもやが徐々に薄らいでいく。
「それじゃ私は行くから。いい?無理して冷やすの怠ったら駄目だからね」
「う、うん!!約束する!! リレー絶対がんばるから!!」
…もう それはいいって。でもなんだろうこの気持ち。
なんか懐かしい。歩く途中でトラックを見る。
そこには間違いなくかつて大好きだった場所がそこにはあった。
「…がんばりなよ。せっかく手当てしてあげたんだから」
木陰の下に座り目をつぶる。風がさっきより心地よく体を吹き抜ける。
目を少しだけ開くと遠くの方に国立の姿が見えた。
こちらに気づくはずはなく、腰を下ろし足首を冷やしていた。
何となくその光景が懐かしいようで微笑ましかった。
ふと国立の姿を見ていると疑問が静香の中に生まれた。
”私は本当に陸上が嫌いなままなのだろうか?
あの時から だいぶ時が流れた。
もし今なら 私も美しくすら思える初心を取り戻せるかもしれない。
そんな心に少しだけ光が差し込むと同時にやはり心の暗い部分がまた顔を覗かせる。
”どうせ女のくせに” とか、”たかが女のくせに” とか
露骨な女性差別丸出しだった中学の陸上部顧問の言葉と
人を嘲笑うような態度が蘇り怒りのようなものが沸き起こる。
”奴のような人間との人づきあいも復活させざるを得なくなるのか”
というような暗い暗い感情だ。自分でも嫌になる。
国立は確かに今まであった陸上選手の中では素直で
馬鹿すぎるほど陸上に対しては真っ直ぐだ。
けれど知っているのは少し知った国立の陸上への思いだけ。
そんな純真な子供じみた感情なんか、ほとんどの人間が失ってしまうものなのに
高校生で持ち続けている事が驚きなのだが
そんな暗い考えを払うように軽く深呼吸をして目を閉じる。
顔を思い出すと怒りしか湧いてこない中学時代の陸上部顧問の顔が薄れ
さっきの国立の顔が浮かんで強く浮かび上がる。
さっき何故、二人が重なったのだろうか?
こんなにも年齢も、外見も、声も違う、同じなのは男なくらいの二人なのに。




