1ー6 前へすすめ
店の扉を開けると、コーヒーの良い香りが一気に押し寄せてくる。さらに、店内ではジャズが流れ、気分を落ち着かせてくれる。
「 いらっしゃい 」
黒いエプロンを身に付けたおじさん。いや、おじ様といった方が合っているダンディーな風貌。この店のマスターだ。丸いメガネの奥からは優しい眼差しが向けられている。
「 マスター、いつもの二つ 」
テーブル席には、先客が三人程いた。その間をすり抜けながら注文をする千里先輩。私達は店の奥にあるカウンター席に座る。
マスターの目の前、このカウンターが昔からの決まった場所。
「 はいはい、いつものね 」
そう言って、マスターは奥に消えていった。
「 それで、なんかあったの? 」
なにかを見透かしたかのように先輩は聞いてきた。
「 やっぱり、先輩には叶わないです 」
「 違う、あんたが分かりやすいんだよ。何かあると、すぐ私をここに誘う 」
そう言って、水の入ったコップを口元で傾ける。
「 えぇ、そうですかね? 」
私は、少し声を出して笑った。そして、昨日あった出来事、それから私の今の気持ちを全て話した。
「 つまり、一度は逃げたけど、また声優として頑張りたい、だけど後ろめたさがあると 」
「 それに、昨日の出来事で頭の中がぐちゃぐちゃで。あの二人に顔向けできなくて…… 」
「 とんだ馬鹿野郎だな 」
「 ですよね…… 教師失格ですよね 」
「 はぁ~ そういうことじゃなくて____ 」
「 はい、お待たせ 」
熱々の鉄板にのった、いつものハンバーグナポリタンが二人の前に置かれた。
「 いただきます!! ____つまり、お前は考えすぎなんだよ。そりゃあ、今の生活はそこそこ楽しいから、手放すのがもったいない気持ちも少しはわかる 」
フォークで綺麗に巻いたナポリタンを一口頬張る。
「 あつっ… ほっ、ほっあ… でも、やりたいならまたやれば良いじゃん。元声優だって事実なんだから、もっと自分に正直になれよ 」
「 でも、そんなの…… 」
「 だーかーらー、そういうのが考えすぎって言ってんの!! あれだ、少しわがままになった方が良い 」
「 わがまま? 」
「 そう、わがまま。花の二十代、好きなことしないでどうするのさ。三十路の先輩からの助言だぞ~ 」
先輩はそう言って、鼻で笑いながハンバーグを口に運ぶ。
「 そうだよ沙月ちゃん。君は、今までいろんな経験をしてきた。その経験の中で、なにが一番楽しかった? 」
マスターの言葉が胸を締め付ける。
「 確かに、好きなことだけじゃ生きていけない。大人になればなるほど、現実を突きつけられる。でも、チャンスがあるのに後悔したままは違うと思わない? 辛くても、いつか報われるかもしれない。諦める人生なんてつまらない、なんでもやってみなきゃ。今の私みたいにね!! 」
そう言って、マスターはメガネをクイッとやった。
「 諦める人生はつまらない…… 」
『 『 い い 加 減 前 に 進 め よ !! 』 』
あいつの言葉が頭の中を通りすぎる。
本当は、もう一度声優として頑張りたい。
演技の仕事がしたい。
声の仕事がしたい。
やりたい!!
やりたい!!
『 『 二 人 で 業 界 を 引 っ 張 ろ う ね !! 』 』
「 一緒に仕事がしたい…… 夢の隣で…… 」
気付くと私の目から涙が溢れていた。二人の言葉に、胸に残っていた滞りが薄れていく。
「 千里先輩、マスター、ありがとうございます!! 私わがままになります!! 」
「 それで、良いんだよ。ほら、涙拭いて早く食べな。せっかくの料理が冷める 」
先輩がハンカチを渡してくれた。その様子を見てマスターは微笑んでいる。
「 そうですね!! いただきます!! 」
涙を拭い、マスターお手製のハンバーグナポリタンを頬張る。
「 ど、どうした。また、そんなに泣いて 」
「 美味しい…… 」
あの頃と変わらない味。心に染みる懐かしい味。
私、先輩、マスター、そして親友の四人。あの頃の思い出が溢れだす。
「 そりゃー、マスターの料理は美味しいよ!! な、マスター 」
「 もちろん、昔から腕に縒りを掛けて作ってる、自信の料理達だからね 」
二人のくだけた会話に、私は嬉しくなる。
二人がいてくれて本当に良かった。
待ってて……
私、もう一度頑張るから!!
『 よかった 』
『 前に進めたみたいだね 』
『 頑張ってね、本当の私…… 』
いま、誰かの声が聞こえたような。
そして、この日を境に夜な夜な彼女は、一切現れることが無かった。