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8.翌朝

「失礼致します、夏蓮様。おはようございます、朝でございますよ」

「ん、ぅ……? うん……おはようございます、花媛(かえん)


 夏蓮は寝台から、起こしにやってきた花媛に声をかけ入室の許しを与えた。

 失礼致します、と美しい跪拝をして静々と姿を表した彼女は、まだ寝起き眼の夏蓮に起立を促し、連日の通り身支度を整えていく。

 高貴な身分の者は身支度さえ自分ですることはないのだと、後宮に来て初めて知った。


 普段の衣装は袖が大きいのだが、今日は夏蓮が琴を弾きたいと言ったからか袖の小さい衣装が用意されていた。

 赤い上衣にはさすがに過不足なく丁寧に打ち目が打たれている。それから香る薫香も強すぎず弱すぎずと絶妙な加減で焚き染められていた。


「お先に朝餉をご用意してもよろしゅうございますか?」


 着付けの最中、花媛が尋ねた。先に、と言うのは琴のことを考えての言葉だろう。

 夏蓮は頷いた。


「はい。琴は後にーー今日はとてもいい天気ですから、四阿(あずまや)で弾こうかしら」


 風の具合もちょうどいいからきっと気持ちがいいわ、とふわふわ微笑む夏蓮に、花媛はかしこまりましたと笑顔でもって応えた。


 着付けされ、髪を整えられ、化粧を施される。

 そうして身支度が整った頃には、朝餉の用意は完成されていた。

 寝室を出て、複数の女官たちがそばに控えているその中で、夏蓮一人だけが卓に着き、到底一人では食べきれないほどの料理を食していく。

 一人での食事には大分慣れたが、人に見られながらというのにはいつまで経っても慣れてこない。女官たちはお茶などの短い時間には付き合ってくれるが、食事時間は固辞する。

 こういう時、自分一人ということを存外苦痛に感じるのだ。


(それで言うと、昨日皇子とはいえ誰かと食卓を一緒にできたのは嬉しかったのかもしれないわ)


 思い返してみれば、箸の進みもいつもより良かったかもしれない。


 けれど相手が皇子であると言うただ一点で唇が歪みかけるので、夏蓮ははしたなく感じさせない程度に手早く箸を進めた。

 色とりどりの料理は、朝は食が細い夏蓮に合わせて野菜が多く使われた、あっさりした味付けのものが多い。

 それらを女性らしい慎ましやかな量を食べ終えて、食後の緑茶で一息吐いた。


 言葉は無くとも目配せをすれば、有能な女官たちはてきぱきと卓上を片付けてくれる。

 それをのんびりと眺めながら、何とは無しに窓の外に目を向けた。


 雲一つない、晴れやかな青空。庭院(にわ)には四季折々の花々が咲き誇り、後宮に彩りを添えている。

 奥にある池には美しい模様の鯉が悠々と泳いでいた。時折、水鳥が何処からか飛んできて、気ままに水遊びしているのを見たこともある。


 夏蓮は、ふと唐突に笑みを零した。


「如何か致しましたか?」

「いいえ、なんでも」


 夏蓮は首を振った。

 本当は、何と無く思ったのだ。あの皇子は鯉か水鳥のようだ、と。

 あるいは、水面に映る月だろうか。

 手が届きそうで届かない。届いたと思ったら消えてしまう。あるはずなのにない、そんな存在。

 あの皇子を求めるわけではないが、不思議とそう思った。


 ことん。まだ少し残っている茶器を置いた。

 夏蓮が立ち上がれば、それも女官が手際良く下げる。


「そろそろ四阿(あずまや)へ行きます。琴をそちらまでお願いしますね」


 傍付きの女官が(はい)と拱手した。


 池のほとりに建てられた四阿(あずまや)で、夏蓮は琴を爪弾いていた。

 念入りに調律されたそれは弦に触れるたびに優しい音を響かせて、清々しい朝に相応しい調べを奏でている。


 傍には姚佳が楽しそうにして控えていた。

 鳳泉が姉なら、姚佳は妹のようだ。

 (いとけな)さの名残が垣間見える容姿は美少女以外の何物でもなく、それでも鼻にかけず無垢に慕ってくれる彼女をとても親しく思う。


 一曲演奏を終えれば、姚佳は堪らずといった風に拍手を贈ってくれた。


「夏蓮様はお料理だけでなく、琴もとてもお上手なのですね」


 飾らない言葉で褒めちぎられて、気恥ずかしげにはにかんだ。

 それを何と受け取ったのか、姚佳は勢いを増してさらに美辞麗句を連ね挙げる。夏蓮は苦笑した。


「あっ、もしかして夏蓮様、私の言葉を信じてくださってませんね? 私、本当に感動致しましたのに」

「信じていないわけではないけれど……大げさよ。そんなに大した物ではありません」


 自分よりよほど秀でた奏者はいくらでもいる。それを自覚しての言葉なのだが、姚佳は納得せず、花びらのような唇をつんと尖らせた。そんな様子さえも夏蓮には微笑ましい。


「私は、夏蓮様が羨ましいですわ。楽にも針にも秀でておられて……私などどちらも苦手ですのに」

「あら、わたしもお針は苦手ですよ」


 お揃いですね、と悪戯っぽく微笑むと、姚佳は嬉しいような拗ねたような、複雑な顔をした。


 夏蓮の刺繍の腕は、後宮に上がってから幾らか上達の傾向を見せた。

 有り余る時間を少しでも有意義に費やすためにと始めた手慰みは、まだまだ改善の余地はあるが見れる物を作れるようになってきた。

 そうなると多少は針仕事の楽しさを感じられるようになってきて、読書も充実して夏蓮は以前ほど日々の過ごし方に悩まなくなった。


 皇子の初の訪閨(ほうもん)から一夜が明けたが、やはり皇子と顔を合わせる機会は無い。

 それは出会う前と何の変わりもないはずなのに、思いの外やきもきとした不快感を生じさせた。


『ーーそれが、お前の出した答えなのだな』


 そう告げた時の彼の顔が記憶に焼き付いて離れない。脳裏を過るたびに言い知れない息苦しさを感じる。

 それがどうしてか、夏蓮にはわからなかった。


「夏蓮様……?」


 物憂げな夏蓮に不安そうな顔をして姚佳が覗き込む。

 はっと我に返って、夏蓮は慌てて笑顔を作り誤魔化した。


「なんでもないのよ、気にしないで。それより、姚佳はそんなにお針が苦手なの?」

「うっ。…………はい……」


 しょんぼりとして頷かれる。急にしおらしくなるものだから夏蓮は苦笑した。


「なら、一緒に練習しましょう? 向き不向きというのはあるでしょうけど、練習すればその分の成果は得られるのですから」


 それは身をもって学んだことだからこそ真実味に溢れていた。

 夏蓮は手解きなどと大それたことはできないまでも、一日の長はある。全く役に立てないということは無いはずだ。

 姚佳は本当にと訝しげな様子でいるが、ね? と念押ししてやれば、彼女はぎこちなくもたしかに頷いた。


「そうと決まれば、何事も早い方がいいわ。まずは琴から、一緒に練習しましょう」

「は、はい……」


 夏蓮が琴の前を譲ると、姚佳は乗り気でないながらも、ゆっくりと琴に対して正体する。

 本当にやるんですか? と言いたげな眼差しににっこりと笑顔で頷いて見せると、姚佳は諦めたように肩を落とし、琴に手を伸ばした。

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