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27.響き渡る轟音

 ぱくぱくと一人で箸を進めることは意外にも違和感がなかった。皇子が今日は来ないという予感があるからかもしれない。

 けれどもそのかわりと言わんばかりに、代わる代わる女官達が顔を見せては談笑に応じてくれたおかげで、寂しさや退屈を感じることはなかった。

 彼女達は一様に皇子については口外しなかった。それとなく水を向けてみても、さすが後宮にいるだけあって、卒なく躱されてしまった。期待はしていなかったが、こうも徹底されるとは。


「んもう、ちょっとくらい掴ませてくれてもいいのに」


 だいたい、ここの女官達は揃って忠誠心が高すぎる気がする。それはもちろん喜ばしいことなのだけれど、思うように捗らないのは鬱憤が溜まる。

 そう鳳泉に文句を言えば、是非も無いことだと苦笑された。


「人の口に戸は立てられませんが、戸を開けにくくすることは可能ですから」


 それはそうだが、やはり不満に思ってしまう。いっそ幼子のように「わたしだけ除け者にするの」と駄々を捏ねたくなる。羞恥が勝るので実行に移すことはしないが。


「そろそろご機嫌をお直しくださいませ。ちょうど八つ時ですし、お茶に致しましょう、麻花(マーホア)を茶請けにして。夏蓮様、お好きでしたでしょう?」


 夏蓮はパッと顔を上げた。

 花媛の作だと聞かずともわかる。

 こんがりときつね色に上がったそれは、目にするのさえ久しぶりで、自然胸が踊った。

 ことりと目の前に茶碗が置かれる。中にはすでに茶が注がれているのに、それはなぜか湯気が出ていなかった。色も、心なしか普段より薄い。


「趣向を変えて水出しにしてみました。色こそ薄いですが、風味はしっかり出ておりますよ」


 是非ご賞味くださいと、勧められるまま馴染みの無いそれに口をつける。

 飲みやすいそれは、確かに鳳泉の言う通りだった。見かけによらずというのか、もしかしたら普通に淹れるよりも香り高いかもしれない。

 美味しいと絶賛する夏蓮に、彼女は穏やかに微笑んだ。


「それは茶葉を水に浸して、じっくりと抽出するのです。時間はかかりますが、まろやかさや風味は格別なのですよ。………夏蓮様のご懸念も、これと同じでしょう」


 その先にある言葉を、夏蓮は正確に汲み取っていた。


「わたし、そんなに焦っていた?」


 鳳泉は頷いた。即座の反応に、そんなにかと反省を余儀なくされる。


「これでも自制している方なのに」

「だとしたら、似た者夫婦としか申し様がございませんね。殿下が仰るには、かなり我慢していらっしゃるのだとか」

「ええっ、あれでっ?」


 信じられない! と声を上げた夏蓮に、鳳泉はしみじみと頷いた。驚く気持ちは彼女にも痛いほどよくわかっていた。


「……あの人、我慢するところ、履き違えていない?」

「…………否定はできかねます」


 つまりは肯定だ。

 妙な雰囲気が二人の間に降りる。何が悪いわけでもないのに、どうしても気まずくなった。


「あの人、我慢しなくていいっていうか、しちゃいけないところを我慢するのね」


 わたし、本当に気づかなかったのよ。

 呆れたように明かす夏蓮に、それもどうなのだろうと思いながらも鳳泉は耳を傾けた。


 皇子は、本当に大切なことはなかなか口に出さなかった。視野が狭いと再三言われたが、これに関しては視野云々の問題ではないはずだ。手がかりが少なすぎて、もしやと期待することも難しかった。


「ねえ、鳳泉だったら気付けた?」


 何かにつけて気の回る彼女なら、もしかしたら。そう思っての問いだった。


「私も、少し悩ましいところですね…。お仕えした年月で培った経験則もございますが、確信するには至らないでしょう」


 曖昧な回答だが、それでも夏蓮は満足したようだった。

 満足気にしている主女(しゅじん)の傍らで、鳳泉は苦笑を禁じ得ない。


 確かに、彼の皇子は言葉が足りなかった。

 これは庇いようもないし、同じ女人として庇うつもりもない。が、その分行動はわかりやすすぎるほどであったとも思うのだ。

 これこそ経験則故なのかもしれないが。


 しかし何はともあれ、これは良い傾向なのだろう。密かに鳳泉は口元を緩めた。

 夏蓮はにこにこと上機嫌に舌鼓をうっていて、それに気づいてはいない。


「夏蓮様、お茶のおかわりはいかがですか?」

「ありがとう。あ、鳳泉も座って座って。せっかくですもの、一緒に頂きましょう」


 固辞する間も無く促されて、流されるように席に着く。あたかも対等のように接してくれる彼女にはよくあることだが、毎度のことながら落ち着かない。普通の貴族の姫ならばありえないことだ。

 回数を重ねる毎に、この方ならばという思いが強まっていく。


「鳳泉? どうかしたの?」

「いえ……、良い主人に恵まれたと、幸運を噛み締めておりました」

「なあに、お世辞なんて言っても何も出ないわよ」


 擽ったそうに笑う彼女だけが、自覚をしていない。それをもったいなく思いながら、しかしそれも含めての魅力だとも思えた。

 ふふふ、と思わず笑い声が零れ出る。夏蓮は、変なの、と口では言いながらも一緒に笑っていた。

 小さな幸せが、広く心を満たしてくれた。




 しかし、そんな穏やかであるはずの時間も儚く終焉を迎えた。


 ーーーードオン!


 前触れもなく鳴り響いた轟音に夏蓮は身を竦ませた。

 鳳泉は一瞬驚愕に固まったけれども、みるみるうちにその美しい顔は険を孕み、扉の外を憎悪の目で睨みつけた。


 轟音は、扉が打ち壊されようとする音だった。

 いかに重厚な造りとはいえ所詮それは木の板にすぎない。轟音が一つ鳴り響く度に、みしみしと悲鳴が上がる。


 長くは保たない。


 夏蓮は急ぎ、自分付きの女官に目を向けた。

 臣下に主人を守る義務があるように、主人にも臣下を守る義務がある。彼意に沿わない主従関係であろうとも、その勤めは放棄してはならない。


「鳳泉、寝台の下に入って。できる限り息を潜めて、隠れなさい」

「夏蓮さま!? そんな、私などよりも夏蓮様こそ……っ!」


 袖を掴み押しやろうとする鳳泉の手にそっと自分の手を添える。肌理(はだきめ)の細やかな、傷も染みも知らないだろう手。傷つけることは、自分自身が許せなかった。


「たとえどんな境遇であろうと、ここがわたしの室であることには変わりないわ。……室の主がいなければ、次にどんな行動に出られるか」


 この室に押し入ろうとしているのが何人なのかは知る由もないが、その狙いが夏蓮であることは明白だ。自分さえいれば、他者にまでわざわざ手を出す必要性はほとんどないはず。


「わたしは大丈夫。鳳泉には人数とか、声の特徴とか、そういうのを殿下に伝えてほしいの」

「なりません、なりませんっ! 夏蓮様をお一人にするだなんて、そんなこと、絶対に――」


 言い終わるよりも前に、一段と激しい――破壊音が、響きわたった。間を置かず、見慣れない装いの男たちがそれぞれに武器を携えて侵入してくる。

 向けられる凶器の先はどれも夏蓮たちの上で止まっていた。


「無礼者!! お前達、この方を何方と心得ているか!」


 厳しい鳳泉の叱責に、けれども男たちは下卑た笑いを浮かべ、(なぶ)るような眼差しを彼女たちに向けた。

 ぞわりと夏蓮の全身が総毛立つ。


「へえ、聞いてた話より上玉じゃねえか」

「そりゃそうだ、なんせ皇子サマの後宮だ、イイオンナが選り取り見取りだろうよ」


 粗雑な言葉遣いに、はじめこそ意味がわからなかったが、やがて理解した鳳泉はみるみるうちに怒りで顔を染め上げた。


「さて、ねえちゃんたちにゃ俺たちと来てもらおうか」


 なぁに、悪いようにはしないさ。

 いやらしい笑みを浮かべながらの信憑(しんぴょう)性の欠片もない発言に、いよいよ我慢ならないと口を開きかけた鳳泉を無言で制してひたりと見据える。

 不思議と、頭は冴え渡っていた。


「……彼女に指一本でも触れようものなら、覚悟なさい」


 低くその一言がだけを言い捨てる。とはいえ、武器さえ持たない自分に何ができるとも思わなかった。

 しかし、虚勢でもない。

 彼らの狙いが自分であるからこそできる身の振り方がひとつだけあった。


 言葉の意味を理解した首領格らしい男は至極面倒だと舌打ちして、その苛立ちを調度品にぶつけ散らした。

 先ほどまで間に挟んでいた卓はもう使えない。使っていた茶碗を粉々に砕けて、残っていた茶が敷物に染み込んでいく。

 言葉を失う鳳泉に寄り添って、ぴんと背を伸ばす。前を見据えて、怯える素振りのひとかけらさえ打ち砕いた。


 俯いてなど、怯えてなどやるものか。このような輩に侮られるなど、あってはならないことだ。


(お飾りにも、矜持(きょうじ)ってものはあるのよ)


 浮きかける奥歯をきつく噛み締めて、夏蓮は深く息を吸った。

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