幕話 『――の会合』
深夜も夜更け、子供たちが寝静まった頃。
豪奢な執務室は大量の書類と闇に埋もれていた。明かりをつければ嫌味にならない程度に体裁を保った調度類が顔を出すのだが、こんな夜更けでは意味をなさない。
窓の外に視線を投げかければ、街の明かりはすっかり落ち、『夜の街並み』が顔を出す。
月明かりを背に、窓枠に腰かけるクローディアは手にした紅い液体を一息に煽ると、部屋に充満する甘い声にじっと耳を傾けていた。
『――そもそも、なーんで、神はあんな『不気味な力』を人類に与えたのかしらねー。そこに奈落の本質が隠れていると思わない?』
どれだけしゃべり続ければ気が済むのだろう。かれこれ、十五分は話しっぱなしだ。『あちら』も暇ではないはずなのだが、この甘ったるい声を出す『女』は心底クローディアの嫌がらせを続けたいらしい。
ただ、問い掛けに答えねばこの『女』は永遠にしゃべり続けるのを知っているので、クローディアはため息交じりの声色でそっと口を開いた。
「さぁな。奈落の意志か、はたまた神の慈悲か。どちらにしても私たちには理解できないたぐいの話だろう」
『あら、本気で言っているの? 私は高貴な生まれだからそれこそ貴女のような野蛮な猿もとい、羽虫が自ら危険を冒すような愚行が理解できないの。よく得体のしれない力に命を預ける気になれるわね。わたしだったら絶対にできないわー』
「そりゃそうだろう。いつまでも宮殿に篭って、身を肥え太らせている蛾などに私たちの苦労がわかるものか。おおかた、重すぎて飛べなくなったんだろう? いやはや甘やかされ続けた貴族様というのも考え物だな」
『あらー? 殺されたいの?』
「はっ、ご自慢の『魔法』でやってみたらどうだ。今のお前ならそれこそ片手間だろうよ。わたし『程度』の代わりなどいくらでもいるだろうし、わたしとしても一生お前の声に振り回されなくて清々する」
殺気が部屋一面に充満する。
誰もいないはずなのに、わずかに張り詰める空気はクローディアの首筋をチリチリと焼いていった。
こんなもの『私たち』の間柄にしてみれば戯れでしかない。案の定、すぐに調子を取り戻したような甘ったるい含み笑いが部屋を震わせた。
『ふふ、そんな連れないこと言わないの、≪クロちゃん≫? 貴女ほど得難い暇つぶしはなかなかいないんだから』
「嫌味で言っているのならいっそ清々しいな。お前はお前の方で忙しいんじゃないのか、ご当主様?」
嫌味を嫌味で返してやる。
相手はティタノエル家『本家』の皇女さまだ。お偉いさんのクソじじい共が見たらそれこそ泡を吹いて、倒れかねないほどの口ぶりだ。しかしこの遠慮のない言葉遊びが『あの女』には楽しいしい。我が君主ながら、彼方向こうにいる声の主は、お得意の調子で鼻歌を歌うっては笑い声をあげた。
『ふふふ、心配しないで。仕事は下の者がみんなやってくれるから問題ないわ。貴女の方は――徹夜続きで大変でしょう。お肌のお手入れはしっかりしていらっしゃる?』
「心配ご無用。わたしには丁度いい、ストレス発散場所があるのでね。身体は動かせるわ、小遣い稼ぎになるわで一石二鳥だよ」
『それよ。私が言いたいのは』
まるでその場にいるかのように、頬に手を当てあざとく小首をかしげる姿が目に浮かぶ。
この女はことあるごとにクローディアに突っかかっては無理難題を押し付けてくる。今回もその延長線上の疑問化と思ったがどうも違うらしい。
ややトーンを落とした声は、いつものおどけた娘のものではなかった。
『ほぼ無限に湧き出る『遺物』に人間を保護するように与えられる『奇跡の力』。ステータスなんて太古の言葉で誤魔化してるけど現代にいたるまで解析不可能っていうんだから笑っちゃうわ。この世界は謎に満ちてる。私はそれが我慢ならないの』
「それこそ、わたしはお前たちがその真実を掴んでいると期待していたのだがな。まさか、教会と同じレベルだとは、代々続く名家の名を聞いて呆れるなまったく」
『あらおあいにく様ですわね。もちろん、そんな貴重な情報を貴女に流す理由はないし、私から情報を引き出そうなんて三年早いわ。でもまぁ計画のことだけなら、滞りなく進行中――とだけ言っておこうかしら』
沈黙。
ひっかかれば儲けものくらいの気持ちで鎌をかけたが、こうはぐらかされたらもう嫌でも聞き出せないのは知っている。
この女は昔からそうだ、というのを忘れていた。自分の喋りたいことだけ気まぐれに話し、踏み込んでほしくない話題は頑なに沈黙で通す。
重い額に指をあてて、短く首を振ると書類が大量に積まれた事務机から、年代物のボトルを静かに開けた。
暗がりで嗜むワインほど虚しいものはない。高級ワインなんぞ送ってきて、ウチが財政難なのを見越しての嫌がらせだろう。
並々と注いだ真っ赤な液体をグラスに注ぎ、一息に煽ってみせる。小さく息をつくと、続けざまにワインをグラスに注いでいった。
『もっと味わって飲みなさいよね。それ一本いくらだと思ってるの? 並みの探索者が一生かけても払いきれないくらいのビンテージものなのよ?』
「だからこそだよバカ野郎。こんな上等なもの味わって呑んだらそれこそ明日から呑む酒がまずくなる」
『あら、それを見越して貴女が好きそうな最高級品を送ったのだけれど。お気に召さなかったかしら?』
「ああまったく、最高の嫌がらせだ」
月明かりが僅かにグラスを透かして、ほっと息をつく。
まったく本当にいい酒だ。こんな案件でなければ、それこそもっと味わって飲みたかった。
窓から零れる月明かりが、そっと指し示すように今朝届いた羊皮紙に光を入れる。
目を細めて、羊皮紙に視線を落とすと、クローディアは姿なき『女』に目を向けた。
凛とした銀を鳴らすような声は、甘ったるい空間を切り裂き、月明かりより淡い瞳が『女』を射抜く。
「それよりあれは、お前たちのたくらみか? だとしたら随分と、面倒な嫌がらせをしてくれたものだな。わたしの『妹』が率先して奈落に行ってしまったじゃないか」
意趣返しのつもりで放った言葉に、『女』は目を丸くしたように驚いた。
まるで身を乗り出すとはこのことだろう。語調がやや強まった声が非難するような視線を混ぜてクローディアに引き寄せられた。
『あの『至宝の継承者』が? あらあら、それは契約違反なんじゃかしら? わかっているの? 貴女の地位は『彼女』によって支えられているようなものなのよ。それを自ら危険に晒すなんて――』
「それすら獲得できなかったお前ら『本家』の言う言葉か。初めからお前たちが継承していればこんなことにはならなかったんだ。逆恨みも甚だしい」
『やーん、怒らないで頂戴な。わたし達だって手は尽くしたのよ? なんたって四氏族の威信にかかわる最高機密ですもの。慎重に、かつ最適な儀式を施してきた。それでもなお逃れちゃったんだから仕方がないでしょう?』
「その大事な大事な秘宝の情報を、クズに渡して回収しようとしたくせにか?」
『あらー、それは何のことかしら。少なくとも私のあずかり知ることではないわ。誓って、とは言えないのが残念でならないけど』
おどけた調子は相変わらずだ。だがとぼけている訳でもないらしい。
きっとこの『女』のことだから様々な情報が頭のなかを飛び交っているに違いない。
まったく厄介この上ない。まるで遊ばされているようで頭が痛くなる。
「まぁいい。本題はこっちじゃない。お前のよこしてきた男だ。今度は何を企んでいる」
『いまそれ聞いちゃう? 私はクロちゃんともっとお話ししたっかったのだけれど』
「生憎だが、私はこれから残業確定だ。どこかの誰かさんが余計な仕事を増やしてくれたせいでな。それで、私にわざわざ『連絡』をつけてきたという事は、進捗を聞きに来たという事か」
『半分正解、かしら。ああ、そんなに警戒しても無駄よ。もうすでに、始まっているの』
「お前の話は半分も信じられん」
『でも残りはきっちりと信じてくれるんだー。クロちゃんって相変わらず甘いのねー』
自分の失言に心から後悔した。きっと酔いが回っていたに違いない。赤く火照る頬がやけに熱く感じられた。
むふふふ、と鬱陶しい視線と共に甘ったるい声が自分を見下ろしているように感じられ、目尻を鋭くして天井を見上げた。
『やーんそんな目で見ないでー。おねーさん興奮しちゃう!!』
「黙れ、ほとんど同い年だろうが。はぁ……今度は誰が犠牲になることやら。考えるだけで頭が痛い」
『それを減らすのがあなた達の仕事でしょう? あんな男はただのきっかけに過ぎないわ。上手く釣れるかは貴女しだい、ってところかしら』
「――チッ、いちいち面倒を増やしてくれる」
身を乗り出して、事務机に座ると一枚一間書類に目を通していく。
この女の計画など正直どうでもいい。だが、その問題に『家族』が巻き込まれるのなら話は別だ。一つ一つの情報に漏れがあってはいけない。
そして、一枚だけ目の引いた書類を掴み上げると、顎をつまんで静かに視線を走らせた。
「――これは」
『ふふふ、やっぱり私はあなたを困らせるのが好きみたい。こういうのを悪巧みっていうの? 傷一つない可憐な妖精には似合わない行為かもしれないけど……」
「はっ、黒い腹のくせしてなに言ってる。いいか、わたしは『わたし達』のやり方でいく。お前の思い通りに事が運ぶとは思わないことだな。」
『ええ、その言葉を含めておおむね『計画通り』よ。多少の犠牲など些末なもの。せっかくの劣等種なのだもの、資源は余すことなく使うものでしょう?』
「相変わらずのクズだな」
『おほめにあずかり恐悦至極』
吐き捨てるように言い放ち、書類を放り捨てる。
何より気に入らないのは全て、この女の手のひらだという事だ。
まるでスカートを翻すような動きが脳裏によぎり、振り払うように静かに瞼を閉じた。
『ふふ、それじゃ今度は直接会いましょう? 可愛い可愛いわたしのクロちゃん』
「ああ、次に会うときは一発ぶん殴ってやるから楽しみにしておけ、ティファム」
まるで終わりを告げるように、クローディアの頬に温かい『傷』を残し甘い声は徐々に掠れていった。
会話が一方的に切れ、生々しい感触のした頬を手の甲で拭う。そして視線を持ち上げればそこには静寂の執務室が再び顔を出した。
脱力するように椅子に腰かけ、天井を仰ぐ。その声には若干疲れが籠っていた。
「魔力を用いた意思伝達法か。これなら盗聴の心配はないだろうが、長々と話しすぎだあのバカ」
大きくため息を吐き出して、痛む頭を押さえつける。
この痛みはきっと今後の結末を予期した痛みではないだろう。
そう願いつつ、クローディアはグラスに視線を落とし、最後に残った液体を一気に煽った。
喉もとを通過する酒は、クローディア好みの甘く爽やかな味わいだった。