16話 招かざる来客
――衝撃ッ。
ノアの聴覚から一瞬、音が消え去った。そう錯覚するほどの衝撃。
受け身もへったくれもない。痛みに身を捩ることも許されえず、ただただ押しつぶされるように逃げ場のない痛みがノアの全身を焦がしていった。
「――あがッ!?」
口から洩れる言葉に意味はない。
肺の内側にあるすべての空気が体外に押し出され、呻きと共に出た叫びだ。声にならない悲鳴を上げることもできず、横隔膜が不自然に上下した。呼吸困難から一転、遅れて酸素がやってきて焼けるような痛みが喉を蝕んでいく。
それでも彼の痛みに比べたらなんてことないだろう。
百メートル近い高さから落ちても、自分だけが無事なことに腹が立つ。不自然に震える身体を持ち上げ、胸元に乗っている『包み』を慎重に地面に下ろした。
あの高さから落ちてもマントで厳重に保護したから大丈夫なはず。でも彼は傷を負っている。もし、傷に響いてたらどうしよう。完全に衝撃を吸収しきれていなかったら――
考えれば考えるたびに最悪な光景が頭を過ぎり、身体を震わせる。
一瞬、頭の中で口から血を流し真っ白な顔で白目を剥いているローナンの姿が思い浮かび、絶叫が喉まで出かかった。
『なにをぼうっとしている人間!! 早く止血せねば本当に取り返しのつかないことになるぞ!!』
「――ッ!?」
魔王さまの叱責で我に返る。
そうだ、後悔なんて後でいくらでもすればいい。いまは彼を助けることだけに集中しろ。
大きく息を吸い込み、身体の中にあるすべての不安を吐き出す。そうして視線をおろせば、自分の手が酷く震えているのに気が付いた。
「落ち着け、いまパニくったって何にもならない。大丈夫、絶対助かる」
うわ言のように何度も繰り返し、厳重に固めたマントを魔力操作で解いていく。繭に包まれたローナンを見たとき、ノアはほっと息をついた。
ナイフは依然とローナンの腹部に刺さったままだが、息はしている。震える瞼は僅かに開いており、その奥にある瞳にはまだ光があった。それでも意識があいまいなのか瞳の焦点はあっておらず、呼びかけても曖昧な返事しか返ってこない。
『意識がもうろうとしているな。このままでは間に合わなくなる。――とりあえず止血だ』
「でも、止血の方法なんて僕は――」
『狼狽えるなと言っているだろう。私を誰だと思っている、この程度の傷で死なせはせん。いいから私の手順通りに身体を動かせ』
こんなことになるのだったら、シオンやクローディアに応急処置の仕方を学んでおくんだった。
不安と後悔がない交ぜになり、重く胸にのしかかる。
半ば泣き出しそうな気持ちに駆られるが、ここで自分が泣き出しても現実は変わらない。そんなことをしてもローナンの命を縮めるだけだ。
溢れ出る涙を袖で拭い、歯を食いしばってローナンに向き直った。
手持ちのポーチを地面にばら撒き、急いで手当を始める。魔王さまの説明を聞きながら一つ一つの手段で治療を施していく。
どうやら鎧の隙間に刃が通ったらしい。とりあえずローナンの身体をできるだけ動かさないように革鎧を脱がせ、その下の衣服を破り取った。
ファッジから受け取った水筒を傷口に流し込み、洗浄する。僅かに苦悶の声が聞こえてくるが、ぐっとこらえて作業に集中した。
ローナンの口に布を噛ませ、腹部に突き立てられた柄を慎重に握った。
「ごめん、ちょっと痛むだろうけど我慢して」
『……ナイフを抜くと同時に血が飛び出る。私は魔力操作で動脈を縛るからお前は慌てず縫合しろ。覚悟はいいな? ――いち、に、さんッ!!」
傷が広がらないよう、意匠がかったナイフを垂直に抜き放つ。激痛に顔を歪めると同時に傷口から出血が噴き出した。
瞬間、魔王さまの魔力操作が敷いていたマントを伝い、ローナンの傷口に『見えない糸』が入り込んでいく。洪水のようにマントを染め上げている血液も、徐々に少なくなっていった。
『……よし、傷周辺の血管は縛り付けた。さっさと縫合してしまえ』
魔王さまの指示に従って切れた大きな血管を縫合していく。濡れた血液の影響で拙いながらも血管の一本一本を縫合していった。
血流を止めすぎれば細胞が壊死して治療してもダメになるらしい。縫合が終わると同時に魔王さまは魔力操作を用いて『見えない糸』を体外にゆっくりと抜いていった。
しかし、出血は収まらず、縫合した血管からわずかだが血液が漏れ出ていた。
「そんな!? きちんと処置したのに、どうして……」
『おそらくこの短刀に呪いがかけられているのだろう。……やむえんな。人間、その辺に草やなか生えていないか。あの雑木林のような葦の高い草が望ましい』
「なんで草なんか、それよりローナンを、このままじゃ――」
『いいから探せ!! なんなら草木であれば何でもいい。それともお前はこの者を殺したいのか?』
息が凍るような衝撃が頭からつま先まで駆け巡る。
それだけは絶対に嫌だ。魔王さまの言葉に気圧され、慌てて地面に視線を向けた。
そうだ、いまのノアはまったくの無力だ。
医学の知識も経験もなく、止血の仕方一つ知ら知らない役立たずだ。
ならば何か考えのある魔王さまのいう事を聞いておけば、少なくともローナンが助かる見込みがある。
魔王さまの言う通り止血針を施し、慌てたように周囲に視線を走らせた。
それでも剥き出しの断崖には草の根一本すら生えている様子はない。このままではローナンが死んでしまう。
その瞬間、ノアの後ろで何かの視線を感じた。
『――最悪のタイミングでお出ましだな』
魔王さまの声に、ノアは慌てて後ろを振り返った。
「こんな時に――」
鋭い殺気に込められた唸り声が低く谷底で轟く。ローナンを庇うように立ち上がると、全長二十メートルもある大蛇と表現すればいいだろうか。奥の方から蛇のような胴体をくねらせる手足のない獅子が現れた。
その複数の黒い瞳は明らかに谷底に落ちたノアとローナンを向けられており、クルルルッと低い唸り声をあげてはまるで喜ぶかのように頭を天井に向けて、とぐろを巻いていた。
『迎撃準備だ、人間』
「でも、それじゃあローナンが……」
『まだ動かせるまで容体が回復したわけではない。ここで迎撃するしか方法はないぞ。一刻の猶予を争う。こんなことで迷っている暇などあるのか?』
躊躇う心を叱責するように鋭い指摘が魔王さまから飛んできた。
そうだ。ここで悩んでいたって何も解決しない。こんな危険な状態で、彼を動かせば直ったとしても大きな障害が残るかもしれない。
ここで自分を助けてくれた人を見殺しにするのか。
不意に自分の中で湧き上がった感情が、身体に噛み合った。
『覚悟は決まったようだな』
魔王さまの言葉に静かに頷く。
自分のなかで内側に宿る熱が急激に冷めていく感覚がノアを襲う。
躊躇いを見せず、哀れみも、後悔も全てを封じ込める。
あるのはただ命を奪うという覚悟だけ。
背中で横たわるローナンに目をやり、唾を飲み下した。
苦痛に顔を歪め、それでも決して意識を取り戻すことのないローナン。
これは、生きるための殺しだ。
自分の中にある言い訳を殺し、拳を固く握りしめた。
上から状況が見下ろせるのか、センバスとファッジの叫び声が聞こえるが何を言っているのか聞き取れない。
おそらく逃げろとでも言っているのだろう。確かにあそこまで巨大な生物相手に一人で挑むのは無謀なのかもしれない。ただ一つ聞き取れたのは、こいつの名前が獅子蛇だという事だ。
いくつもの複眼がノアを捕らえて離さない。明らかに捕食対象を見る目で、ノアとローナンを品定めしていた。
だがわざわざ敵に背を向ける愚行を冒す気にもなれなかった。
「三十秒でケリをつける」
握る拳が強く鳴り響く。沸々と溢れかえる感情を強引に力に変え、力は冷たい殺気へと変換される。
食いしばるようにきつく結んだ口を解き、自然と構えが形に現れた。
ローナンを巻き込まないように少しだけ距離を置き、けれど自分からは決して飛び出さない。
創生獣は狡猾だ。目の前にいる一体だけが敵だとは限らない。現に、襲ってくる気配はないが谷底の周りにはいくつもの生き物の息づかいが感じられた。
それでも彼らが襲ってこない理由は一つ。
「お前がここの王者なんだろ。……さっさと片づけて終いだ」
低く冷たい声が、ノアの口から発せられる。
言葉など理解していないだろう。だが向けられた感情を本能で理解したのかもしれない。
あれほどまでに余裕を保っていた創生獣が僅かにたじろいだ。しかしそれでも捕食者のプライドは揺るがなかった。
低く唸り声をあげて、鋭い犬歯をむき出しにすると身を滑らせ襲い掛かってきた。
大地を揺るがす行進に、ノアは一歩踏み出す。
まるでそれが捕食者の掟であるかのように、巨体が宙に舞った。
真正面から叩き潰すと心に決めた。
中段に構えた拳をまっすぐに突き出す。ただそれだけの動作で、獅子蛇の巨体が後ろに飛んでいった。転がり、のたうち回り地面を揺らす。ただ、奴も馬鹿ではなかったらしい。
インパクトの瞬間に僅かに身を逸らしたのか、すぐに起き上がってシューシューととぐろを巻き始めた。
『僅かにだが空中で方向転換したな、あいつ。空龍魚の仲間かもしれん。――ならどうすべきかはわかっているな?』
ゆっくりと頷き、腰を落として駆けだす。少なくとも片手間で殺せる相手ではないことはわからせたはずだ。その証拠に、片方の瞳を潰された獅子蛇はノアしか見ておらず、ノアの動きに合わせて尻尾を鋭くしならせた。ただ、巨体であるがゆえに的も大きい。繰り出される一撃一撃を強引に払い、掴み、むしっていく。その度に、獅子蛇の身体から鱗が剥げ、血しぶきが舞い、ノアの身体を濡らしていった。
「――終わりだ」
杭を打つように飛び移った蛇の尻尾を足場に、ありったけの脚力で獅子蛇の顔面に飛びつく。
大きく口を開けたまま、呆然とこちらを睨みつける獅子蛇を目が合う。その太い首を落とすつもりで手刀を振り切った。
繰り出したはずの手刀が空を切る。
目を見開いて巨体を追えば、一瞬、消えたか錯覚させた獅子蛇が横から鋭い牙を立てて襲い掛かってきた。
「――くッ!?」
小さく舌打ちし、空中で身をひねって獅子蛇の追突を受け流す。だが、僅かに掠めた牙に毒があったのか、クローディアが用意した服が袖から腐り落ちていった。
それでもこの身体に傷をつけなければ意味はない。そのまま回転する勢いを殺さず、ノアは一切の容赦なく獅子蛇の頭に蹴りを見舞った。
バキッ!! と硬質な何かが砕けるとともに、獅子の顔が不格好に変形した。強引に進行方向を変えられた獅子蛇が地面に叩き伏せられ、苦悶の叫びを谷底に響かせる。
『人間、後ろだ』
「わかってます」
魔王さまの忠告に反応して、着地と同時にそのまま後方に飛び退き、体勢を入れ替えて手刀を走らせる。
おこぼれを狙おうと近づいたのだろう。ローナンに牙を剥く獣たちを一撃で仕留めていった。四足獣の何かや蜘蛛。カエルのような創生獣までいる。なかには獅子蛇の子供らしき蛇たちもいたらしく全て首を落とされ絶命していった。
「――こ、ここは?」
小さくうめき声が上がり、堪らず覆いかぶさるように顔を覗き込めば、そこには僅かに意識を取り戻したローナンの姿があった。それでも未だに呼吸は荒く、出血も止まらない。
それでも命をつなぎ留められたことに、大きく安堵すると頭上に影が差し、削りとるような破砕音が響いた。
後ろを振り返れば絶壁をえぐる硬質な鱗を持つ尻尾が、横なぎにふるわれた。
大地が鳴動し、逃げ場はない。この距離で拳を振るえば余波でセンバス達にも被害が及ぶかもしれない。かといって、あの質量を押し返すのに手加減できるほどの余裕もない。ありとあらゆる可能性がノアの頭の中を駆け巡り、踏み出せずにいる。
すると地面に置いていた銀色の光が視界に入り、ノアは直感的に『それ』を拾い上げた。
まるで使い慣れた道具のように両手に馴染む感覚に奇妙な既視感を覚える。
それは全長一メートル程ある、どこにでも存在する銀色のロングソードだった。
剣など扱ったことない自分がなぜこの剣を手に取ったのかはわからない。ただ、ロングソードを握った途端、ノアの身体は直感的に切る場所を見定めていた。
一息にその場を駆け出し、握った剣を打ち振るう。
どこにそれほどの切れ味があるのか。それともノアの振るう力が強すぎたのか、厚さ三メートルはあるかと思える尻尾はロングソードの切っ先により切断された。
ザンッと空気を切る音が響いたあと、尻尾の先端が勢いよく後方に跳んでいく。地響きを打ち鳴らす残骸はローナンを飛び越えていった。バランスを崩した獅子蛇が地面に転がり苦悶の叫び声をあげる。
「シャアアアアアアァアアアァァアアッ!!」
のたうち回る蛇の傷口から、どす黒い血液が噴き出した。それは洪水のように地面を濡らすと、乾いた大地に吸い取られていく。
そして怒りに震えた様子の獅子蛇が、身を躍らせて宙を舞った時、
「――ふッ!!」
絶壁を利用して飛び上がり、踵落としの要領で今度こそ地面に叩き潰した。
骨を砕き、肉を潰し、血が飛び散る感触が足の裏から伝わってくる。
命の灯を確かに刈り取った。
ピクリとも動かなくなった獅子蛇を眺め、小さく息をつきあたりを見渡す。
あれほど周囲を囲っていた緊張が突然途切れいることに首をかしげていると、頭の中で緊張がほぐれる声が響いた。
『おそらく親玉がやられて、敵わないと悟ったのであろう。創生獣のような知恵ある獣は時として自ら撤退を選ぶ。不思議なことでもあるまいよ』
「……どっちにしろ、相手する時間なんてありません。それより、早く止血しないと――」
『その心配はなさそうだ。人間、足元を見てみろ』
ノアの慌てた声に、宥めるような魔王さまの声が響いてくる。
蛇の顔から飛び降り、大地に降り立つ。
そこには血で汚れたはずの大地から、立派な草が生い茂っていた。




