02話 邂逅 ~その2~
「やっぱり。夢じゃ、なかった」
「何をいまさら、後悔する振りなど人間の数ある機能の一つだが、いまごまかしても仕方なかろう」
そう言って、、何ら変わりなく紅茶を口にする彼女は、最期のクッキーを名残惜しそうに放り込むと、大きく息をついた。
「ふぅ。……やはり『情報』だけでは腹は膨れぬか」
「じょう、ほう?」
訳がわからない。全てが偽物とでもいうのか。
そんな疑問が顔に出ていたからか、はたまた心を読まれたからか。
白髪の女性は、やや難しそうに眉を顰めると、やがて思い至ったように手のひらを合わせて、唇を動かした。
「……そうだな。おい人間、お前はこれに見覚えはあるか?」
そう言って、何かをめくるようなポーズをとると、またしても空中から見覚えのある本がいくつも出現した。
思わず、面を喰らって立ち上がろうとするが、彼女は何でもないようにその中の一冊を僕に手渡した。
「……僕の愛読書だ」
手触りから、ページのほつれ具合まで瓜二つ。
何度も何度も読み返し、汚れた文庫本は確かに僕の所有物だ。
その反応に満足したのか、彼女は次々と見覚えのある動作を繰り返しては、僕を驚かせる。
「ならこれはどうだ」
「初めて買ったノートパソコン」
「したらばこれは?」
「制作途中の編み物」
テーブルを指ではじき、何かを小さく交差させるたびに、空中に愛用のノートパソコンや、毛糸の編み物の類が現れる。
ポンポンと宙に現れる品物の数々は、どれも自分自身が見知っている所縁のあるものばかりだ。
訳が分からない。というよりわかりたくない。これではまるで――。
「そうだ。もう一度結論から言おう。『三守義幸』は死んだんだ。そして、この品々は全て、お前が知っているもの。ここまで言えば、頭の回転の速い人間ならわかるな?」
それは、まるで何かを諭すような教師の物言い。
有無言わせず、答えに導こうとする言葉。
そして、奇しくもその言葉で何を言わんとしているのかある程度理解できてしまった。
「つまり、この真っ黒な世界は僕自身の世界、あるいは願望が反映される空間ってことか」
「ま、おおむね正解だな。正確には魂の内側、といってもいい」
魂の内側?
死んだあと、成仏できずに地縛霊にでもなったとでもいうのか。だから動けないでいる。そういうことか。
「おお、核心に近づいた。やはり面白い思考回路をしているな人間。そういう考え方ができる奴は好きだぞ」
「……なら、貴女はいったいなんなんだ。僕の記憶の知る限り、貴女のような人は知らない。ここが僕の世界なら見知らぬ貴女は出てこないはずだッ!!」
テーブルを叩き、自然と声が荒ぶる。
睨みつける僕の視線にたいして、彼女の表情に変化はない。
全てを受け止め、ただただ僕の様子を観察しているような、そんな視線で僕をのぞき込んでいる。
状況を理解するよう努力はした。それでもダメだった。
現実から、目を逸らす気はない。けれど受け入れる気にはなれなかった。
生きたかった。
一縷の望みでも繋がっていると思いたかった。
でもそれは間違いで、全てが終わっていた。
「なんで、なんでこんなことになるんだ!! あなたが神様かどうかなんて知らないッッ!! でもどうして僕だけがこんな目に合わなくちゃいけないんだ。望まない障害を負って、こんなあっけなく死ななきゃならないんだッ!!」
覇気などない。
けれども、生きられなかった八つ当たりか、それとも何も残せなかった後悔か。もう訳のわからない感情が胸のなかで渦巻き、声帯から震えた声が吐き出される。
「どうして、僕だけが……」
「お前だけじゃないさ」
ポツリと小さく呟かれる言葉に、僕は思わず睨みつける。
そんなの。そんなのわかっている。でも、でもッ貴女は――ッ!!
「そう邪見にするな。私はただ人間の魂に干渉しているにすぎないんだ。君がなにも知らないのも無理はない」
彼女はその細くしなやかな指を絡めて苦笑する。
まるで僕のすべてを理解しているかのようなまなざしで。
「お前の人生は散々だった。それは見てきた私だからわかる」
「……貴女に、わかるものか」
「わかるさ。これでも孤独に耐えることに関しては私も一家言あるからな。お前の場合は自業自得というものもあるだろうが、理解はできる」
そういうと、彼女はなんでないような仕草で、テーブルに置かれた本を手に取り、慈しむように『それ』を撫でた。
「他人に拒絶されるのが、否定されるのが怖かったんだよな?」
「――ッ!!」
本当に心の奥の奥まで見透かされたような気になって、僕は思わず唇を噛んだ。
テーブルの下で握る拳に力が入る。
「必死になって作ったもの全否定か。周りから疎まれまいと努力しても、結局価値なしと切り捨てられる。おっと、同情はしないぞ。……ただ、その痛みだけは共感できる」
「なんで、貴女がそれを――」
「『見てきた』といっただろう。おおよそつまらない『物語』だったがな」
そう言って、彼女は本を閉じると、『それ』を放ってよこす。
まるですべてを知っているように、滑る一冊の本が僕のもとに届く。タイトルは見覚えがあった。
それはボクが初めて書き上げ、小さいながらも出版社で認められたおおよそ厨二病全開の、こっぱずかしい青春小説。
結局連載にならずに、単行本で終わってしまったが、僕が唯一自分の価値を示すことのできた『価値』の象徴でもあった。
震える手が吸い込まれるようにして本に触れ、僕はそれを抱え込むように自分の胸に押し付ける。
途端、堪えていたはずの『なにか』がはじけるようにして溢れ出た。
「貴女にわかりますか? 他人と違う。普通じゃないという理由で集団から隔離される人の辛さが」
「……」
「貴女にわかりますか!? どんなに頑張ったって、どんなに応えたって、価値がないと一種される人も気持ちがッ!!」
声を荒げ、見知らぬ誰かにぶつけるようにテーブルに拳を叩きつける。
それでも白髪の女性はただただ、僕をまっすぐに見つめるだけ。それが全て言い訳であるとわかっていても、きちんと耳を傾けてくれる。
だから僕は彼女に甘えてしまった。
「何をすればよかった。どうすればよかった!! ただ、……ただみんなの輪に、加えてもらいたかっただけなのに」
頭を振りかぶり、汚く唾をとばし、両目からあふれる涙を止めることすらできない。
おおよそ醜く、見るに堪えない哀れな姿。
その鬱陶しくむせび泣く男を前に、彼女は何も語らずただじっとこちらを見つめていた。
その深く、深い真っ赤な瞳が、静かに僕に向けられる。
非難する目ではない。かといって憐れんでいるのでも、共感するのでもない。
ただじっと『僕』自身を見つめてくれている。
なにも飾らず、ありのままみっともなく喚きたてる『三守義幸』を見つめている。
そう理解した瞬間、だんだんと尻すぼみになっていく言葉は慟哭に変わり、やがて小さな嗚咽へと姿を変えていった。
歯を食いしばり堪えようとする嗚咽も、むなしく決壊した涙の前では無力だった。
頬を伝って大小さまざまな染みを作るテーブルクロスをぎゅっと握りしめ、額をテーブルに擦りつけた。
そうしてどのくらいたっただろうか、困ったようなため息が聞こえたと思ったら、彼女の柔らかい息づかいが聞こえてくる。
「それで人間。お前はどうなりたかったんだ」
「……どうって?」
真っ赤に熱い目を持ち上げて、彼女を見やる。
白髪の彼女は、その長い髪を振り払うような仕草で首を振り、その豊かな胸の前でそっと腕を組んだ。
「お前の話を聞いていると『どうすれば』という問いばかりで答えが見えてこない。慰めるのは性に合わぬし、声を交わして数時間たらずのお前に同情できるほど私はお前を知らん」
「僕は――」
そう言われて、言い淀む。
確かに、人に当たられて辛かった。価値がないと切り捨てられ、普通のことができないお前はクズ以下だと上司に罵られ、死のうとしたこともある。
障害者として、いつまでも『普通』になれない。普通であろうとすればするたび、周りから話煙たがられて価値なしのレッテルを張られる。
普通になりたかった。そう考えない日々はなかった。それでもそれが叶わないことはとっくにわかっていた。
でも『どうしたかったか』といわれると答えに詰まってしまう。だって僕はどうあがいたって『普通』になんてなれないから――。
「なんだ。答えなどとうに出ているではないか」
「えっ――」
彼女の言葉に思わず、顔を上げる。
白髪の女性は首を左右に振っていた。何でもないように。それでいて、やれやれと世話の焼ける子供をあやすような表情で。
答えが出ている? 僕すらまだ出ていないのに。自分のことすらわからないのに?
途端、高鳴る心臓が激しく胸を打ち鳴らし、期待のような感情が胸にあふれてくる。
もし知っているのなら教えてほしい。もし、僕に知る権利があるのなら教えてほしい。
「……はぁ、まぁ悩むのは若者の特権だし、悩んで掴んだ答えにこそ意味がある。そういった考え方では私の口で答えを出すというのはいささか野暮な気もするが、……人間という生き物は『そうなのだったな』」
一瞬、面を喰らったような表情を浮かべる白髪の女性だったが、その表情はすぐに苦笑に彩られ、まるでなにかを、懐かしむような顔で明後日のほうに視線を逸らした。
そして大きなため息一つ溢すと、彼女はぼくの目を見据え、何でもないように口を開いた。
「人間。お前はな、ただお前自身のことを『理解』してほしかったんだよ。どんな無価値な人間でも、理解してもらえる。そんな関係が欲しかったんだ、お前は」
ストンと、なにかが胸の中に落ちたような気がした。
それはどこまでも自分で考え、行き詰った答えでもなく。他人から示され、でもどこまでも自由な答え。
そう考えてもいい、と他人から認めて『もらえる』答え。
無責任からくるものでもなく。自分で突き詰めて信念とするまでもない、ただただありきたりな考え。
「そ、うか。僕は、理解してもらいたかったんだ。ほんの少しの欠片でもいいから、僕自身を」
力なく呟いて、握りつぶされた文庫本に視線を落とす。
クシャクシャに歪んだ自信作。初めて書く時僕は何を想って、この小説を書き上げようと思ったのか。
名誉で人に自慢するため?
違う。
少しでも他人と違うことを強調するため?
違う!
ならば、少しでも『普通』になるため?
違うッ!!
初めはぜんぶ『誰か』のためだった。自分じゃない誰かに『認めて』もらおうとか、そんな考えは二の次だったはずだ。
この物語を通して、少しでもほんの少しでもボクのことを知ってもらいたくて、この物語を描いたはずだ。
「まったく、人間という生き物は誰かに生きていいよなどと言ってもらわなければ生きてはいけぬ生き物なのか? 承認欲求どころではない、まるでどこぞのヒロイン並みの甘い生き物のだな」
クシャクシャになった文庫本は溶けるように胸の中に消えていき、その様子を見つめていた白髪の女性が呆れたように息をついた。
次第に、灯りがついたように熱くなる胸を押さえて、僕はそっと息を吐き出すと、心の枷が外れたのか言葉があふれた。
「全部人のせいにしてたんだな、ぼくは」
足が動かないのも、誰からも相手されないのも、全部が全部誰かのせいにして――
「変わろうとする勇気がなかったんだよ、お前は。誰かに理解してもらうより誰かを遠ざけた方がはるかに楽だからな。普通になりたいなどとよく言ったものだ」
「……『普通』の社会に囚われてくるとさ。なんだかそこに適用しなくちゃいけないような雰囲気になってくるんだ。枠組みっていうのかな。そこに無理やり押し付けられるような」
「それが愚かだというのだ」
そうはっきりと断言して、彼女はその白く長い髪を払いあげると大きく身を乗り出して、視線を合わせた。
「協調性があるのは美点だが、他人の個性を潰して何になる。異端をすべて排除した世界など、みな同じ社会同じ考え方の世の中などそれは世界の死も同然だ」
どの星々よりも光り輝く深紅の瞳は、僕を捉えて離すことはなかった。
その瞳の奥に宿る輝きはきっとどんな宝石よりも美しく、尊いものなのだろう。
そしてその信念さえも。
いつか、こんな風になれたらとさえ思う。
他人の目など気にしない。そう言い切り、自分を信じることのできる強さを。
自分から一歩踏み出すことのできる強さを、いまボクは強く望んでいる。
「おっと人間、見惚れるなよ。わたしがお前の考えを読めるのを忘れていないか?」
「ッ!?!!!?!?」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる彼女。
そういえば名前を聞いていないなと思い返し、そして名前も知らない人に自分の悩みどころではない全てを赤裸々と語ってしまったことにいまさらながら恥ずかしさが勝って泣けてくる。
「そうだな。まさか私も初対面であんなことを言われるとは思ってもみなかった。人間。お前はやっぱり面白いよ」
「ああああ死にたい!! いや死んでるけれど、いまめっちゃ消えたい!!」
「はは、ようやく年相応の表情をしたな人間。世の中に絶望し、達観するのはまだ早い。そのくらいの表情がちょうどいいだろう」
こんなにみっともなく叫ぶのはいつぶりだろう。
羞恥心と歓喜がないまぜになったような感情が訳も分からず襲ってくる。
バタバタと暴れる両手は髪を何度もクシャクシャにかき混ぜ、喉は唸り声をあげさせた。
憑き物が落ちたみたいに心はすっきりしているのに、なんだろ、すごく消えたい。
テーブルに突っ伏すと頭から真っ赤な煙が立ち上る。
これも僕の願った現象だというのなら間違いなく、ここは僕の世界で、ボクの魂の内側だ。
「……それなら、貴女はいったい何者なんですか?」
「うん、私か? そうだな。わかりやすく言うのなら」
そう言って、小さく白髪を揺らす女性は、初めて立ち上がると、真っ白なスカートをひるがえした。
風もないのにふわりと空気をはらむドレスは、彼女の身体のラインを見せつけるように浮かび上がらせ、真っ赤な瞳は僕を見つめている。
「この『転生体』の持ち主にして、お前と同じく無様に死んだ(元)魔王の魂さ」
そう言って彼女は悪戯っぽく微笑んだ。