25話 慈しむべきもの
いい香りがする。嗅いだことのない花の香りだ。
大きく息を吸って、ゆっくり吐き出す。
意識的に瞼がけいれんして、重たい瞼をゆっくり開ける努力をするとそこは見慣れぬ天井だった。
「……んっ……」
ここ最近気絶していることが多いような気がする。
ゆっくり体を起こして小さく息をつくと、ノアは周囲を見渡した。
部屋だ。女の子の私室なのだろうか、見渡せばピンクを基調にした整理整頓された部屋が広がっている。
窓から零れる光は柔らかく、カーテンを揺らす風は心地よい。
壁に取り付けられた時計に目を向ける。
たぶん朝の七時だろう。魔王さまの支援がないから読めないけど。
すると、ため息にも似た魔王さまの声が頭に響いた。
『ようやく起きたか馬鹿者』
「うおっ、魔王さま……おはようございます」
『お前が寝落ちてから丸二日たった。わたしを起こすのはお前の仕事だろう、わたしを待たせるとは何事だ。――ったく心配したぞ』
本当に心配してくれたらしい。いつもはお仕置きの一つでも飛んできそうなのに、今回はやけに優し気だ。
ツンデレですか訳得です。
「――で、あれから僕はどうなったんですか? 奴隷商を壊滅させたところまでは覚えてるんですけど」
『記憶はあるらしいな。まぁおおかた、慣れない魔力の使い過ぎが原因だろう。久しぶりに魔力を通したことでお前の魂が驚いてフリーズしたんだ』
ああ、そういえば地下世界で魔王さまがおもしろ半分に魔力を使った時もそうなったっけ。
あの時は、夜になる前に目覚めたからよかったものを。危うく大地の肥やしになるところだった。
『とにかく目覚めたのなら、そこの娘らに礼でもいうんだな。お前の身体の世話をしたのは彼女らだ』
そういうとノアはすぐ脇に、二人の少女とシオンがベットの両脇に寄り掛かるようにして寝ているのが見えた。
月のようなブロンドの髪をベットに流し、小さく寝息をたてている。もう一人の女の子は茶色い長髪をぐしゃぐしゃにして口からよだれが垂れていた。隣には虎の耳の生えた少女が小さく身じろぎした。
『お前が運ばれてくるなり、大慌てで世話をしてな。身体を拭いたり、服を変えたりと彼女が世話してたんだ』
「えっ、あッ!?、本当だ」
言われてみればノアが来ているのはお手製の服ではなく。ちゃんとした清潔な寝間着だ。
魔王さまから徹夜の看病だったと聞かされ、さらに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
すると、一人でわいわい騒いだのがうるさかったのか、シオンの方から小さくうめき声が上がった。
ゆっくりと起き上がり、微睡む目蓋を擦るシオンと目が合う。
一瞬、虚を突かれた様に驚く彼女だったが、すぐにハッとなると身を乗り出すようにして近づいてきた。
「目が覚めたのね!? 目を覚まさないから心配してたけど大丈夫? どこか体が痛いところとかない?」
再会の第一声が他人への心配なんて、実に彼女らしい。
どうやら、頬に受けた傷は後に引いていないらしく綺麗に整った顔のままだ。
左右色の違うオッドアイはあの時とは違って隠されておらず、改めて見ると姉妹揃って綺麗な瞳だと感心させられる。
「おかげさまで絶好調。看病してくれてありがとうございました」
「そう、そっか。――はぁああああ、よかった」
ふにゃふにゃと椅子に腰かけ、大きく脱力する
本当に心配させてしまったらしい。ものすごく申し訳ない。
「えっとここは?」
「ああ、心配しないで。あなたは気絶してからすぐにここに運ばれたの。ここはわたしたちの御屋敷よ」
道理で広くて豪勢なわけだ。
外を見やれば、中庭で誰か遊んでいるのか子供たちの声が聞こえてくる。
「……えっと、それでわたしのことは覚えてる、よね?」
「ああ、地下世界でお世話になった」
「どっちかっていうと、助けられたのはわたしの方なんだけどね」
恐る恐る訪ねてくるシオンに大きく頷くと、シオンは安心したようにほっと胸を撫でおろした。
そういえばクローディアが名前を教えてもらえなくて残念がっていたと言っていたっけ。
そのせいなのか、あからさまに喜ばれてしまった。
「でもよかった!! お姉ちゃんから記憶喪失だって聞かされてたから覚えてないんじゃないかと思って心配してたの」
「記憶喪失になったのは、地下大地に入ったあとだから」
「あ、そうなんだ」
『……随分嘘がうまくなったな人間』
ちょっと静かにしてください魔王さま!!
ちょいちょい茶々を入れてくる魔王さまをいなしつつ、目の前で深呼吸を繰り返すシオンを見つめる。
どうやら緊張しているらしい。
頬を薄く染めて、小さく息を吐き出すとシオンは『あの日』の出来事を再現させる。
「――じゃあ、改めて自己紹介ね。わたしはシオン=ティタノエル。あなたは?」
「僕はノア。ノア=ウルム。あの時は避けちゃってごめん」
差し出された右手を握り、言葉を返す。
すると、シオンは首を大きく横に振り、花を咲かせるように表情を崩した。
「ううん。あんなところに住んでいたんじゃ人を信じられなくなるのも無理ないわ。それにあなたはちゃんと名前を教えてくれたじゃない。気にしてないわ」
「――うん、ほんとごめん」
主に全裸事件とか。
忘れてくれているのだろうか。いや忘れてないなこれ。
だって何か思い出して赤くなってるもん。絶対覚えてるよこれ。
『よかったな変態。まだまだお前の性癖は更新できそうだぞ』
『さらりと変態にするのマジでやめてください』
シオンに聞こえないように小さくごにょごにょ話していると、不思議そうに首をかしげるシオン。
すると向かいの方で扉をノックする鋭い音が響いた。
返事を待つことなく、ほどなくして扉が開いた。
入るぞー、という言葉の後にクローディアが四人分の朝食を持ってやってきたところだった。
ノアの顔を見るなり小さく声を上げ、そして柔らかく微笑んだ。
「おっ、やっと起きれるようになったか心配したぞ」
「ご心配おかけしてすみません」
「まったくだ、君が気絶したって知らせを受けたときは大変だったんだ。――主に我が妹が」
「ちょっと、お姉ちゃんッ!?」
「――うん? なぜかって顔だね? そりゃあ、うちの妹がもう手の付けられない怒りようでね。君が起きなかったらわたしはどんな目にあうかとずっと冷や冷やしていたよ」
持ってきた朝食を丸テーブルの上に置き、胸の前で腕を組み悪戯っぽく笑った。
まるで妹の焦りようを愉しむかのような微笑みに、シオンは小さく咳払いをしてクローディアの手から朝食をぶんどると、ノアに優しく手渡した。
お礼を言ってクローディアを見ると、小さく肩をすくめる彼女と目があった。トレイに乗ったスープをシオンに渡すと小さく苦笑している。
それでも未だに怒りが収まっていないのか、小さく頬を膨らませるシオンは大人しくスープを受け取ると、プンプンという擬音が付きそうな勢いで感情のままに食べ始めた。
「わたしの命の恩人なんだから心配するのは当り前です。ましてやお姉ちゃん? 脅迫まがいに連れてきたなんて聞けば怒るに決まってるでしょ?」
「ああ、あれはやっぱり脅迫だったんですね」
つい漏れた言葉に反応して、シオンの目つきがナイフのように鋭くなった。
ジロリと妹から睨まれ、姉の表情がわかりやすく硬くなる。
こんなこと考えるのは失礼かもしれないが、まるでイタズラのバレた子供みたいだ。
「おーねぇーちゃーん?」
「……ま、まぁわたしも社長として泣く泣く彼に試練を与えるしかなかったんだ。そう睨むな」
「お姉ちゃんがアレンさんに新人の力を試すのにはちょうどいいって言ったんでしょ? まだ研修も受けてない子にこんな危ないことさせて」
「チッ、アレンの奴告げ口したな。――まぁ結果的には何の問題もなかったんだ。そう怒るな、しわが増えるぞ?」
「なんですってえぇえッ!?」
ガシャンと食べ終えたスープの容器を、隣に置き立ち上がるシオン。
身長差があるため、大人と子供の喧嘩にも見えなくないが口喧嘩はドンドンエスカレートしていく。
傍から見ていれば面白い姉妹喧嘩だけれども、自分の行いのせいで二人が喧嘩するのはなんだか違う気がする。
肉入りスープと二人を交互に見つめ、どうするべきかオロオロしていると、頭のなかで囃し立てるようにせっつく魔王さまの声が妙に楽しげだった。
「いや、その……言いつけ守らなかったのは僕のせいですし、その。ご心配かけてすみませんでした」
真摯に頭を下げると、クローディアとシオンの喧騒がピタリと鳴りやむ。
キョトンとした表情で顔を見合わせてると、二人は小さく噴き出すして、それぞれ小さく笑いはじめた。
「いやはやすまない。どうやら君に気を遣わせてしまったみたいだ。仲間が増えると思うと嬉しくてつい、いつもの調子で会話してしまう」
「そう、あなたが謝るようなことじゃないわ。それに奴隷商を潰したことであなたが責任を感じることはないの」
「妹の言う通り。それについてはお咎めなしだよ。なにせ、うちの子供たちもあの連中に連れ去られていてね。君のおかげでこうして取り戻すことができた」
「――へっ?」
思わず顔を上げると、クローディアの指先が隣で寝ている女の子に向けられた。
これだけ五月蠅くしても幸せそうに寝息をたてている少女。
その子の右手は普通の人間とは比べ物にならないほどやや大きく。まるで爬虫類のような鱗が見え隠れしている。
「その子は見てのとおり劣等種なんだ。君があのまま助けに行かなければ、奴隷商のクソ野郎がどんな変態に売りつけるかわかったもんじゃない。……本当に感謝しているよ」
「そうね。……この子たちは劣等種ってだけで偏見の目で見られるから。誰もが見て見ぬふりをしてしまうの。……その見た目ゆえにね。だから、あなたが助けてくれて本当によかったわ」
「この子らを守るのはいつだって大人のわたし達なのにな」
呆れたように首を振って見せるクローディア。
健やかなれと願っていても、彼女らが安心して過ごせる場所は極めて少ない。
見た目が違うから。異端だから。
そんな些細なことで迫害され、心に傷を負う。
どんなに見た目が違っても、彼女らの心は人間と何ら変わりないというのに。
三人の慈しむような視線が二人の子供たちに注がれる。
「彼女らはただ単に魔族の因子を色濃く受け継いでしまっただけなんだ。……身体は普通の人間と何ら変わりない。そして、君にも話したろう? 魔族が世界を滅ぼした原因だと」
「はい、たしかそれで神様が世界を作り直したと」
「その神様が原因さ。みんな魔族の恐怖を遺伝子レベルで刻み込まれている。教会でも魔族の恐ろしさを教えているからね。また魔族が生まれるんじゃないかとみんな怯えてるんだ」
そう言って小さく笑い飛ばすクローディアに、シオンは気まずそうに微笑んだ。
「魔法や、亜人なんて存在のおとぎ話に大人が振り回されているの。……馬鹿みたいでしょう?」
「……そう、ですね」
「まったくもって馬鹿ばかりだよ。この世界は」
小さく頷き同意する。
本当に馬鹿ばかりだこの世界は。生まれてきた子供に罪はないのに。
小さな沈黙が流れ、気まずそうに俯いていると、柔らかく微笑むクローディアが唐突に柏手を打った。
「まぁそんなわけで、報告はアレンとその子から聞いている。入社前に大活躍だったな。この調子で仕事の方もガンガン頼む」
「もう、お姉ちゃん!? ノア君はまだ病み上がりなんだから無理させないで!!」
「私がそこまで外道に見えるか? 明日まではしっかり養生させるさ」
「絶対安静です!! ――もう、いまはまだ寝ていてもいいんだからね?」
どこか気持ちがふわふわする自分がいる。
それにこんな優しい言葉をかけられたのなんて久しぶりで、どうすればいいのかわからない。
ああやばい。緩む頬が止められない。
「はい、ありがとうございます。シオンさん。クローディアさん」
「――ッ。うん、まぁそうだな。とりあえず君の寝床も用意したから、のちほどメイド長にでも屋敷を案内させる。いまはゆっくり体を休めるといい」
小さく息をのみ、唐突に視線を逸らすクローディア。
慌てたように部屋を離れ、そそくさと部屋から出ると勢いよく扉を閉めたしまった。
何かおかしなことでも言ってしまっただろうか。
思わず首をかしげていると、その彼女の後姿を愛おしそうに見つめるシオンがいた。
シオンもノアの視線に気づいたのか、照れたように微笑むと、どこかおかしそうに口元を手で隠した。
「ふふ、あの子ったら照れっちゃって。あんなにまっすぐお礼を言われるのに慣れてないんでしょうね」
「慣れてないんですか?」
「……あの子は若くして周囲の大人から分家の当主に祭り上げられたの。だからそれ以来、すべての責任は自分にあるって頑張っちゃうって。……それが当たり前だーってね」
おかしいでしょ? と小さく苦笑して見せるシオンの言葉には心当たりがあった。
自分の価値を必死に見出すために一人で努力していた頃の自分と。だから誰かに頼ること、誰かにお礼を言われることに慣れていない。
「もしかしたら、クローディアさんは自分の大切なものの価値を周りに証明するために、頑張っているのかもしれません」
「そうなの? ……いえ、そうね。そういう意味ではあなたもきっと、あの子とおんなじなのかもしれないわね」
「同じ、ですか?」
「うん。私の見立てでは、あなたも全てを一人で背負い込んじゃうタイプだと思う」
そう言って右手に触れた小さく柔らかい手が温かくて思わず、顔がカッと赤くなる。
胸の奥では魔王さまがニヤニヤしてこちらを見ているような気がするが、いまはどうでもいい。
真摯な瞳から放たれる視線が、ノアに注がれる。
「だから忘れないで。ここにはあなたを苦しめる人は一人もいない。どんな苦しい時でも辛い時でもわたしたちがあなたの力になる。その準備ができてることを、心にとめておいてちょうだい」
「……シオンさん」
「ふふっ、シオンでいいわ。 ……そして、できることならあなたの口から頑張り屋のあの子に教えてあげて。家族なんだから、一人で頑張らなくてもいいよって。 ……わたしは、それができなかったから」
一瞬だけ垣間見えた彼女の苦悩を心に刻みつけ、恭しく頷く。
儚げに、ほっと吐息が漏れ、ノアから視線を外すとシオンは窓辺の方に視線を移した。
どこか遠くを見つめるように、目を細めるシオン。
きっと彼女にもノアにはわからない苦しみがあるはずだ。
それがどれほど大きな苦しみなのかはわからない。
けれども、助けたいと思ってしまった。
自分にできることがあるのなら精一杯、取り組もうと、
だから、いまは誰かのために力を振るおう。
それが正しい道なのかはわからない。それでも誰かを助けるその先に、彼女らの抱えた闇を払えるのなら、どんなことだってやってみせる。
新しい世界を見るために。ありきたりな結末の向こう側を見るために。
それが例え世界を相手取ることになっても、関係ない。
魔王さまと二人ならどんなことだって乗り越えられる。
一緒に、二人で。
『ふふっ、それはそれで面白いかもしれんな、人間』
少なくとも、この小さな子供たちが笑える世界にしたい。
「ありがとう、……おにいちゃん」
女の子の口から洩れる可愛い寝言に驚いて目を見張ると、シオンと目が合って小さく苦笑する。
ここ最近で、異世界の光と闇を見た。
人身売買に差別。偏見に心の闇。
一見、平和で明るそうなこの都市でも、人の闇は存在するらしい。
そこでは、生前のように奇異な目にさらされ、人に指をさされる生き方をしている子供がいる。
意気地なしの自分に彼らを助ける資格はないかもしれない。
それでも誰かが一歩勇気をもって踏み出せば、誰かを人の闇から救い出すことができることを知った。
ならば、この生き方は間違っていない。いまはそう確信できる。
「……どういたしまして」
むにゃむにゃと口を動かす女の子の髪をやさしく梳いてあげる。
この子達を助けられて本当によかったと心から思う。
指の間を滑る茶色い髪がさらさらとベットに散らばり、女の子はくすぐったそうに笑みを浮かべた。
その寝顔はそこいらにいる人と何ら変わりない『普通』の女の子ものだった。




