02話 邂逅
「つまらん人生だな」
たった一言、脳内で響く声に『人間』は『覚醒』した。
まるで強制的に覚醒するように命じられた声は、はっきりと人間の『魂』を揺さぶり現世に引き戻す。
辺りを見渡す人間。
首を動かそうにも、当然瞼の一つ、身じろぎの一つ打つことはできない。
かといってそこは、瓦礫に埋まっているのでもなければ、息苦しいさを感じる事もないだろう。
ただただ、虚無。何も感じないという奇妙な感覚が襲っているはずだ。
動揺がありありと伝わってくる。
広大に広がる視界はもはや何も映さず、普段の生活で感知できる感覚全てをはく奪されているのだ。
無重力空間に放り出されても、まだ何かしらの感覚を得られるかもしれない。
まぁ無理もない。
ただでさえ、一般人が命の危機にさらされる状況にいたのだ。発狂しなかっただけまずまずと見るべきだろう。
思考がぐるぐると回転しているさまは実に面白い。
現実的ではないというか、常識という枠を飛び越えるのに慣れているというのか。
……なるほどこれは確かに『普通』ではないな。
だからこそおもしろい。
自分がもしかしたら転生したんじゃないかなんて可能性、頭の固い常識人ならまず出てこない。
残念ながら、転生したら特典がもらえるとか、英雄になれる資格を手に入れたとか、そんなものはないが、まぁ話すだけなら面白いというものだろう。
向こうもそろそろ、壊れ始めてきたことだし、いい加減『話』が進まなければ『読者』も飽きてくるというものだろう?
……こんな感じか。いやはや何もないところに問いかけるのはやっぱり慣れないな。
「あーあー、聴こえてるかい人間」
◇
ノイズが走る。
それは確かな痛みを伴って、『身体』を刺激し、ぐずぐずに壊れかけた時間間隔を呼び起こさせた。
『目覚めて』からどれくらいたったのかなんてわからない。
なにをどう叫んでも声も出せない、身体も動かせなかった。
突然、鼓膜にではない。もっと奥底の『なにか』を震わせるような声が僕の中に響き渡った。
その声は、どこか時代を感じさせる威厳に満ちた声であり、柔らかくもあった。そんな凛とした『女性』の声。
聴こえている!! そう答えようにも声が出せない。
すると、暗闇だった空間が不安定に動き出した。
真っ黒で何も見えず、感じることのできなかった自分自身の感覚がよみがえっていくような奇妙な感覚。
確かな質感を持って変質しだす『それ』は意志を持つように蠢き、形作っていく。
まるで、自分自身の『何か』が酷く弄ばれているような、鋭い痛み。
他人に土足で踏み込まれた部屋のような不快な感覚が、僕のなかを踏み荒らしていく。
そして、気付くとそこには真っ白なテーブルが置かれてあった。
『無意識』に瞬き一つ打って、初めて気づく。
「身体が、ある」
手触りのいい真っ白な座椅子に座らされ、目の前の視界がクリアに、はっきりと伝わってくる。
網膜を焼く光景は暗闇なのにひどくはっきりと明るく、脳にまざまざと情報を伝える。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、そしておそらく味覚まで、自分のものであることがはっきりと感じ取れる。
まるで今までのことが全て夢だったような感覚に、慌てて顔や胸に手をやり、はっきりとした質感が伝わってきた。
――あったかい
ホッと胸を撫で下ろし、正面をゆっくり見つめると、『それ』はいた。
なにもいない。なにもいない、はずだった。
「ひさかたぶりの身体はどうだい、人間」
「え、はっ――!?」
静かな、落ち着いた声。
先ほどまでは確かにいなかった。
いつ現れた?
そんな疑問すら消し飛ばすほど、目を離せない存在感のある女性が向こう側に座っていた。
この世全ての、色を洗い流したような純白とでも表現すればいいのだろうか。
風も吹いていなのに流される長髪はどこまでも荘厳で、生物としての『格』が違うと、たった一言聞いただけで本能的に理解するほどの存在。
純白のドレスに、白く長い髪。深紅に輝く瞳さえも。この『女性のもの』だからこそ美しく感じられる。
そんな光にも似た衝撃が、身体に走った。
まるでそれは――
「人間。初対面の者にどういう印象を抱くかは勝手だが、化け物はいいすぎやしないか」
読まれた。心を。それも声に出すよりも早く。
「そう慌てることはないさ人間。別に取って食おうなんて考えていないから、落ち着きなって」
優雅にティーカップに口をつけ、苦笑を浮かべる白髪の女性。
ただものじゃないというのは雰囲気でわかる。というか、いつの間に出てきた紅茶をうまそうに啜っている。
まるで『自分の家』にいるような落ち着きっぷりに、つられて落ち着いている自分がいるのに気づく。
「いい子だ。肝が据わっている分、不慣れな事態にもすぐ順応できる。よい才能を持っているな」
「は、はぁ」
「それに、すぐに思考を巡らせている癖をつけているな? なかなかずいぶんと面白いことを考えるものだ」
そう言って小さく笑うと、今度はあるはずのないクッキーを口に運んで、紅茶を口に含んだ。
おいしかったのか、一枚二枚と減っていくクッキーを眺めつつ、次に白髪の女性を見ていると、彼女の深紅の瞳と目があった。
「ここがどこだか知りたい、か」
またまた言い当てられて、奇妙な焦りと共に背筋が伸びる。
確かに、ここはどこだとか、貴女は誰とか、考えたりもした。それをどうしてこの女性は看破できるのだ。
僕のことを全く知らない彼女。そのくせ、その表情はボクのすべてを知っているよう穏やかだ。
これじゃあまるで、綾香さんの言っていたような近年売れている転生小説に出てくるお決まりのパターンみたいじゃないか。
転生した主人公が転生前の手続きで、色々説明されるシーン。
神様はすべてまるっとお見通しですとでも言いたげな、その表情。
自信に満ち溢れた表情は、どこまでも僕の心を見透かしているようだ。
途端、白髪の女性はクッキーをかみ砕くと、小さく苦笑してひらひらと手を振った。
「考えふけるのもいいが、いい加減物語が進まないと読者は飽き飽きしてくるぞ、人間よ」
「は、ど、読者?」
「ふふッ、まぁ人間にはわからぬだろうが、何事も流れ、というものがある。思春期の男児でもあるまいし、いい加減もじもじせず質問の一つでもしてこんか」
それは、あれか。もっと年相応とかそういう――。
「女の一つも口説けずなにが大人だ、という話だ。酒やたばこ程度呑める年齢になったからと言って、中身が変わらねば意味ないわ」
酷い。
確かに、色々とコンプレックスはあるもの、そこまで言われるとは思わなかった。
「第一、私自ら用意してやった物に未だ警戒して、手を付けないというのはどうかな、人間?」
そこで初めて、義幸は紅茶に視線を落とす。
何の変哲もないただの紅茶。ティーカップが特別なわけでもなく、紅茶が変な色をしている訳でもない。
どこにでも売っていそうな、当たり前の紅茶だ。
「人に信用してもらいたければ、それなりの誠意というものを見せねばはじまらぬぞ」
そう言われてしまえば、弱い。
実際、あの暗闇の空間の中、ここがどこで、どうなっているのか。いつまで一人でいなければいけないのか。
感覚のないまま過ごしていたら間違いなく発狂していただろう。
『彼女』が初めて声をかけてくれたから、こうしてぎりぎり平常心を保っていられるのだ。
彼女が毒を入れるメリットなどない。
でもそう信じられないのは、ひとえに自分の弱さが勝手にイメージした偏見に過ぎない。
口には出していないが、どれだけ救われているかなど十分わかっている。
恐る恐るティーカップに口をつけて、無作法ながらも紅茶を煽った。
程よい温度に調節された紅茶が甘く喉を通り、ほんのりと柑橘系の匂いが鼻に抜けいく。
そして、その懐かしい感覚に僕は思わず目を見開いた。
「これはッ――!?」
「飲んだことがある、か。まぁ当然だろうな。……む、空か」
まるで予期した答えのように、さらりと紅茶を啜る彼女。
空中で左手をかざすとガラスのティーポットが現れ、彼女の空いたティーカップに紅茶を注いでいく。
そしてそのガラスのティーポットは見覚えがあった。
母が愛用でよく使っているものだ。しかも、中身も最近嵌まっている市販のティーバックだ。
どうして貴女が、そう口にする前に、彼女の口から真実が告げられる。
「人間。お前はな、一度『死んだ』んだ」
「は?」
あまりにも突然の言葉に、僕の思考は完全に静止する。
そのことを予期していたのか、目の前で優雅に紅茶に口をつけた彼女は小さく頷いてから、ティーカップをテーブルに置いた。
「そう、お前は一度死んだよ」
「死ん、だ? じゃあ、あの光景は夢じゃなく――」
「お前の考えは間違っておらぬよ。おおよそ想像通り、『三守義幸』は何もできず無様に惨めったらしく生きもがいて死んだ。――ほら、あそこを見てみろ」
顎をしゃくるようにしてあらぬ方へ視線を飛ばし、つられて彼女の示す方向に視線を移す。
そして、おおよそありえないことが起こって、絶句した。
「あれは、――僕?」
「まぁ、その記録とでもいえばいいか」
補足する女性の声など関係なしに、誰かの悲鳴が耳朶を打った。
映画のスクリーンのように真っ黒な空間に映し出される、あの凄惨な災害の映像。
視点が僕のものになっているからか、地面を虫のように這いずり回っているが、それでも『あの時』の
苛烈さはありありと伝わってくる。
いや、大画面に映し出されている分、普段意識しなかった全てが映像となって、映し出されている。
白目をむいて、建物に押しつぶされている男。
子供を庇うようにして倒れる母親。
街路樹は掘り上げるように、根元から折れ、信号も、ビルも飴細工のように歪み、折れて倒れていく。
大音量で響く轟音に交じって上がる人の悲鳴だけは、はっきりと聞こえ、耳を覆い隠したくなるほど不快だ。
全てが僕の記憶。
全てが僕の記録。
そしてその記憶は、断崖に飲み込まれてあっけなく消えた。